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第ニ十一章:其の二:外伝 三章 ちびの場合
おっさんの家にはいつも誰もいなかった。あたちはいつもおっさんと二人で、静かに過ごしていることが普通だったの。
でも、時々知らない人が顔を出すことを知った。
例えば、おっさんよりも年上の、よれよれにくたびれたおじぃじ。
それから、いつも美味しそうな匂いがしている、おばちゃん。
おっさんが、来るたびになんかそわそわするたかなし。
たまぁに来るから、この人たちはかち合うことがほとんどないんだけど、あたちはいつもたまぁに来るこの三人を見ていたのよ。
たかなしはね、とってもいい匂いがしたのよ。
温かくて優しくて、どこか悲しそうな匂い。あたちがそばにいてあげなくちゃ、そう思うような匂いがしたの。
だからあたちはたかなしが大好きなんだけど、おっさんがたかなしを追い出したことがあったのよ。
あのときは、おっさんを噛んでやろうと思ったんだから。
でも、おっさんがいつもよりもずっとずっと悲しそうで、淋しそうで、あたちは思い切りひと噛みしただけで、一旦は勘弁してあげた。
白くて寒いものが空から降り始めた時から、水に変わるまでの間、たかなしは来なかったの。
あたちは絶対おっさんがなにかやらかしたんだって思って、暴れてやったんだから。
たかなしが来なくて淋しいのは、おっさんだけじゃないのよって教えておかなくちゃね。
おっさんがいつも向かっている台にも、当然あたちは乗ってやったの。紙があったから、びりびりにしてやったなのよ。
少しはおっさんも懲りたはず。
でもね、おっさんが本当に台に向かってお仕事を始めると、あたちは一人ぼっちになるの。
いつもはたかなしがいるのに、なんでいないの?
たかなしはこっちにいるの?
台所の奥にある部屋に、隠れているの?
探して鳴いてみたけど、たかなしはどこにもいなかった。
ごくたまに、よれよれのおじぃじが来るとき、おっさんはいつもと少し、雰囲気が変わる。まるで、おかあさんに怒られるときのあたちみたいになるのよ。
「康路くん、あ、いまは荻窪先生か、最近はどうだい?」
そう言いながら、おじぃじはおっさんが淹れたお茶を啜る。美味しそうに目を細めるけど、あたちはあの「お茶」の味が分からない、まずいだけじゃないのよ。
「きみのお祖母様には、随分世話になったもんだからね。──このお茶の味は、お祖母様の味と一緒だ。」
おじぃじは懐かしそうに、お茶をごくんと飲んだ。あんなに湯気が出てるやつを飲めるなんて、只者じゃないなのよ。
「編集長、私は祖母には及びませんよ。」
おっさんが恥ずかしそうに、笑ってみせる。あたちには隠せないのよ、おっさんはいま、困ってるのよ。
「編集長」と呼ばれたおじぃじは、おっさんの横に座るあたちを見て、少し安心したように笑ってみせた。
そんなんじゃ、あたちは誤魔化されないんだから。
「猫と暮らすのも悪くないだろう。」
おじぃじが手を伸ばしてきたから、思わず避けたけど、たかなしと同じようにインクの匂いがした。
たかなしと同じインクの匂いは、あたちの中でたかなしを呼び起こすも同然だ。
おじぃじはたかなしと同じなの?
「ええ、この子はなかなかお転婆ですけどね。」
おっさんがあたちの頭に手を乗せる。
いつものように大きくて温かい手が、今日は少しだけ空気を誤魔化すように、わざと強めにあたちの頭をかき混ぜた。
ちょっと、何するのよ! 痛いじゃないのよ!
ばし、とその手を叩いてやる。
あたちがいやっていたら、いやなのよ。
ふん、と鼻を鳴らすと、あたちはふい、とそっぽを向いた。
「確かにお転婆そうだな。」
おじぃじはそんなあたちに笑顔をこぼす。
「雄二郎くんも猫が好きだったが、きみも猫を飼うようになったとはね。」
お茶を啜るおじぃじが、少しだけ淋しそうにつぶやいた。
なんなのよ、「ゆーじろー」って。
おっさんもいつも、着物に「ゆーじろー」って声をかけてたし、この家に来るたかなし以外が「ゆーじろー」を知ってるみたい。
「ちびは、うちに迷い込んだ迷い猫だったんですよ。」
おっさんがあたちを抱き上げた。
すっかりぷくぷくに太ったあたちのお腹をおじぃじに見せつけてから、膝に乗せる。
「きみの性格なら、捨て置けなかっただろうね。」
当然でしょ、おっさんはこう見えて、優しいんだから。救えるものなら何でも救いたいけど、自分の容量を見極めているから、できないんだっておっさんはあたちに言ってたのよ。
意味なんて、知らないけどね。
「しかし、きみがこうして一人じゃなくなったことに、安心したよ。──お祖母様にも面目が立つな。」
おじぃじはそう言うと、ゆっくりと立ち上がる。
やっぱりたかなしと同じように、インクの匂いがした。
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