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最終話-8月
八月に入っても、暑さは勢いを増すばかりで衰える気配など微塵もなかった。
新調したばかりの扇風機ではどうにもならず、今やすっかりエアコンの補助器具と化してしまった。
少しでも風を感じたくて徒歩ではなく、バイクで花屋へと向かう。
日陰になっている駐車場に滑り込むと見覚えのある車が停まっていた。
店のドアを開けると、冷房の涼しい空気と一緒に花の香りがふわりと鼻をくすぐる。
「いらっしゃい、紡葵」
年季の入った鈴の音を聞いてカウンターの向こうで深澄が顔を上げたのがわかった。
そして入ってきたのが客じゃなくて俺だとわかると、いつも客を出迎えるのと同じ言葉の後に俺の名前が続く。
少し前にまた変わった、俺の呼び方。敬称が外れただけなのにまだ少しだけ慣れない。
「つーちゃん、こんにちは」
「彗さん! こんにちは! 暑いな!」
「こう毎日暑いと参っちゃうよねえ」
外に車があったからいるとは思ったけど、やはり彗さんが来ていた。
談笑していたのか、オレに気付くと傍に来るように手招くので俺は滲む額の汗をシャツの袖口で拭いながら、二人と距離を縮める。
ふとカウンターの上に視線を落とすとそこにプリントされた用紙が数枚重ねて置かれていた。
「お盆休み」
「ああ、お盆と言うよりどちらかと言えば夏期休暇だけどな」
「花屋ってお盆忙しいんだ」
そこには休暇のお知らせが書いてあって、見たまま思ったままを口にしたら深澄が一瞬だけ言葉に詰まる。
「ん?」
「お盆だからな……」
他にどうやって説明したものかと言いたげな、どこか困惑した深澄の表情と口振りにすぐに自分がとんでもなく間抜けなことを言ったのを理解した。
「うわ、そうだよな。すっげえ変なこと聞いちゃった。恥ずかしい」
「馴染みないとわからないよね。大丈夫、僕も最初同じことをスミに聞いたから」
そうだよ。お盆なんだから、墓参りとか仏壇のお供え物とかで買うよな。
頭悪いこと聞いてしまったと強い羞恥に熱を持つ頬を押さえるオレを見て、彗さんは仲間だと言って嬉しそうに肩を揺らしながら笑った。
優しいフォローがなんだか今は泣けてくる。
「僕のところも帰省とかでお客さん減るからお盆は休みにしたんだけど、つーちゃんはお盆は? お仕事?」
「変わらず仕事。夏休みだから八月は結構忙しい」
「博物館の警備員さんだもんね。二人とも世間のお盆休みと重ならない感じだ」
オレはどうなのと聞かれ、隠すことでもないので答えたら彗さんは納得してたみたいだ。
夏休みってワードだけでなんとなく伝わるんだからすごい。
「そうは言ったって、お前もまとまった休みなんてないだろ」
「休んではいるよ。やらなきゃいけないことはあるけど」
自分はお盆休みあるからみたいな反応をしている彗さんに、深澄が低い声で告げると彗さんはケロッとした顔で「休みだよ」と返した。
彗さん、前にお邪魔したバーだけじゃなくて他にも経営している店があるらしく、深澄が「いつでも忙しそうにしている」と言ってたのを聞いたことがある。
なんというか、休憩はしているが休みはないみたいな感じらしい。
確かにこの花屋に来ているのもいつも休みの日って感じではなく仕事の合間にという印象だ。
恐らく今もそうなんだろう。
「そういうのを休んでないって言うんじゃ?」
「紡葵、もっと言ってやれ」
なんにせよ、それは休みではないんじゃないかと呟いたら深澄が渋い顔を浮かべながら頷く。
真っ当な意見に彗さんは苦笑いを零すしか出来ないようで、なにかを言い返すのを諦めていた。
「実家には戻るの?」
「正月に顔を出すからお盆には戻らない。彗もそうだろ」
「そうだけどね。一応聞いといてって親に聞かれたから」
これ以上自分の話にならないようにと、彗さんは何食わぬ顔で話題の矛先を変えた。
そういう話を当然のようにしているのを聞いてると、二人って本当にイトコなんだなあと思う。
「二人の休みがお盆からずれるなら、僕も予定合わせるから三人でどこか出かけようよ」
あまり親戚同士の会話に入らないようにしていたら、彗さんが「そうだ」と言ってまた突然話を変えた。
それを聞いて、深澄の顔が険しくなる。
「人の恋人を軽率に誘うな」
相手が事情を知る彗さんだからというのもあるのだろうが、当然のように言い返す深澄にオレも彗さんも思わず言葉を失う。
ハッキリ言われたのが嬉しいような照れくさいような。
心臓がドッドッド、とうるさく鳴り響いて真っ直ぐ深澄の顔を見れなくなりふいと逸らした先で、彗さんが嬉しそうに笑っていたのが見えてしまった。
「わかったよ。ところでつーちゃん」
「彗星」
深澄の低い声に彗さんは頷いていたが、すぐにオレの方を見て声をかけるのを聞いて深澄がすぐに制止をかける。
「いや、二人が恋人なんだなって改めて思ったら思い出したことがあったんだよ」
話の続きじゃなくって、と言う彗さんに深澄は疑いの眼差しを向けたけどそれ以上なにかを言うことはなかった。
「つーちゃんこの前、『思い出の花はもう探してない』って言ってたよね?」
彗さんがそう言ったのを聞いて、深澄の目が僅かに見開かれる。
初めて聞いたって顔をしてるけど確かに、深澄には直接言ったことはなかったかも。
でも絶妙に語弊があるので、オレは首を振った。
「探してないっていうか、それにこだわる理由がなくなったってだけ。見つかったらいいなとは思ってるよ」
元々躍起になっていたわけでもないが、深澄と付き合うことになってそういう理由がなくても傍にいられるようになった今、それは重要なことではなくなったのは確かだ。
見つけなくていいって思っているわけじゃないと告げると、彗さんは納得したように「そっか」と呟く。
「やっぱりどういう花だったかっていうのは聞いてもいい? ごめん、話聞いたら気になっちゃって」
前に一回、彗さんが一緒に探そうかって言ってくれた時には断ったんだよな。それこそ今言ってた理由で。
でも彗さんからすれば、深澄がそこまで真剣に付き合うんだからって気になるのも当然だ。
オレも莉音が似たようなこと言い出したら気になるし。
「いいよ。って言っても、本当に思い出せないってだけで。今わかってるのはすごい鮮明な青い花で、一輪だけで、えっと」
改めて説明しようとすると、情報が圧倒的に足りないままで止まっていることに気付かされる。
いつから、深澄に会いに来る理由が花を探すことじゃなくなったんだろうと思い知らされそれ以上の情報が出なくなる。
「季節的には、春か秋の花じゃないかって」
「そうだ」
助けを求めるように深澄に視線を向ければ、サラッと答えてくれて自分が邪だったのかもと思って少しだけ恥ずかしくなった。
誤魔化すつもりで思い出したみたいな顔で頷いてみたけど、誤魔化せただろうか。
「あとそうだ。もらったのオレが小学生ぐらいの頃だと思う。くれたのは多分、大人の男の人」
「多分?」
「曖昧で。でもくれた人を見上げてたのはぼんやり」
「なるほど」
子どもの自分から見た印象な上、記憶が曖昧だからハッキリと大人の男だと言えない。
よくよく考えたら、学生の可能性もあるよなとトントンと指先で顎を突いたら、彗さんもオレの隣で腕を組んで首を傾げていた。
「もしかしたら、造花とかだったのかも。でもすぐに枯れて悲しかった記憶がぼんやりあるんだよな」
この花屋に通うようになって、青い花はたくさん見てきたけれどどれもオレの記憶にある鮮やかさとは違うんだよな。
自然物で出す限界を超えていた青というか。いや、青い花という記憶が強すぎて改変されている可能性は否めないが。
「あーっと、だからなんかそういう花を探してて。結構無理難題を深澄に課してたっていうか」
いつの間にか話を真剣に聞いてくれてる彗さんに、本職の記憶にも引っ掛からないような無茶を言ったんだと笑って見せたけど彗さんの表情は浮かないままだ。
難しい顔をして考え込んでは「ちょっと待ってね」と言ってスマホでなにかを検索し始めた。
そしてすぐに、白い花の画像を見せてくる。
「もしかしてなんだけど、この花じゃなかった?」
「ガーベラか? だがガーベラの青は自然に出る色じゃない」
深澄も一緒に画面を覗いて、オレより先に既に確認してると首を振った。
ガーベラの可能性は聞かれたことあったけど自然に出る薄い青色じゃないんだよな。
確かに花の形はそれっぽい気はしてるんだけどと頭を傾ける。
「うん、だから自然に出した色じゃなかったら?」
「そりゃあ、染色すれば可能だが……」
小さく頷きつつ、静かに返す彗さんに深澄の表情が険しくなった。
その顔からは以前、確認したはずなのにというのが滲み出ている。
そんな深澄を他所に、彗さんは無邪気な子どものような笑顔を浮かべながらスマホの画面を指差した。
「塗ったのかも、青い絵の具」
そしてあっけらかんと言った彗さんに、深澄は自分の口元を片手で覆う。
「おい、まさか」
「そのまさかかも」
「どういうこと?」
話の流れで、人工的に青いガーベラを作れるってことまではなんとなくわかった。
でも深澄がそこまで嫌そうな表情を浮かべている理由と、彗さんが笑っている理由が理解できない。
疑問符を浮かべるオレを彗さんが見下ろし、瞳を細めた。
「それ、あげたの僕かも」
「えっ!?」
想像していなかった答えに、思っていたより大きな声が出てしまいオレは慌てて口を塞いで「ごめん」と謝罪する。
「え、どういうこと?」
僕かもって言われたのはわかった。
でもそのすべてが繋がらないと疑問が増えるばかりのオレに彗さんが申し訳なさそうに笑いながら説明してくれた。
「僕、高校生の時にあるアニメに影響されて花を絵の具で塗ったことがあって。しかもそれをその辺にいた子に得意げに『特別な花だよ』とか言ってあげたのを話を聞いてたら思い出したんだよね。まあ、もしかしたらだけど」
「生花になんてことを……」
「今は酷いことしたと反省してるよ」
可能性はあるかもと言う彗さんに、深澄が強く鋭い視線を向ける。
それに彗さんはもちろん今は反省していると答えていたが、オレも彗さんの言葉で思い出したことがあった。
「特別な花だよ」
そう、青い花をくれた相手がオレに言った言葉が、さっき彗さんが言ったのと同じだ。
花に絵の具を塗ったとか、青だとかまではもしかしたら他の人の可能性もあるのかもしれない。でも偶然にしては、と考え込んでいると深澄と彗さん、二人が同じように首を傾げてオレの顔を覗き込んでくる。
「オレも、彗さんかなって……」
「え? 本当?」
「どうしてそう思う」
「花をくれた人と、同じこと言ったから。『特別な花だよ』ってくれたの覚えてる。それに、もらった時にしたの花の匂いっていうか確かにあれは絵の具の匂いだったかも」
もしかしたらと思って思考を巡らせていく内に、朧気だった記憶がどんどん鮮明になっていく。
花の甘い香りというより、絵の具特有のどこかねっとりとした香り。
花首も重みに耐えきれないように前へ傾き、大きな花は俯いていた。
顔は思い出せないが、大人だと思っていた男が着ていたのはあれはスーツじゃない、ブレザーだ。
「彗さん、高校生の時ってブレザー?」
「うん、そうだよ」
「じゃあ、やっぱり、そうかも! なんか今、一気に記憶が鮮明になって」
すべてが繋がっていく感覚に、興奮しながら思い出したことを伝えると彗さんは「やっぱり僕かも」と嬉しそうに笑ったし深澄は酷く苦い表情を浮かべていた。
「ごめん深澄……なんか、こんな結末で……」
本当にありもしなかった花を探していたんだとわかり、それの捜索に付き合わせていたんだと思うと途端に興奮が落ち着き、申し訳なさが募り謝罪の言葉が口を衝く。
「いや、なんにせよ見つかってよかった」
「うん、それは……うん」
優しい言葉をかけてくれる深澄に、良心が痛み頷くしかできない。
「でも地元が近いわけでもないのに不思議だね」
「旅行か法事かは忘れたけど、どこか遠出した時にもらった記憶があるから……それかも」
「なるほど。それなら可能性あるか」
オレと同じように冷静になった彗さんに、その可能性はどうだろうと言われてまた記憶が蘇り、そこが知らない公園だったことを思い出した。
だからそれかもと告げると、彗さんも納得したようだった。
そうはいったところで、小学生の頃の曖昧な記憶であることには変わりはない。
今となってはそれが本当に絵の具を塗った青いガーベラで、くれた相手が彗さんである確証はない。
ただ限りなく、正解に近いだろうと思うのが限界だ。
でも今のオレはこれが答えであればいいと思う。
だってオレの中から花を探す理由が完全になくなるから。
「不思議な縁もあるものだね」
彗さんがかけてくれた言葉に小さく頷くと、彗さんも嬉しそうににこりと笑った。
そしてその目に一瞬だけ寂しさが滲む。
「でもそっか。深澄より先に出逢ってたら、僕の運命の人はつーちゃんだったかもね」
ぽつり、と零れ落ちた声にオレがなにか返すよりも先に深澄が「彗星」と呼びかけた。
「スミの恋人を取ったりしないって。奪ったりするのは主義じゃない」
彗さんはそんなつもりはないと首と手を振って、「そろそろ仕事に戻らなきゃ」と言うなりいつものように穏やかな表情と声で店を出て行く。
ドアが閉まり、その背中が見えなくなり、鈴の音が聞こえなくなってからオレは視線を深澄に向けた。
「今のどういうこと?」
聞いてもいいのかと思いつつ、あまりに曖昧だったことと。
二人はなにか事情を理解し合っているという感じだったから、問いかけたら深澄は小さくため息を吐いた。
「彗は、『たった一人の運命の人』としか恋愛しないらしい」
「へえ、それはまた特殊な……」
そのため息は呆れを含んでいたけどみっともないとかそういうのでないのはわかる。
深澄が自分のことを「重い」と打ち明けてくれた時の雰囲気に似ているので、オレはそれ以上なにかを言うのはやめた。
「そういえば、今日は客としての来店か?」
「あ、そう。新しいの買いに来た。店主さん、なんかおすすめある?」
彗さんの車が走り去る音がしてから、深澄が作業の手を止めてオレに視線を向ける。
ちょっと冗談めかした口振りに、靴底を鳴らしながら乗っかって返したら深澄がカウンターから出てきて、季節の花が並ぶ一角へと歩み寄った。
「この時期に人気なのはやはりミニヒマワリだな」
「おお、夏って感じだ」
オレは深澄の後を追いかけ、鮮やかで目立つヒマワリを見やる。
よく見るヒマワリより一回りくらい小さくて、確かにこれなら一輪でも部屋に飾っても悪くなさそうだ。
「でも俺が紡葵に選ぶなら、トルコキキョウ。白もあるが薄い紫の品種を仕入れたから涼しげでいい」
深澄は静かな声でそう続け、一本のトルコキキョウをオレに差し出した。
どことなく気障っぽく感じてしまうのはオレの欲目だろうか。
なんだか妙に恥ずかしくなってしまい、視線を花へと落とす。
深澄がオレにって選んでくれたものだから、別のを選ぶという選択肢は浮かばなかった。
「じゃあ、それにしよっかな。これどれくらい持つ?」
「二週間くらいは持つな」
淡々と答えながら、深澄がかすみ草にも手を伸ばそうとする。
二週間、と心の中で反復してハッと思い出した。
「あ、」
「どうした?」
思わず足を止め、口から零れ落ちた声を聞いて深澄もその手を止めた。
「いやなんでもない。なんでもなくないけど、花はそれで大丈夫」
「そうか。かすみ草はサービスでつけておく。少し悪くなってるやつだから、ダメになったら先に捨ててくれ」
「わかった」
今用意してもらってる花とは関係ないと首を振れば、深澄はそれ以上追及するでなく話を続ける。
カウンターに戻った深澄の手によって、透明のフィルムに包まれていくのをオレはじいと眺めた。
「オレ、この花買ったらしばらく花買えないかも」
「そうか」
なんて告げれば語弊なく伝わるだろうと考えたが、深澄はいつもと同じように短く返すだけだった。
でもそれがどうしてだろう、オレを安心させる。
へにゃりと笑うとそんなオレを見て、深澄が口元を緩めた。
「なんだ」
「今住んでるアパート、改修工事するらしくて。それ自体は少し先なんだけど、新しい場所探すにしろ一時的に社宅に移るにしろ。まだ予定が読めないから、面倒見れない植物買って飾るのもなって思ってさ」
「なるほど」
「うん。落ち着いたらまた買うからその時は選んでくれ」
そういう事情だからと告げれば、ちゃんと伝わったのか深澄は「わかった」と言った。
だがそこでふと、花を包み終えた深澄の手が止まる。
「もしまだ、工事の間のこと決まっていないなら」
「うん」
「俺の家に来たらいい」
「え?」
いつもと変わらぬ声色、口調で言われて一瞬だけ理解が追いつかなかった。
視線を深澄の手元から顔に向けると、冷静に「出来た」と言われて花を渡されてさらに困惑する。
いや、このタイミングなのは絶対狙ってる。
「どうした、苦い顔して」
「深澄ってたまに、その。気障だよな」
「そうか? 好きな相手の前でかっこ付けたいのはよくあることじゃないか?」
「その返しは卑怯」
オレがお金払って買うんだからさ、受け取るけど。
言いたいだけの文句を垂れるが深澄には通用しなかった。
わかっていていなされたのか、通用しなかったのか。あまりに当然のように言うから判断がつかない。
「ありがたいけど、でもひと月以上は絶対にかかるし申し訳ないよ。大家側の事情での工事になるから費用云々はないらしいからこのまま引っ越すのも考えてるし」
深澄はすぐには答えず、オレの手元にあるトルコキキョウへ一度視線を落とした。
そして少しだけ考えるように黙ったあと、深澄が顔を上げる。
「結果的に引っ越すなら、俺の家でもいいだろ」
視線を逸らさぬまま、ハッキリと言われて思わず返す言葉が詰まった。
そう言われてしまえば確かに、そうなんだけれど。
「……いや、それは」
ただ「はいそうですか」と即答はしづらい。
深澄が嫌とかではない。
ただ付き合って間もないのにとか、恋人だとしても急に人の家になるのは申し訳なさがあるとか。
ぐるぐると色んなことを思案しているオレを見て、深澄がゆるりと首を傾ける。
「なにか問題があるか?」
「問題っていうか……。その、深澄だって……急にオレが引っ越してきたら場所とかさあ」
「元々物のない部屋だ。俺は問題ない」
「そーなんだけどさあ」
ずっと手に持っていたらしおれてしまいそうで、オレは持っていた花をカウンターに置く。
正直、深澄の誘いを断る強い理由はない。
だからこそ困っている。
オレが「うーん」と呟いたのを聞いて、深澄がゆっくりと口を開いた。
「もし、オレが紡葵を抱きたいと言ったことが理由で困らせているなら。それが今答えに迷っている理由であるなら断ってくれて構わない」
色んなこと考えて答えに迷っていたのは確かだけれど、それについてはまったく過らなかった。
それ自体にはオレの中では答えが出ていたというか。深澄の家に住もうが住まなかろうがいずれはあるだろうと思っていたから。
だから違うと首を振ると、深澄は大袈裟にはしなかったが目の奥に安堵が滲んだのがわかった。
「それが理由では断らない。絶対に」
オレは深澄が好きだから付き合ってる。
でももしかしたら、オレと違って深澄はずっと考えていることがあるのかもしれない。
本人はあまり恋愛をよしとしていない印象あるし。変なところ積極的だけど。
なんにせよ、その理由だけはないと再び首を振ってハッキリと告げたら、小さくフッと笑ったのが聞こえた。
前もこの手の話した時、笑われたな。
「そうか。なら、断る理由を聞かせて欲しい」
「全部言ったよ。でも深澄が全部いらない心配だって返してくる」
だから困っているんだろうと鼻を鳴らして返せば、何故か深澄が嬉しそうにしているように見えた。
「迷惑をかけることになるから申し訳ないと思っているのが理由なら、そんなことを気にする必要はない。俺が迷惑だと思うなら、最初から誘っていない」
そこで一度言葉を切って、深澄はまっすぐ俺を見る。
次に言われるだろう言葉が想像がついてしまって、心臓がうるさく鳴り響いて、顔を、視線を、逸らしたいのにできない。
「俺が、紡葵といたいから来ないかと誘っている」
なんとなくわかっていたはずなのに。
真っ直ぐに向けられた言葉を、オレはもう一度頭の中で繰り返した。
申し訳ないからと遠慮する気持ちは、今度こそなくなってしまった。
深澄が一緒にいたいと言ってくれている。まるで望んでいるのはそれだけだというように。
それが嬉しいオレには断る理由などない。
「……じゃあ、お世話になります」
オレはまだうるさい心臓の音を落ち着かせるように、胸元に手を置きながら軽く頭を下げる。
「ああ」
だが深澄はあっさりと頷くだけで、なんだか拍子抜けしてしまった。
もっと何か、こう……一緒に暮らすことになった実感みたいなものが湧くのかと思っていたけど。
でも実際は、これからの予定が一つ決まっただけのような、妙に落ち着いた気持ちだ。
それが嫌なわけではない。
むしろ、これから深澄と暮らすのだと思うと、胸の奥がじわりと温かくなった。
*****
深澄と一緒に暮らすことが決まってから、数日後。
仕事終わりにスマホを確認したら莉音から『外でメシ食おうと思ってるんだけど、予定がなければ一緒にどう?』と連絡が入っていた。
それに『行く』と返すとすぐに既読がつき『ここにいる』と返ってくる。
オレはバイクを走らせ、莉音のいるファミレスに向かった。
「お待たせ」
店に入って店内を見渡すとすぐに銀髪が見え、店員に「待ち合わせです」と伝えてから見えた背中に近付いて声をかける。
案の定本を読んでいて、オレに気付くと莉音はしおりを挟んで手に持っていた本を閉じた。
「急に悪かったな。珍しくちゃんと食べようと思って」
「普段からちゃんと食えよ本の虫」
「食べてはいる」
そのまま向かいの席に座って、他愛ない話をしながら冊子タイプのメニューを開く。
「でも誘ってくれてよかった。近い内店に行こうと思ってた」
「別にいつでも連絡くれたらいいのに」
「それでもいいかなって考えたけど。オレも莉音に逢う理由が増えるならいっかなって思っちゃって」
オレはメニュー表を指差しながら、話を続ける。
莉音もそれを聞きながらタブレットで注文をしていたが、それを終えると肩を揺らしながらケラケラと笑った。
「ふふっ、おれのこと好きすぎ。でもまあ、おれも今日誘ったのただ逢いたかったからだからなあ」
恥じらいもなく交わされるやりとりに、オレたちはどちらからともなく「ははっ」と笑い声を上げた。
「深刻な話?」
「いや? 近況報告」
「なに?」
なに、と聞かれて一瞬言葉に迷う。
改めて口にしようとすると、思っていたより照れくさい。
「えーっと、青い花見つかった」
「あー、前に言ってたやつ」
「そう」
眉を上げたのを見て、忘れかけてたんじゃと思ったがあんな話覚えている方が特殊だ。
だが頷くだけでそれ以上を深く尋ねるでもないあっさりとした反応に、莉音らしいと思う。
「よかったじゃん。喉のつかえが下りて」
「うん」
少しだけ笑って、そう言ってくれるだけで。オレには充分だ。
「あと、もう一つ……オレとしては、こっちの方が本題かもしれなくて」
「ん?」
「深澄と一緒に暮らすことになった」
一旦軽めの報告を挟んで、さらには前置きをしてから本題に入ると莉音の動きが僅かに鈍った。
ハッとした莉音がなにかを返そうとしたのがわかったが、注文した商品を持ってきた店員がオレたちに声をかける方が早かった。
「チキンのグリルのお客様」
「あ、オレです」
店員はオレと莉音の前に食事を置き、最後に伝票を置いて戻っていった。
妙な無言の間が流れて、一瞬だけ気まずくなる。
「食べる? 冷めるし」
「食いながら聞かせて」
「はい」
莉音に言われ、オレは手を合わせ肉とごはんを口に運びながらゆっくり説明する。
アパートが改修工事することになって、しばらく住めなくなること。
その話をしたら深澄と住むことになったこと。
それから、工事が終わった後も一緒に暮らすことになったこと。
「付き合ってそう経ってないのに随分一気に話飛んだな」
「それは……オレも思ったけど。でも別に別れるつもりで付き合ってないし」
「それはそう」
莉音の態度は、一貫してオレが納得しているなら好きにしたらいいといったものだった。
だが言いたいことがないわけではないと言いたげに突っ込まれて、ついオレも似たようなことは思っていたと無意味な言い訳をしてしまった。
莉音はただ静かに頷いていたが。
「その人んとこにずっと?」
「いや、長期で二人で住む部屋じゃないからいずれ引っ越すって話はしてる」
「うまく運ばされてない?」
莉音の指摘に、思わず苦笑が漏れた。
最初は工事の間だけ世話になるつもりだったのに、気付けばその先のことまで深澄の言葉に乗せられている。
「思った。でも別にいい」
さっきは無駄に言い訳してしまったので今度は素直にそう答えると、莉音が頬杖をつきながら呆れたようにオレを見た。
「好きだもんなあ、強引にされんの」
「うるさい」
図星を突かれて思わず顔を顰めたら、莉音はそれをからかうように笑って、すぐに少しだけ表情を和らげた。
「でも紡葵が嬉しいって思ってんだったらそれでいいよ、おれは」
莉音は満足そうにそう言うと、テーブルに置いていた本へと手を伸ばし視線を落とす。
それを一瞥してから「甘いのなんか食う?」と聞いたらすぐに「食おうかな」と返ってきた。
*****
それから、少しずつオレの生活も変わっていった。
八月も終わりに近付いた頃、オレは改修工事が本格的に始まる前に今のアパートを解約して深澄の部屋に世話になることになった。
最初の頃はどうしても人の家にお邪魔しているという感覚が抜けず落ち着かなかったけど、深澄が色々と気遣ってくれたおかげで半月もすればそれなりに慣れた。
仮住まいに慣れた九月の半ば頃、彼岸も終わりお盆から続いた深澄の忙しさが落ち着いたので、本格的に二人で暮らす家を探し始める。
「なにか希望はあるか?」
「ないから逆に困ってる」
そんなことを話しながら、休みの日にいくつか部屋を見て回って部屋が見つかったのは十月の頭。
そこからはあっという間だった。
気付けば包んだ荷物や家具が、新しい家に着いていて。
二か月ほど前には想像もしていなかった場所から、また新しくオレと深澄の生活が始まる。
引っ越し業者が帰ったあと、部屋には必要最低限の家具だけが残された。
ベッドやローテーブル、いくつかの収納家具がどれも所定の場所に置かれているが、それ以外はまだなにもない。
部屋の隅には開けていない段ボールが積まれていて、生活に必要なものはほとんどそこに詰め込まれたままだ。
シンプルなビジネスホテルなんかよりも更に質素で、本当に人が住む部屋になるのか? って思うほど。
「腹、減ったかも」
ズボンのポケットからスマホを取り出して時間を確認すれば、もう昼も大分過ぎていた。
腹の虫が鳴く前にと呟いたが深澄の反応がない。
「深澄?」
深澄は静かにまだなにもない部屋を見ていて、オレに呼ばれて視線と意識をオレに向ける。
そして数秒黙ってオレを見ていたかと思うと、瞳を細めゆっくりと口を開いた。
「花を」
「ん?」
「花を、飾ろうと思う」
ぽつり、と零れ落ちた言葉にオレの顔は勝手にへにゃりと笑みを浮かべていた。
釣られたように深澄の表情も少しだけ柔らかくなる。
「ちょっと待って」
オレはそう告げ、自分の段ボールを漁る。
同じ段ボールでどこにしまったのかわからなくなり、三つも開けてしまったが探していた物は見つかった。
元々オレのアパートに置いていた、一輪だけ飾れる安物の花瓶をローテーブルの真ん中に置く。
「これに、この部屋に、似合う花で!」
深澄のいる方を振り返り、花瓶を指差しながら言えば深澄はふっと小さく笑った。
「なら、昼を食べがてら一緒に選びに行くか。特別に店を開ける」
「へへっ、やった」
僅かに離れた距離をオレは駆けて縮め、手を伸ばして深澄のシャツを掴んだ。
その手を深澄は優しく離すと、指を絡めて繋ぎ直す。
ふとオレを見る視線に熱がこもったのがわかってつい視線を逸らしたが、顎を掴まれて半ば強制的に顔の位置を戻されキスをされた。
「……してもよかったか?」
「ぜ、全部やっといて今言うか?」
触れるだけの長いキスだったが、唇が離れてよかったのかと聞かれて怒っているわけではないけどつい、なら聞くなよと思ってしまった。
眉根を寄せるオレを見て、深澄が緩く首を傾げる。
「嫌がらないだろうなと思ったからしたんだが、同意を得ずにしてしまったのはよくなかったかなと」
真っ直ぐに見ながら、反省してますって態度取られるとなにも言えなくなる。
だって、嫌じゃないの見透かされてるんだからどう言い返したって無意味に思えるからだ。
オレはふん、と鼻を鳴らしてから深澄の手を強く握り返す。
「もう一回、してくれたら許す」
誰が聞いたって言いたいだけの文句に、深澄は可笑しそうに笑うと短く「わかった」と言って。
優しく、優しく。
触れるだけのキスをした。
それから数日後。
荷をほどき、新しい家具を買い揃えた部屋の中心には。
一緒に選んだ鮮やかな花が、飾られていた。
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