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第ニ十章:其の二:外伝二章 香世の場合
荻窪はのっそりとおでこを抑えながら、いつものようにカウンター席へ腰掛ける。
「香世さん、ほらここ、赤くなっているだろう?」
乱れた黒髪をかき上げてぶつけた場所をこれでもかと見せつけてくるが、香世はすでにそこに目を向けていなかった。
足元には黒猫のみけ。
「ほら、お腹が空いたろう? ごはんをお食べ。」
「香世さんはいつもこうだ……私が怪我をしても無関心なんだから……。」
などとぶつぶつつぶやく荻窪に、香世は無視を決め込んだ。
「美味しいかい? みけや。」
柔らかな黒い毛並みをそぅっと撫でると、みけはそれに答えるように優しい声で「にゃあ」と返す。
香世はみけを店とつながる自宅の方へと送ると、改めて荻窪へと向き直った。
「ほら、先生も水を飲みな。」
暑い中しゃがみこんで待っていたのだ。それも、いつから待っていたのか分からないけれど。
「さすが香世さんだ、冷えた水をありがとうね。」
荻窪はにっと笑うと一気にそれを飲み干した。喉は確かに乾いていた。暑い中、みけと戯れていた時間はどれほどだったんだろう。
自宅のちびの青い瞳も綺麗だが、黒猫のみけの金色の瞳もまた神秘的だ。月のように闇色の黒とよく合う。
「で? 今日は? なにを食べに来たのさ? それとも、なにか話しに来たのかい?」
香世は材料を取り出して手早く洗いながら、どうでもいいことのように荻窪へと投げかけた。この男、本当にいつもどうでもいいことまで話していくから。
「ああ、少し腹が減ってね。香世さん、なんでもいいからちょっと食べさせてくれないかい?」
はは、と笑いを漏らした荻窪は、自身の腹をポンポンと叩いてみせた。
こんな時、香世はすぐに気がつく。締切の直前だったんだろうと。どうせこの数日まともになにも食べてやしないんだろう、と。
「なら少し待っときな。」
ささっと作れるものを頭の中で考えながら、材料を手にとって包丁で刻む。
荻窪はただそれを黙って見つめ、汗がぽたりと顎から落ちた。
とんとんとんとん、ことこと、グツグツ、料理をする音だけが静かに響く。
火を使うのはこの夏場には正直きつい。暑いなんてもんじゃない。
香世は手ぬぐいでそっと自身の汗を拭いながら、荻窪に目をやった。
ぽたりぽたり、荻窪の顎から汗が流れ落ちている。見ればガラスのコップに入った水は空っぽで、それでも作業の手を止めぬよう黙っていたのかと、香世は仕方なしに水をつぎ足して荻窪へと差し出した。
「あんた、なんで今日はひとりなんだい?」
香世はとくに気にするでもなく、いつも荻窪の隣にいるあの快活な男を思い出していた。居れば恐ろしく賑やかというにはうるさすぎるほどの騒音が、今日はいないせいで、ひっそりとしている。
「ああ、またあんた、高梨さんにいたずらしすぎて怒らせたんだろ? いいよいいよ、いつものことじゃないか、返事しなくたってそれくらい分かるさ。」
香世は質問を投げかけておきながら、荻窪の答えを待つことはしなかった。大抵の場合、あのうるさい青年が姿を見せないのは、理由が決まっているからだ。
香世の言葉を聞いた荻窪は、少し気まずそうに咳払いをしてもごもごと口の中で言い訳をする。
「いたずらだなんて……そんなひどいことをする大人がいるかい?」
香世はちらりと荻窪を見て、そこにいるじゃないか、と暗に存在を示してやる。
香世はいつも答えを待たない。待つのは、待たなければならないと思ったときだけだ。待っていたら料理が焦げてしまう。
じゅわ、と油で炒める音を響かせて、あの高梨某に思いを馳せる。あの男、そういやいつも一緒にいるね。先生、先生と子犬のようについて歩く。そんな印象の男だ。
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