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第4話 潮目
side*トシ
月白先輩との出会いは俺にとっては価値観がひっくり返るほどの衝撃で、未だにあの光景は鮮明に脳裏に焼き付いている。
彼が親衛隊であった事実を知った今でも俺の隣に居る横顔は一等美しいと正直に思う。
しかし、あれから会長や他の生徒会の先輩に色々な話を聞いて、プラスの感情以上に悪評がそれを覆い尽くしてしまった。
数えきれないほどの人間に身体を売って隊長までのしあがったこと、生徒会に近づく一般生徒を何人も病院送りにしてきたこと。
他にも親衛隊のえげつない話のオンパレード。
どんどん嫌悪だけが募っていき、今や月白先輩の評価は俺の中で地を這っていた。
しかも今、駿さんに危害を加えようとしているらしい。
生徒会の"光"を、壊そうとしている。
腹が立った。
赦せなかった。
しかしその時、俺の沸々とした怒りを掻き消すように駿さんが生徒会室に現れる。
にこにこと明るく笑う駿さん。
自然とさっきまで殺伐としていた生徒会の雰囲気が和らいでいく。
いつもは笑顔なんてみせない四王会長もこの時ばかりは柔らかく口許を緩ませ、駿さんを見つめていた。
それはまるで魔法みたいだ。
正直、俺も内心仕事を放り出して向こう側に交ざりたかった。
そんな考えに注意散漫になっていたのが悪かったのか、資料に手を伸ばした瞬間、隣のデスクの月白先輩と手が触れてしまった。
しかし嫌悪より先に気にかかったのは月白先輩の手。
「すまない。」
直ぐに一言そう言って、手を引っ込めてしまったから、細部まで見た訳では無いけれど、その指先酷く荒れているようだった。
元より月白先輩の肌は白く透き通る陶器のような印象だ。
それに反し、ちらと見えた指はささくれが目立ち、いくつも絆創膏が巻かれていた。
親衛隊の総隊長ともある人は、姫のように完璧で、美しく、指の先まで滑らかなのだと思っていた。
その違和感に何か見落としているような、気付けていないような、もやもやとした感覚に襲われる。
その不快感の理由を探ろうと、自分の指先を見詰めていたらどこか遠慮がち肩を叩かれた。
はっ、と我に返ってその振動の先を見れば感情の読めない無表情な月白先輩がこちらをじっと見つめていた。
「っ、」
「指、どうかしたのか?紙で切った?」
こてり、と首を傾ける仕草。
「ぁ、いえ、別に…、なんでも、ないです。」
「そう…」
無表情の中にどこか心配するようなニュアンスを見つけてしまい、訳もない気まずさに覚えて、慌てて眼を逸らしながら発した言葉は少し吃り気味だ。
そんな俺に、月白先輩は一瞬きょとんとしてから、何かを察したように薄く苦笑いした。
視線の端に捉えたその笑みに、もやもやが一層強まった。
(なんだ、これ…)
その原因を追求する間もなく、今度は反対の肩に振動があって反射的にそちらを見上げる。
そこには向かいのデスクからPC越しに顔を覗かせ、こちらに手を伸ばす孝臣先輩がいた。
「トシ、僕達も向こうに行きましょう。駿がせっかくいるのに、僕達だけ仕事なんて不公平ったらないですよ。」
孝臣先輩は眉を潜め、少し立腹した様子で机に乗り出し俺の肩に手を置いていた。
「ぇ、っと、でもまだ月白先輩が…、」
咄嗟にこぼれたのはそんな言葉。
直ぐさま俺は自分の言ったことに、はっとする。
なんで、親衛隊を気にかけるんだ?
憎んでたはず。
嫌悪してたはず。
孝臣先輩も不審に思ったのか、眉根をよせて俺を窺っている。
「…別にいいじゃないですか。僕達の親衛隊なんですよ。直々に仕事を貰えて、生徒会室に入れるなんて喜びこそすれですよ。」
「…そう、ですね…。」
「さぁ早くしなさい。バ会長が駿にセクハラしてる。」
「今行きます。」
すでにデスクから立ち上がり駿さん達がいる中央のソファーへ足を向ける孝臣先輩が俺を促す。
俺もすぐにブレザーをとって立ち上がった。
しかし、俺はどうしても月白先輩の手が気になって、後ろ髪を引かれる感覚を拭えない。
意識する背後、一定の間隔でカタカタと微かなキーボードの音。
きっとその音を生み出しているのであろう、細く華奢な指。
その指には到底似つかわしくない、絆創膏。
「トシ?」
「あ、はい。」
孝臣先輩は一瞬動きが止まっていた俺を、再度怪訝そうに振り向いた。
俺は無理矢理意識を引き剥がし、デスクを後にする。
絶え間なく溢れる、駿さんの楽しそうな笑い声。
笑顔。
月白さんの座るデスクとは、まるで境界線があるみたいにそこは明るい世界。
それでも俺の背後にいるその人は、絶対にこちらを振り返ったりしない。
今までも、一度だって、そんなことはなかった。
細い背中が脳裏によぎる。
月白先輩はあの痛々しい指で、今日はどれほどの量の仕事をこなさなければならないのだろ。
胸の奥に何か、まるで魚の子骨のようなモノがわだかまった気がした。
***************
side*no
(目が痛い…)
薄暗い室内に煌々と光るパソコンの画面。
机には書類の山。
今夜もあまり睡眠時間は確保できそうになかった。
書類の宛名には会長、副会長、会計の文字がならぶ。
風見 駿介が学園にきてから生徒会はほぼその機能を果たしていない。
今までも会長は積極的に事務作業をやっていなかったのでさしてそのあたりに変わりはないものの、副会長・会計がやらなくなったことが非常に痛手だった。
書記と補佐もやってはいるものの確実に量は減っている。
その尻拭いを二人目の補佐である深也がやっているのが今の生徒会の現状だ。
(とりあえず明日期限の書類はあとこれだけ、か)
ぺらぺらと片手で徐に捲る紙の束はゆうに30枚はある。
これでも今日やってきた仕事の量からしたらほんの極僅かに思えた。
生徒会内でも深也の書類処理のスピードはかなり速い方だが、さすがに他の役員の分を全てこなすには期限ぎりぎりが精一杯だった。
時計の針はすでに夜中の1時を指している。
(今日も眠れそうにないな…)
深也は静かに溜息を飲み込んだ。
そうして一度、目をぎゅっと瞑り、気持ちを切替えるように小さく「よし、」と呟いてから再び書類に手を伸す。
それから3時間弱。
深也は最後の書類に目を通し、判子を押した。
集中していたのかいつの間にか詰めていた呼吸をふー、と吐き出す。
椅子を引いて脚をぐっと伸ばせば、血流が全身をジワジワと温めて、強ばった身体に少し一息つける心地だった。
しかし深也には長い時間休んでいる暇はない。
直ぐにそれらを他の提出書類と共に手に持つと、手早く帰り支度を整え生徒会室を施錠して講義棟に向う。
もちろん廊下には人っ子ひとりいない。
深也の足が止まったのは2-A。
自分の教室。
これは風見駿介が転入してから行うようになった “日課” だった。
深也の目線の先にあるのはたったひとつ、駿介の机。
机の中に詰められたゴミ、椅子の上には画鋲、表面は幼稚な落書きが覆い尽くしている。
(昨日も掃除して帰ったのに…)
駿介への嫌がらせが始まってからというもの、なるべく彼にそのことが露見しないよう毎日片付けて帰っていたのに今日の朝来てみると昨晩より汚され、酷い有様だった。
それを見た駿の表情が深也の脳裏を掠める。
『あー…、大丈夫、大丈夫!全然気にしてないから!』
そう明るく言い放った駿介の瞳の奥には悲しみと困惑。
きっとあの性格だから、他人にこれほどまでに疎まれた経験などないであろう彼にとって、これは大きな衝撃だったに違いない。
深也はもっと細心の注意を払わなければいけなかったのだと、自分の落ち度を酷く責めた。
これ以上彼を悲しませてはいけないと、気持ちを新たにゴミ箱を片手に駿の机に向う。
(風見駿介は光。)
(梟の光は、俺の光。)
決して、消えさせはしない。
ゴミと画鋲をひとまず片付け、無惨ならくがきを消すためにバケツに水を汲み、雑巾を用意した。
(あーぁ…。また油性マジックでまぁご丁寧に…)
毎日机に向かう度、うんざりした気持ちになったが、今やそれも呆れを通り越して慣れっこだ。
そして雑巾を水に浸して絞り、指に力を込めて机の表面を擦り始める。
何度もシンナー系の液体を垂らし、インクを擦り落とす。
薬品と冷たい水で深也の手はぼろぼろだった。
「っ…」
指先にピリッとした痛みが走って、見てみると薄い皮膚が裂けぱっくりと緋肉が覗いていた。
深也は一瞬その傷口を見つめたが、直ぐに何事もなかったように作業を再開する。
その目は余りにも無感情。
それからも高級そうな机の表面を擦る度に治りかけの傷口が次々と開いていく。
しかし深也はその手を決して止めようとはしない。
30分ほどしてやっとあと少しのところまでこじつけた。
うっすらと額に滲んだ汗を白い手の甲が拭う。
表に晒される深也の掌は酷く荒れて、指先には幾ヶ所もの裂傷が出来てしまっていた。
雑巾にも微かに血が滲んでいたが、それを憂うにはあまりにも深也は痛みに慣れすぎていた。
そして最後の黒ずみを落とそうと薬品の缶に手を伸ばす。
と、その時。
ガタン、と教室の入り口から音がして、驚いて振り返る深也。
「月、白…先輩…。」
そこに呆然と立つのはよく見知った顔。
補佐のトシだった。
***************
side*トシ
先輩の指先に触れてからずっともやもやとした気分が拭えずにいた。
因みにそのことは会長たちには話していない。
馬鹿にされることは目に見えていたからだ。
そんなこんなで昨日はあっという間に過ぎていき、目をを覚ますと、時計はいつも朝練のために起きてきる時間の1時間前を指していた。
しかも今日は朝練のない曜日。
かなりの早起きになってしまった。
(俺は何をそんなに動揺してるんだ…)
何だかげんなりとし、朝一には似つかわしくない重たい溜め息を吐いてしまうほど。
(たかが先輩の手で…しかも、親衛隊の…)
また溜め息が出そうになるのをぐっとこらえ、無駄に冴えてしまった目と共にベットから立ち上がることにする。
どうせ朝早く起きたのだったら結局昨日やり残してしまった仕事でもやろう、と気持ちを切り替え、着替え始めた。
有り合わせで簡単に朝食を済ませ、いつもより大分早くに部屋を後にした。
生徒会室に行く道すがら、まだ薄暗い窓の外を不意に目を向ける。
そこで俺は向かいの教室に薄ら明かりが灯っていることに気がついた。
(あの教室って…、)
2-A
(駿さんの教室…)
いつもなら絶対に人がいないはずの時間。
駿さんへの嫌がらせの犯行現場に遭遇したのだと直感した。
俺は足早に向かいの教室に向かう。
ある程度教室に近づいてきたら、犯人に悟られないよう気配を消してゆっくりと教室のドアの小窓に忍び寄る。
まだそこから光は零れていた。
心臓の鼓動が、少し早まる。
そこでふと、もし月白先輩だったら、という考えが脳裏をよぎった。
(…いや、どちらにせよ駿さんを貶めるやつは敵だ。)
と、思い直し、意を決して教室を覗き込んだ。
透き通ったガラス越しに見えたのは冷たい銀色。
どくん、と心臓が喉元で脈打ったのが自分でも分かった。
(やっぱり、月白先輩、が……)
早鐘を打つ心臓とは裏腹に、血の気が一気に下がっていく感覚がする。
何故かその瞬間、俺が感じたのは怒りより、背筋が寒くなるような困惑だった。
どうしてそう感じたのか、その時の俺にはまだわからない。
しかし、次に感じたのは違和感。
未だばくばくと高鳴る心臓を押さえつけ、改めてよく見ようと目を凝らす。
その違和感の正体は割と直ぐに気がづいた。
月白先輩の手にあるものが、駿さんを貶めるようなものの類ではなく汚れた雑巾だったから。
月白先輩の荒れた白い指。
幾つもの絆創膏。
雑巾。
俺の中で、ばらばらだったピースがひとつひとつ当て嵌まっていく。
最後に俺の脳裏に鮮やかに蘇ったのは、月白先輩の憂いを帯びた儚い横顔。
俺は頭を誰かに殴られたような、そんな感覚を覚えた。
(……月白先輩じゃ、なかった。)
(月白先輩は駿さんをを貶めていた訳じゃなくて…、)
逆に、護ろうとしていた?
(偏見で、傷つけていたのは、俺たちだった…、)
それでも、月白先輩はただ肯定も否定もせずに、ただ黙って、静かに見詰めているだけ。
ぎゅっと心臓を鷲掴みにされたような、そんな気がした。
その瞬間、俺は無意識に教室のドアを開けていたのだった。
***************
side*no
視線が絡み合い、二人の間に重い沈黙が落ちる。
最初に動いたのは深也の方。
小さく溜め息をついて、少しめんどくさそうに視線を反らす。
そしてまた作業を再開した。
「月白、先輩…、俺…、」
トシは何か言おうとするも、言葉がうまく出てゆかない。
何度か言葉を探すように視線をさ迷わせたが、すぐにきゅっと唇を引き結び、決心したように深也のほうに歩みを進めた。
トシは深也の横まで来て、少し緊張したような硬い表情で口を開いた。
「あの、何か手伝うこと、ありますか。」
しかし、己から発せられたあまりにも気の効かない台詞に、トシは一瞬天を仰ぎたくなる。
深也はそんなトシを流し見て、それに反応するようにトシの肩が少しドキリと強ばった。
「いや、大丈夫。もう終わるから。」
「っ、そう、ですか…。」
その言葉通り、その後はさして時間はかからなかった。
そして最後の黒を拭いとってすぐ、深也はバケツと雑巾を手に、未だばつの悪そうなトシの横を無言で通り過ぎていこうとする。
「ぁっ、あの!」
教室の出口に向かう深也に、トシが弾かれたように慌てて声をかけた。
「?」
「あの、それっ、俺が片付けておきます。」
トシは深也の手に握られたバケツと雑巾を指して捲し立てるように言う。
「…そう」
深也は不思議そうにトシとバケツを見比べたが、おとなしくそれらをトシに渡そうと数歩近づいて差し出した。
「ぁ」
しかしバケツがトシの手に渡る前、深也が何かに気づいたように小さく声を上げる。
バケツに張った水がパチャッと小さく跳ねた。
そして深也は何を思ったのか、差し出していたバケツをさっと下に置いて半歩退いて見せた。
「ぇ…?」
「ごめん。」
受け取ろうとしてそのままになった手を、中途半端に宙でさ迷わせたトシの顔には、困惑。
深也はただ苦笑いして、静かに謝っただけ。
「せん、ぱい?」
「俺に触れられるのは嫌だろうから…だから、」
すまなかった、と深也は穏やかに微笑した。
その言葉にトシの心臓がぎゅっと疼いた。
(なんで、そんな…っ)
トシは気づく。
深也が “孤高” と呼ばれる理由を。
そうしたのは自分たちだということを。
孤高は孤独。
深也はいつも独りで戦っていたのだ。
バケツを持っていなかった方の手にあるのはファイル越しでもわかるような書類の束。
それらを大事そうに掴む、赤い切り傷塗れの手。
その書類の中にはきっとトシや仕事をしなくなった役員たちの管轄のもがある。
そして、それを持っているということは深也はこの時間になっても自室に帰れていないのだと、察しのいいトシはすぐに気がついてしまった。
気の遠くなりそうな仕事にも文句のひとつも言わず、ただただ静かに、しかし確実に負荷をおっている。
「じゃあ、何だか申し訳ないけど。後は頼む。」
今この瞬間にも、彼はまるで何事もなかったかのように、踵を返そうとするから。
その声のトーンが、昼間のそれと寸分違わないもんだから。
「……そんなこと、ない」
トシから低く唸るように、圧し殺した呟きがふいに零れた。
深也の足が、止まる。
その白く華奢な手を、トシの一回り大きい手が、強くしっかりと掴んでいた。
***************
side*no
(って、なぜ俺はここに…)
深也は心の中で苦く溜め息を吐いた。
それもそのはずで、今深也がいるのは生徒会室のソファ。
そしてトシから手の手当てを受けている。
しかも、生徒会役員が勢揃いしているど真ん中で、だ。
深也とトシという異色の組み合わせを、物言わぬ8つの眼が訝しげに眺めている。
(まるで動物園の動物になった気分だ…)
あまりの居心地の悪さに深也はとうとう心中だけには留まらず、こっそりと溜め息をつく。
「きつくないですか?」
そうしている内に深也の手には包帯が綺麗に巻かれ、トシの長い指が几帳面に結び目を作った。
「…あぁ。大丈夫。」
状況はさて置き、深也はその手際の良さに器用だと感心する。
そして、ちょきりとトシの利き手にある鋏が包帯の端を整えたのが完成のサインだった。
「はい。終わりました。」
深也はソファに座らせられた瞬間あれよあれよと軟膏を塗られ、綺麗に包帯と絆創膏に占拠されていった自分の手をしげしげと眺める。
少し大袈裟だな、とも思ったが、わざわざ生徒会室にまで行って手当てをしてくれたトシに久々に心が暖かくなる思いがした。
そのせいか、無意識に柔らかい微笑みが深也の顔に浮んでいた。
「トシ、すまない。ありがとう。」
「っ…」
深也の花が綻ぶような笑みに、トシは少し驚いたように眼を見開き、瞬間顔を熱くした。
(月白、先輩が笑った顔…、久しぶりに見た…)
「っ…、」
しばし呆然と目の前の綺麗な顔を見詰めていたことに気づいたトシは、慌てて赤くなっているであろう自分の顔を隠すように、視線を床に向けた。
しかし、整えられた短い黒髪から覗く耳は色づいたまま。
深也はまたくすり、と微笑し、音もなくソファーから立ち上がった。
「…ぁっ、月白先輩っ」
生徒会室をそのまま出ていこうとする深也に気付いて、トシは慌てて腰を浮かせる。
「?」
ドアに手を掛けたまま振り返る深也。
その仕草にさえトシの心臓はまたもや大きく高鳴った。
「ぁ、の、その、また痛んだら言ってください。」
早鐘を打つ心臓を悟られまいとトシは早口にそう告げる。
「うん。」
深也の返答はその一言だけ。
しかし和らげた瞳は笑みの様相を象ったまま。
柔らかく、優しい眼差し。
その残像をのこして、生徒会室の重厚な扉は閉まっていった。
深也の姿が見えなくなった瞬間、糸が切れたようにトシがソファーに崩れる。
トシの夢現な瞳は今だ深也の出ていった扉を見つめたままだ。
「おいおい、トシ。お前まで誑かされたか?」
トシは竜司の胡乱げな言葉が耳にはいっていない様子で、まさに心ここに在らずといったようにソファーに座るだけ。
「…まじかよ…。」
竜司は苦々しく呆れたように天を仰いだ。
「えー嘘ぉ…、本当に?トシ、あんなの顔だけじゃん!性悪ビッチのどこがいいわけ?」
ニックも驚いたようにトシに詰め寄る。
「…ニック先輩。月白先輩はそんな人じゃないですよ。」
トシはやっと思考を現実に引き戻したのか、真面目な表情でニックに向き合う。
「えっ!何言ってんの!?あいつは現にシュンを苦しめてるんだよ?」
「違います。駿さんへの嫌がらせは月白先輩じゃなくて他の親衛隊です。」
「リュージ!大変だッ!トシが変なこと言ってるッ!」
Jesus!とニックが手を額において大袈裟に嘆いて会長椅子にふんぞり返る竜司に助けを求める。
「あーほんとにタチ悪い。なんなの、あの淫乱は。」
「同感です。ていうか、トシもまんまと騙されてどうするんですか、まったく。」
綾乃も孝臣も苦い表情を作るだけ。
「…っ、だからっ、」
余りにも理不尽過ぎる中傷に、トシの強い口調がそれらを遮った。
珍しく声を荒らげたトシに、室内から罵りや揶揄の言葉がぴたりと消える。
「だから…っ、本当にあの人じゃないんです。」
「…ふぅん。じゃあそこまでいうなら証拠でもあるんだ?」
綾乃が冷静な眼でトシに問いかけた。
「はい。」
いやにきっぱりと言い切ったトシに問い掛けた当人である綾乃も眼を僅かに瞠った。
「今朝、駿さんの教室をたまたま通りかかったんです。」
トシはそんな一同に、今日の朝に自分が見たことをありのままに話始めた。
話終えると、それがどういう意味かわかりますよね、と真剣な表情でトシが辺りを見渡す。
「…見間違いではないんですね…?」
「はい。」
怪訝そうな孝臣の言葉にもトシははっきりと頷いた。
「…わかった。今回の駿への嫌がらせはあいつの仕業じゃねぇんだな。」
今まで黙っていた竜司が高価そうな椅子に凭れながら、尊大に口を開く。
「だが、俺はあいつを信用しない。あいつが主犯じゃないにせよ、駿に親衛隊の制裁が及んでいるのは確かだ。総隊長としての責任問題だろ。」
竜司の言ったことは確かに正論。
トシは今更ながらに“親衛隊”というレッテルの重みに唇をかんだ。
「俺もだよ。今回のことは不問にするが、基本的にあいつはカスだと思ってるから。」
綾乃も不快そうな口調で鼻をならす。
「俺もー。親衛隊の隊長とか、その時点でまず無理だよねぇ。」
クソビッチじゃーん、と冗談混じりに嘲るニック。
「同じく。存在自体が不愉快です。人の趣味にとやかく言うつもりはないが、早く目を醒ませよ、トシ。」
普段は何事にも公平な孝臣までも、深也に対する侮蔑をその目にありありと滲ませている。
「っ…」
トシは各々の反応に表情を強張らせた。
深也を取り巻く様々な噂。
トシも以前はそれを信じて疑わなかったが、今では周りの人々の邪推と偏見が凝り固まった話に過ぎないと考え始めていた。
だから身体を売って親衛隊の総隊長までのしあがった、なんて噂は鵜呑みにできなかったし、人のために自分を犠牲にする彼がどうしてもそんなことするとは思えなかった。
しかし、これはトシの感覚的な憶測に過ぎない。
だから本当は生徒会の面々に大声で抗いたい気持ちであっても、勝算のなさに苦湯を飲むしかなかったのだ。
そして、彼らの口論をドア越しにこっそりと聴いている者がいることを、その時誰も知る由もない。
「まさか…総隊長が…」
その影はぽつりと、極小さな声で呟いた。
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