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僕と絵画とジントニックと

「なんでアナタは……なにをやってもダメなのよ!」  羊真(ヨウマ)は少しだけ不器用だった。  どれだけ勉強しても、テストで百点を取れなかった。 「〇×□は本当に賢い子ねぇ。それに引きかえアンタは……」  弟が一人いた。  彼は、なにごとも卒なくこなす器用な少年だった。  母に弟と比較されるたびに、羊真は()れたシャツの裾をギュッと握りしめた。  生じた歪みは、羊真の人間関係に大きな影響を及ぼした。  ひどく自尊心を損ねた羊真は、なにごとも相手に合わせるようにしていた。  お笑い芸人が好きな友達のために、テレビ番組を録画して、家族がいない間に観たり。  漫画が好きな友達のために、本を借りて読んだり。  それ以外の時間は、すべて勉強に当てた。  誰かのために、羊真は自分の意志を殺し続けた。    ***  中学にあがったころ。  友人関係に疲れきった羊真は、自宅から少し離れたところにある図書館に入りびたるようになった。  学校では独りぼっち。  家に帰れば優秀な弟と比較される。  自身を取り巻く環境に、羊真は疲弊したのだった。  ある日。  桜が落ち、新緑が芽を出しはじめたころのこと。 「絵、好きなの?」  いつものように図書館で本を読んでいた羊真は、声をかけられた。  若い司書だった。 「は、はい」  絵画の画集を開いていた羊真は、少しとまどいながら返事をした。 「あはは、突然声かけちゃってごめんね。いつも熱心に本を読んでるから、気になってさ」 「は、はぁ」  羊真は司書に合わせて愛想笑いをした。 「もしかしてさ、美術部だったりする?」 「いえ、僕は……部活動、入ってないです」  勉強に時間を割くようにと、母から部活動を禁止されていた。  事実を隠すように、羊真は顔に笑みを張りつける。 「たまたま図書館で〇〇の画集を見つけて。それで、綺麗だなぁって思って」 「そうなの? ……だったら、こういうコンクールがあるのは知ってた?」  司書から手渡されたのは、デザインや絵画のコンクールのチラシだった。  学校の廊下に張られていたのを、羊真は覚えていた。 「知ってます。けれど、絵なんて描いたことないので」 「そう? ……でもまぁ、もらうだけもらってくれないかな?」  断れなくて、羊真はチラシを受け取った。    ***  その日の夜。  勉強机の照明だけが、羊真の自室を照らしている。  デスクに置いたチラシを、羊真はじっと見つめていた。  テーマは「夢」。  今までの受賞作であろう絵が、いくつもプリントされている。  夢……僕の夢って、なんだろう。    ***  それから十数日が経ったころ。  羊真は大きなカバンを肩にかけて、図書館へ向かった。 「こ、こんにちは」  うわずった声で、羊真は司書に声をかける。 「あぁ、こんにちは。なんか、久しぶりな気がする」  司書が歯を見せるように笑った。 「実は、このまえ勧められたコンクールの絵、描いてみたんです。まだ下書きなんですけど、見てくれませんか?」  くるくる巻いた四つ切り画用紙を、トートバッグから取り出した。  輪ゴムを外して絵を広げると、紙のよい匂いが立った。 「……家の中?」 「そうです」  真っ白な画用紙に鉛筆で描いたのは、羊真が住む家のリビングだった。 「すごいね」  司書の言葉に、羊真は「へっ」と頓狂な声をあげた。 「本当に、絵を描いた経験ないの? とてもそうには見えないよ。……いい目を持ってるんだね」 「目、ですか?」  きょとんとした表情で訊ねると、司書が頷いた。 「いい絵が描ける人はね。みんな観察眼が高いんだ。描く人や物がどんな形をしているかだけじゃなくて、どうしてそこにあるのか? どういう気持ちなのか? ってこともわかる人なんだよ。……すごくいいと思う。これから色づけするんだよね?」 「はい。水彩絵の具を使おうと思っています」 「完成したら絶対見せてよ」 「はい!」  心から嬉しくなったのは、久しぶりだった。  勉強も、運動も、まるでダメだった自分が、絵を褒められた。  ……これならきっと、お母さんも認めてくれるはず。  羊真にもいいところがあるって、お母さんも認めてくれるはず。  新緑の青い香りを吸いながら、急いで帰路についた羊真は、嬉々とした表情で母を呼びとめた。  「なに⁉︎」と不機嫌な声を返されても、羊真はひるまず続ける。 「コンクールに出そうと思ってさ。絵を描いていたんだ! 図書館の司書さんに褒められたんだよ」  羊真は画用紙を広げて、母に手渡した。  少しの間、母が無言で絵を見つめる。  やっと褒めてもらえる。  頑張ったね。と優しい言葉をかけてくれる。  『家族とずっと幸せでいたい』  ……その想いを、受け取ってほしかった。    羊真の耳を刺したのは、紙を破る音だった。 「……夜中になにかやってると思ったら。こんなくだらないことをしていたの?」  真っ二つに裂かれた画用紙が床に落ちる。  羊真はその様子を呆然と目で追った。 「いい? 無駄なの。こんな落書き、なんの役にも立たないの。……ねぇ、どうしてアナタは無駄なことばかりするの? だから〇×□より成績が悪いのよ。……役立たず」  項垂(うなだ)れた羊真は、口元に自虐的な笑みを浮かべた。 「うん……そうだよね。絵なんて……無駄だった。ごめんなさい」  羊真は絵の前で座り込む。  母はその横を過ぎ去ってしまった。  縦に一度だけ裂かれた画用紙。  コンクールには提出できないかもしれないが、修復できるだろう。  羊真は二片まとめて拾うと……それを破った。  見られたくないものを隠すように。  細かく、細かくちぎった。 「あぁ……もう、なに散らかしてんの」  戻ってきた母の呆れ声を背に受ける。 「うん。……いま、片付けますから」  強張った口調で返した羊真は、紙の破片を握った拳に、さらに力を込めた。    ***  高校を卒業し就職した羊真は、相変わらずだった。  『自分はまるでダメな奴なんだから、文句をいわずに働かなくちゃ』  ……みずからの呪いによって、他人のために頑張りすぎた。  自分の容量を超えた仕事を任されても。  無理な残業を強いられても。  酒の席で飲むよう勧められても。  にこやかな笑みを顔に張りつけて、羊真は頷いた。  ある日。  仕事のために残業をし続け、ついに終電を逃してしまった。  途方に暮れ、一人で夜の街を彷徨った。  その果てに、羊真はある店を見つけた。  綺麗なバーだ。  いつか図書館で読んだファンタジー小説に登場しそうな、石づくり風の外壁。  看板は吊り下げ式で、筆記体で店名が書かれていた。 「いらっしゃいませ」  吸い込まれるように入店した羊真は、ドアベルの涼しげな音と、男の渋い声に出迎えられた。  艶のある木製のカウンター。  その向こうに、『この人なら美味しいお酒を作ってくれる』という確信をもてる初老のバーテンダーがいた。  間接照明に照らされながら、羊真は恐る恐る店内へ足を進めた。  誰もいない。  裏道にひっそりと建っているので、まさに知る人ぞ知る店なのだろう。  低い背もたれがついた、黒革のカウンター席に腰をおろす。 「何になさいますか」 「えっと……実は、バーなんて初めてで」 「それでしたら、ジントニックがお勧めですよ。ジンとトニックウォーターに、ライムを加えたカクテルです」 「では、それを」 「かしこまりました」  ジンもトニックウォーターもわからないまま、羊真は注文した。  提供されるまで、羊真は音楽に耳を傾ける。  洋楽だ。穏やかなリズムと優しい歌声が、店内の雰囲気と見事に合っている。 「お待たせしました」  羊真の前にグラスが差し出された。  たっぷり入れられた氷の間をかきわけるように、数多の泡が登ってゆく。  一片だけ添えられたくし切りのライムが鮮やかだ。  ロンググラスを持ちあげる。  カラン——  気泡ひとつない氷がぶつかる心地よい音だけが響く。  どう飲んだらよいかわからず、羊真は少量だけ口に含んだ。  最初に感じたのは、柔らかな苦味だった。  そのなかに甘味と鼻腔を突き抜けるような爽やかさを見いだす。 「美味しい」  無意識のうちに呟いた。 「ありがとうございます」  バーテンダーが口もとに笑みを浮かべた。  その時。  来客を知らせるドアベルが鳴った。 「いらっしゃいませ」  男性が目もとを綻ばせた。  まるで、顔見知りにでも会ったかのように。  羊真は振り返らず、足音で客の様子をさぐる。  革靴っぽい音だ。男の人かな。きっと僕より背の高い—— 「隣、いいですか?」 「へっ? ……は、はい」  まさか声をかけられるとは思わなかった。  羊真はびっくりしながらも、体に染みついた習慣から反射的に承諾した。  その人物の姿を見た羊真は、(まるでモデルみたいだ)と心の中で呟いた。  墨のような艶のある髪。  切れ長の目の奥で、黒曜石のような瞳が静かな光を湛えている。  紺のジャケットに、淡い青のタートルネック。  さりげない銀のフープピアスが、照明を受けて輝いていた。  (あで)やかだ。  男性をそう表現すべきではないとわかりつつも、この言葉でしか彼を言いあらわせない。 「ここは初めてですか?」  落ち着いた声色に、春風のような優しさを感じる。 「え、えぇ」  羊真はながらこたえた。  男性が頼むより先に、バーテンダーがお酒を用意しはじめる。  やはり彼は常連らしい。 「すごく……素敵なところですよね。外観に釣られて、つい入っちゃいました」 「俺もそうでした」  男性が笑顔を見せてくれた。  ……あぁ、素敵だ。  同性の羊真ですら虜になる。  男性の前に出されたのは、おそらくウイスキーだ。  背の低いグラスの中に、月のように真ん丸な氷が鎮座している。  その周りを囲むように、琥珀色の液体が静かに沈んでいた。 「おいくつですか」 「二十一です」  羊真は正直にこたえる。 「俺も二十一です」 「えっ」  羊真はびっくりした。  丁寧な立ち振る舞いが、とても同じ年だとは思えなかったから。 「二〇××年生まれですよね?」 「はい、そうです」 「じゃあ敬語なんてやめちゃいます?」 「えぇ、そうしましょう。……じゃなくて、そうしよう」    ***  他愛もない話に花を咲かせる。  この時間が、羊真には尊いもののように思えた。  温和な声と佇まいの彼には、なにを話しても許されるような気がした。  実際、彼はじっくりと話を聞いてくれた。  たとえ羊真が話の途中で噛んだり、どもったりしても、最後まで聞いてくれた。  さらに会話が膨らむような質問を振ってくれるので、談笑が途切れることはなかった。  なんて素敵な人なんだろう。  一時間も経つころには、羊真はすっかり彼に夢中になっていた。  会話を重ねるたびに、知性や気づかいを感じたから。  あぁ。こういう人を『優秀』というんだろうな。  僕みたいなダメなヤツと正反対の、とっても素晴らしい人。 「実は終電を逃してしまって……家に帰れないんだ」  羊真はポツリとこぼした。 「だからこのあと、ホテルを探さなきゃいけなくて。……ねぇ、士狼(シロウ)くん。このあたりに安いホテルなんてあるかなぁ」  そう訊ねると、男性……士狼は、こうこたえてくれた。 「ホテルなんてとらなくていい。この近くに俺の家があるんだ。一日くらい泊めてあげるよ」  羊真は首を横に振る。 「そんな、悪いよ」 「いいよ。せっかくここで会った縁だしさ」  「それに」と士狼が言葉を続ける。 「もっと羊真と話したいんだ」  それがどれほど嬉しかったか。  自分との会話を、彼も心地よく感じてくれたなんて。  彼の思いにこたえなくては。   「うん。……じゃあ、お言葉に甘えちゃおっかな」  羊真は頬を紅潮させながら、あどけない笑みを浮かべた。

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