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過去:僕らと時計と目玉焼きと
「いただきます」
付きあって三年が経ったころ。
糊の効いたスーツを着ている士郎 が、朝食を食べはじめた。
……この三年で、羊真 の環境は大きく変わった。
まず、士狼が大学を卒業し、就職した。
頭も器量もよい彼のことだから、きっとよいところに入るのだろうとは思っていたが……まさか、誰もが知るような大企業に決まるとは思っていなかった。
次に、羊真が仕事を辞めた。
士狼が言うには「終電を逃すまで仕事をさせる職場はおかしい」らしい。
彼が言うなら間違いないと、今は飲食店で短時間のアルバイトをしている。
最後に……羊真は士狼と同棲を始めた。
自分と一緒に住みたいと言ってくれたのが、とても嬉しかった。
初めて本物の家族ができたような気がした。
テレビでニュースを見ながら朝食をとる。
ニュースキャスターがいやに真剣な表情で原稿を読み上げる。
『今月⚪︎日、××区で、道路を一人で歩いていた二十代の男性が、車で連れ去られ、性的暴行を加えられたと——』
珍しいと思った。
男性が被害に遭ったなんて。
「他人事じゃないからな」
やや強い口調で士狼に諭される。
「××区って隣だし、こっちにくる可能性もあるからな」
「うん、わかってる」
そう返したものの、羊真はテレビニュースを、どこか遠くの世界で起こったことのように感じていた。
***
羊真が働いているのは、とあるファミリーレストランだ。
いつも四時間くらい働く。
今日は午後十二時に出勤し、午後四時に帰宅する予定だった。
二時をすぎたころ。
「ごめん、羊真くん!」
ホールスタッフとして働いていた羊真は、店長に呼び止められた。
「四時に来る予定だった⚪︎⚪︎さんが胃腸炎になっちゃったみたいでさぁ。四時間延長してもらっていい?」
「いいですよ」
反射的な速度で羊真は承諾する。
「ありがとう! 助かった!」
手を合わされ、オーバーな礼を言われ、羊真はすこしたじろいだ。
休憩に入った羊真は、カバンからスマートフォンを取り出し、士狼へメッセージを送る。
『ごめん。店長にお願いされて、四時間だけ残ることになりました。冷蔵庫に残ってるごはん温めて食べててね』
「これでよし、と」
軽く文章を読み返した羊真は、送信ボタンをタップした。
***
午後六時頃。仕事を終えた士狼は、スマートフォンに送られたメッセージを確認した。
『わかった』という意味のスタンプを送ると、士狼は会社を後にした。
***
一方、こちらは羊真のアルバイト先。
「あのぉ……たびたびごめんね、羊真くん」
テーブルを拭いていた羊真は、再び店長に呼び止められた。
「今日、思ったよりお客さん少ないからさ。そこ拭き終わったら、もうあがっていいよ」
「あ、いいですか?」
「うん! 今日はごめんね。延長頼んじゃって。お疲れ様!」
「はい、お疲れ様でした!」
時刻は六時半。
裏口から外へ出た羊真は、星ひとつ見えない東京の夜空を見上げた。
(……そうだ。帰りに牛乳買ってかなきゃ)
最寄りのスーパーに寄るため、羊真は大通りから一本離れた近道を通る。
住宅街だ。歩道に等間隔に街灯があり、弱々しい光を落としている。
疲れたなぁ。と羊真は溜息を吐いた。
アルバイトの延長を頼まれたのは久しぶりだった。
たった二時間のばされただけで、ひどく足が疲れた。
ずっと立って働いている人はすごいなぁ。と羊真は思った。
ポケットからスマートフォンを取り出して、歩きながら画面を見る。
(そういえば、士狼にバイト終わったって連絡しなきゃ。……まぁ、買い物終わってからでいいか)
スマートフォンを戻す。
このあたりでは珍しくもない、エンジンをかけたまま路上停車している黒い車の横を通ったとき。
視界がグラリと傾いた。
***
士狼は電車に乗って帰宅した。
七時を過ぎていた。
(四時間……ってことは、帰ってくるのはだいたい八時半くらいか)
当然羊真のシフトを把握している士狼は、彼からのメッセージを思い出しながら、壁かけ時計を確認した。
冷蔵庫を開けて、昨日の残りものをいくつか取り出した。
ごはんと、少し表面が焦げたコロッケを電子レンジで温める。
わかめや油揚げ、ジャガイモが入れられた味噌汁を弱火で熱した。
もやしとツナのナムルはそのまま食卓に持っていく。
同棲を機に、羊真は料理を勉強し始めた。
最近は、目分量でも美味しいご飯が作れるようになったと喜んでいた。
……あぁ、幸せだなぁ。
今までの生活を思い出し、士狼はしみじみと思った。
一人暮らしをしていた時は、うわべを取り繕うので精いっぱいだった。
食べるものはもっぱら総菜で、若さだけで乗りきっていた。
社会人になってからは更に酷かった。
家事にすら手がまわらなくなり、掃除や洗濯は『まぁ、明日でいいや』と片づけることが多くなった。
羊真と暮らすようになってからは、家事のほとんどを彼がしてくれるようになった。
掃除も、料理も、洗濯も。士狼が家に帰ってくるまでには、すべて終わらせてくれるのだ。
礼を言うと、彼はいつも照れて顔を横に振る。
『だって僕、士狼より働いてないし。……会社で働くのが大変だってわかってるから、お家ではゆったりすごして欲しいんだぁ』
献身的……通り越して、自己犠牲的な彼の精神に、一抹の不安を覚える。
今日のバイト延長だって、自分のことなんて考えずにこたえたのだろう。
羊真のことを考えていたら、無性に彼が愛おしくなった。
早く帰ってこないかな。
すこしふやけたコロッケを食べながら、士狼は再び時計に目をやった。
***
風呂から上がった士狼は、ソファに腰かけた。
時計が八時四十分を指し示している。
「……遅い」
不安が混じった声が虚空に溶けた。
羊真が買い物に行くのは、いつもアルバイト終わりだ。
だから、今日もきっと出かけたのだろう。
スーパーが閉まるにはまだ早い時間だから。
……だが、羊真からの連絡がない。
『いまバイト終わったよ! すこし買い物してから帰ります!』とか、いつもそう送って来るのだが。
…………
……まさか。な。
士狼はスマートフォンを手に取る。
『バイト終わったの?』
『買い物中?』
メッセージを送っても、反応はおろか既読すらつかない。
電話をかけた。
しかし、コール音が続くだけで、羊真は出てくれなかった。
なんどか掛けなおしたが、無駄だった。
まさかな。
こんどはアルバイト先に電話をかけてみた。
ひどい店長が、羊真に再び延長を申しつけたのかもしれない。
そうだ。
そうに違いない。
『お電話ありがとうございます! ○○レストラン、××店です!』
快活な男の声が聞こえてきた。
「すみません。佐藤羊真の家族の者なんですけれど。まだそこにいますか?」
『へっ?』という素っ頓狂な声に、背筋が凍る。
『羊真くんなら、六時半くらいに帰りましたよ』
「……は?」
聞いていた話と違う。
「四時間残るって聞いてたんですが」
訊ねる声には怒気がこもっていた。
『確かに四時間延ばしてくれるように頼みました。だけど、お客さんが少なかったので、六時半に帰したんです』
口ぶりからして店長か社員だろう。
元気だった声が、神妙なものにかわった。
『あの……まさか、羊真くん、まだ帰ってないんですか? 連絡は? まさか、なにかあった——』
士狼は電話を切った。
まさか。
…………
いてもたってもいられなくなった。
上着を羽織り、必要最低限の物だけを持って、家を飛び出した。
***
時刻は午後九時半。
電車を利用し、羊真のアルバイト先まで向かった。
そのまわりを探しても。
スーパーまでの道を歩いてみても。
閉まった店の周囲をぐるりとまわっても。
羊真の姿は見当たらなかった。
「嘘だろ」
士狼の悲嘆が、寒空に消えた。
『今月〇日、××区で、道路を一人で歩いていた二十代の男性が、車で連れ去られ、性的暴行を加えられたと——』
ニュースキャスターの淡々とした声が、まるで悪魔のささやきだ。
途方に暮れていた時。
上着のポケットに入れていたスマートフォンが鳴りだした。
急いで確認する。
画面には、『羊真』という文字が大きく表示されていた。
震える手で、士狼は電話に出る。
『……しろう』
「羊真、か」
『……うん』
返事を聞いた士狼は、アスファルトに座り込み、溜息を吐いた。
『ごめん』
「……なんでだよ」
『ごめんね』
「だから、なんでだよ」
不毛なやり取りのあと、羊真のすすり泣きが聞こえた。
なにか、よくないことが起きたのは明らかだった。
「羊真。どこにいるんだ?」
安心させるように、ゆっくりと、優しい声で訊ねる。
『……駐車場』
「なんて名前の駐車場だ?」
『えっと……○○駐車場』
「○○だな?」と確認し、士狼は地図アプリで検索をかける。この近くだった。
「わかった。実はさ、俺も今、この近くにいるんだ。今から向かうよ、通話、そのままにしとくから」
電話を切らずに。
かといって、特に何も話さずに。
羊真がいるらしい駐車場に歩いて向かった。
いやに眩しい明かりに照らされた駐車場。
その隅に、座り込んでいる人影を見つけた。
「羊真」
バッグをぬいぐるみのように抱き抱えている人物に、士狼は呼びかけた。
やはり羊真だった。
いつも浮かべていたあどけない笑みは消え去っていた。
青白い肌に、真っ赤な目が痛々しい。
「その……」
なにかを話そうとした羊真が、口を固く結んで俯いた。
士狼は彼の前でしゃがみ込む。
「帰ろっか」
ただ一言だけ話した。
すると、羊真が静かに頷いてくれた。
***
タクシーを使って、自宅まで帰った。
……それからは悲惨だった。
羊真が話してくれた内容をかい摘むと、こうだ。
アルバイトの帰り。買い物に行く途中で、エンジンがかかったまま停まっていた車に無理やり乗せられた。
男が三人いた。
黒い車だった。
これ以上は話してくれなかった。
……聞けなかった。
とりあえず風呂に入らせようと、服を脱がせた。
下着の尻の部分がひどく濡れていたのを見て、また背筋が凍った。
大泣きし、暴れる羊真をたしなめながら、腹の中まで徹底的に洗った。
食欲も失った羊真を、すぐにベッドに連れていった。
時々なにかを思い出したように、頭を抱える羊真に付きっきりで寝かしつけた。
疲労に負けて寝てくれたのを確認して、士狼はリビングのソファに重い腰をおろした。
明日は会社、休まなきゃ。
羊真にもアルバイトを休ませないと。
羊真をひとり残して働ける状況ではなかった。
うつろな目で時計を見上げる。
既に深夜一時をまわっていた。
寝付けそうにない。
士狼は冷蔵庫から缶のジンソーダを取り出した。
なるべく音を立てないように注意しながらプルタブを開ける。
酒を胃へ流し込む。
ほろ苦い炭酸水の味に、記憶が鮮明に蘇る。
『だからこの後、ホテルを探さなきゃいけなくて。……ねぇ、士狼くん。この辺りに安いホテルなんてあるかなぁ』
初めて会った時、ジントニック飲んでたっけ、羊真。
『ごめん……ほんとうに、ごめんなさい……!』
『すごいや。士狼くんは人のことをよく見てるんだね』
『見ないで、おねがい、ねぇ、おねがい、だから……!』
『……バレちゃった? えへ、怒んないでね』
『どうして、おっ、怒らないの……? ひとごとじゃないって、言われてたのに……!』
彼の幸せそうな顔と、恐怖で凍りついた顔を交互に思い出した時。
……視界が揺らいだ。
万が一にも羊真が起きないように、声を噛み殺す。
まさか。まさか自分が、誰かのために泣く日がくるなんて。
羊真の気持ちが痛かった。
確かに士狼は今朝、羊真に他人事ではないと話した。
画面の向こうの出来事は、現実で起きているものだと。
だが、士狼自身、こう思っていたのだ。
『まさか、羊真がそのような目に遭うはずがない』と。
まさか。まさか。
……浅はかだった。
羊真は悪くない。
すべて三人組の男とやらが悪いのだ。
そのはずなのに、羊真はまるで「すべて自分のせいだ」と思い込んでいるようだった。
たしかに不注意だった。
ニュースを知っていたこと。
仕事終わりにすぐ士狼に連絡しなかったこと。
暗いなか、死角の多い住宅街を歩いたこと。
エンジンのかかっている車の横を通ったこと。
羊真自身わかっていて、ひどく自分を責めていた。
このような目に遭ったのは自分のせいだ。
士狼を悲しませたのは自分のせいだ。
……羊真の自責がナイフとなり、士狼の心をも傷つけたのだった。
天井を見上げ、深呼吸し、自分を落ち着かせる。
考える。
どうしたら、羊真の体を守れるだろう。
どうしたら、彼の笑顔を守れるだろう。
長い思考の末……士狼の頭にひとつの案が浮かんだ。
***
羊真は目を覚ました。
見慣れた天井を、腫れた両目で呆然と見つめる。
コーヒーの良い匂いに鼻腔をくすぐられた。
「……しろう?」
鉛のように重い体をベッドから起こし、のろのろと歩いて、リビングのドアを開けた。
「あ、おはよう」
カーテンの柔らかな光を背に、普段着姿の士狼が微笑んだ。
「……おはよ」
羊真はかぼそい声で返した。
「目玉焼き作ったんだ。羊真みたいに焼けなくて、黄身が固くなっちゃったけど……腹、減ってるか? 少しでも食べてくれないか?」
彼が用意してくれたのは、いつも通りの朝食だった。
焼き過ぎの目玉焼きとコーヒーを、それぞれ数口しか食べられなかった。
それなのに、士狼は嬉しそうに笑っていた。
ふと、時計に目をやった。
時刻は午前十一時。
「えっ……士狼、仕事は?」
キッチンで洗いものをしている士狼に訊ねた。
「仕事? あぁ、今日は休み」
「……僕、今日も十一時にシフトが入ってて」
「もう店長に、『今日は士狼とずっと一緒にいます』って連絡したから大丈夫」
キッチンから戻ってきた士狼に、そっと抱き寄せられる。
「ダメ」
涙声で羊真は士狼を拒もうとする。
しかし、士狼の力には敵わず、彼の思うままにされる。
「どうして?」
「僕、汚いもん」
「そうか?」
大きな手で頬をなでられる。
合わされた目は、いつか夢見た母のように優しくて。
「俺にはいつも通りに見えるけどな。ヒツジみたいにクルクルな髪も、もちもちなほっぺも」
「……あは」
笑った羊真の瞳から大粒の涙がこぼれた。
まさか。という出来事の連続の果て。
士狼との日常に戻れたことに、子どものように安心してしまった。
***
麦茶を飲みながら、同じソファでくつろいでいると。
「羊真。ひとつ提案があるんだ」
一流の営業マンのような、堂々とした口調で話しかけられる。
「なに?」
羊真は士狼の言葉に耳を傾ける。
「早い話が、結婚の申し込みなんだけど」
「うん。……えぇ?」
一拍置いて、話を理解した羊真は驚愕した。
反応を面白がって、士狼が「可愛い」と笑った。
「羊真さ。専業主夫にならない? ……正直言ってさ。羊真ひとりくらい、余裕で養えんだよね」
「……そうなの?」
「そりゃそうだろ。……だからさ、アルバイトも辞めて、ずうっ……と、家にいて欲しい」
「……ずっと?」
その言葉の意味を、羊真はうまく飲み込めない。
ずっと?
ずっと家にいるって、どういうことだろう?
「羊真。不安か?」
「不安というか——」
羊真は士狼の顔を見上げて、一瞬だけ体を強張らせた。
初めて見る目だった。
いつもの優しい目でも、愛しあう時の目でもない。
静かな光を湛えている。
その奥に、ひどく歪んだものを感じた。
「大丈夫だよ」
ひどく淡々とした声だった。
「ずっと俺がそばにいるから。俺だけと一緒にいられるんだよ」
それでいて、破滅的なものさえ感じられた。
「だからさ」と士狼がにこやかな表情を浮かべる。
「俺と結婚してください」
…………
あまりの出来事に、まったく頭がついていかない。
彼がなにをかんがえているのか、うまくつかめなかった。
ただひとつ、確信はある。
それは、士狼は絶対に羊真を大切にしてくれるということ。
自分はまるでダメなやつなんだ。
そばにいてくれるこの青年は、自分と違って優秀だ。
彼を信じれば……すべて、うまくいく。
「……いいよ」
頷く羊真の口調は、士狼とよく似ている。
「僕、士狼とずっといっしょにいるよ。士狼が……士狼さえ、一緒にいてくれるなら。僕はそれでいい」
「羊真……」
互いの顔を見つめる。
顎に手を添えられる。
誓う準備を済ませた羊真の頬が、さくらのように染まった。
「して、いいか?」
「いいっていうか……してくんなきゃヤダ」
最後の最後でためらった新郎のために、羊真は一肌脱いだ。
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