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第十九章:其の四:外伝一章 幸代の場合

 幸代は正直なところ、あの居間の空気の中で居続けることはできなかった。一人になってようやく、息ができるような気さえする。あの濃密な空気の中でいつものように明朗な高梨だけが異質にも見えるし、溶け込んでいるようにも見える。ただ、幸代は、その場の粘度に耐えることができなかった。  野菜を選別しながら、高梨がなにを作ろうとしていたのかを探りながら、ひとつひとつ丁寧に水洗いする。何かの煮物か、それとも焼くか、と考えながら、何処かで意識は居間へと向かう。  水の音、野菜を洗う音、自分自身が立てる音が居間からの音をかき消して、幸代はほんの僅かな時間、無心になることができた。  全ての野菜を洗い終えて、さて、材料を切る作業に入ろうか、と思ったとき、居間の方から少し大きな音が聞こえてきた。幸代は思わず障子へと駆け寄り、開けることを一瞬ためらってしまう。聞こえてくる音は、何かが起きた音じゃない。なにかが起きていた音だったから。  幸代の耳に届いたのは、まず、高梨の声。聞いたことがないほど柔らかく小さく、艶めいた……。さらり、と衣擦れの音がして、誰かの手のひらが肌を滑る音。それだけで、幸代はその向こう側で何が起きているのか、察してしまう。 「先生、まだ向こうにさっちゃんが……、っ、」  囁くような上擦った声が高梨のものである、と気が付くまでに間があったのは仕方がない。幸代は聞いたことがない声だったからだ。障子の僅かな隙間から光が漏れている。  幸代は逃げるためなのか、それとも障子の向こうを少しでも見ようと思ったのか、体の向きを変えた。ただそれだけで、隙間からは更に奥が見えてしまったのだ。高梨を抱きしめる荻窪の横顔、荻窪に抱きしめられている高梨の横顔を。  高梨の白いシャツの釦(ぼたん)を外したその肩口に、荻窪が唇を寄せていた。 「だめですよ」と言いながらも高梨の手は、荻窪の肩に留められている。  高梨の表情はどこかうっとりとして、荻窪のそれを拒んでいるようには見えなかった。幸代は思わず両手で口元を覆ったその、僅かな衣擦れの音に高梨の瞳がゆらりと開く。  障子の隙間から、高梨の瞳が幸代を捉えた。静かにひたりと。それでいて、視線があったのはほんの数秒もなかっただろう。しかし、その短い時間で高梨は伝えてきた。 「これが自分だ。荻窪に魅せられているから出せる自分だ」と。  幸代は、視界が滲むのを感じ、小さくかたりと音を立て、そのまま台所から玄関へと足を向けた。これ以上ここには居られなかったからだ。  高梨のあの、艶めいた姿、それを許容する荻窪。二人の世界はあまりにも濃すぎて。幸代は耐えきれなかった。両手を持ってしても支えきれないほど濃密な二人が、そこにいた。  幸代は荻窪の家から抜け出して、通りを駆け抜ける。歩く速度では、なにかが追いついてくるのではないかとさえ思えた。  怖い、悲しい、痛い、苦しい。  高梨の知らなかった一面を隠すこともなく見せられて、幸代は呼吸するのもままならず、道端に転がった。  幸代は転んだことで体の痛みがきっかけになったかのように、ぼろぼろと涙があふれ出してきた。痛い、転んで打った膝も、心も、全部痛い。  涙を何度拭っても止まらない。高梨が見せたあの瞳。見えなかった荻窪の表情。だけど、高梨の背中にしっかりと回された荻窪の、筋張った大きな手がすべてを物語っている。  おにいちゃんは、幸代の初恋のおにいちゃんは、もういなかった。少なくとも、あの荻窪の家には明朗活発な高梨はいない。  荻窪に魅入られ、自ら足を踏み入れた妖艶な青年がそこにいた。  幸代は、小さく温めていたと思っていた、いつか渡せると思っていた想いはもう、粉になり風とともに飛んでいくのが見えた。もう、おにいちゃんは戻らない。ただ、それだけが幸代の中で事実として残るだけだった。  ***  かたり、小さな音を立て幸代が台所から立ち去る姿を見た荻窪が、高梨を見下ろした。 「駆流、いいのかい?」  少し低めの温度の声色が、なにを、どれを、説明しなくても物語っている。 「康路(やすみち)さん、わざとなのでしょう?」  僕はもう、あなたのすべてを許している人間だから、とでもいうように、高梨は薄く笑うと荻窪の唇にそっと唇を寄せた。  ──外伝 幸代の場合。

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