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番外編1
番外編1
午後、空はどんよりと曇っていた。窓を打つ雨の音が、部屋に低いリズムを刻む。その雨音は激しく地面を叩き付ける。涼真はソファに横たわって、額を押さえていた。眉間にしわを寄せ、吐き出す息が浅い。
「……っくそ、だりぃ」
かすれた声に、台所から「んだよ、またか」と薫の声がする。彼はペットボトルの水と冷えたタオルを片手に戻ってくると、乱暴に見える手つきで涼真の額にタオルを置いた。
「冷たっ……」
「いいだろ。我慢しろ」
「お前な……もうちょい優しくできねぇの」
「優しいだろ。こうして持ってきてやってんだから」
涼真は小さく笑って、それから苦しげに目を閉じる。薫はため息をつき、彼の横に腰を下ろした。
「……で、また気圧か」
「ん……そうみてぇだわ」
「ふーん。……そういや」
薫は不意に笑った。
「お前、あん時もしんどそうだったよな。……なるほど、気圧だったのか」
「……あん時?」
「お前が、初めて泣いた日」
涼真は一瞬で顔を赤くした。
「……っ、あー……やめろ。思い出したら恥ずかしくなってきた」
「ふはっ……可愛かったがな」
「うるせ……」
「事実だろ」
「……薫のそういうとこ、ずるい」
涼真は顔を逸らしたが、耳まで赤い。その仕草に薫は小さく笑い、乱暴に見える手で涼真の前髪をかき上げた。
額に触れた指先は、意外なほど優しい。
「熱はねぇな。……でも、顔はしんどそうだな」
「……うん。目ぇ回るし、吐きそう」
「はぁ……ったく。しょうがねぇな」
薫は立ち上がり、ブランケットを持ってきて涼真の体に掛ける。
「寒くねぇか?」
「……ちょっと」
「じゃあこっち来い」
「え」
言うが早いか、薫は涼真を抱き上げた。
「……っ、お前、急にすんなよ!」
「暴れんな。余計しんどくなるだろ」
ソファからベッドへ。薫は涼真をベッドに寝かせ、自分はその隣に腰を下ろす。そして何も言わず、涼真の背を撫でた。
「……薫」
「ん」
「ありがと」
「当たり前だろ」
短く答えて、薫は涼真の髪に指を絡める。静かに雨音だけが響く中、涼真は小さく笑って、ぽつりと呟いた。
「……あの日も、こんな感じだったな」
「泣いてた時?」
「うん。お前が、助けに来てくれた日」
薫は笑う。
「ふっ……じゃあ今日も助けてやってんだ。二回目な」
「……そういうこと言うと、また恥ずかしくなる」
「いいだろ、別に。誰も見てねぇし」
「……ほんと、お前の前だと気が緩む」
「それでいい」
薫はそう言って、涼真の額に唇を落とした。涼真はそのまま、力を抜いて薫の胸に顔を埋める。
外の雨はまだ止まない。でも、二人の世界は静かで、ぬくもりで満たされていた。
「あ、つかお前、そういや、女助けた時も雨じゃなかったか?あん時は大丈夫だったのかよ」
「ん?あー、あの時は助けるのに必死だったし、」
「ふーん、そういうこと。無理するタイプってわけね」
「別に無理じゃねぇし」
「言ってろ。今だってすげぇいてぇくせに」
「るせぇ……っ……はぁ……」
涼真の呼吸が荒い。さっきまでの軽口は影も形もなく、額には細かい汗が浮いている。眉間を押さえ、爪が食い込むほど強く握りしめた手が震えていた。
「……涼真?」
薫が低く呼ぶと、涼真は首を振る。
「……やばい……気持ち悪ぃ……」
声は掠れて、震えていた。薫はすぐにサイドテーブルから水と薬を手に取り、ゴミ箱を近くに置いた。
「起きられるか」
「……っ、無理……」
「薬飲まねぇと酷くなるぞ」
涼真は必死に薬を飲み下したが、その直後、顔を歪め、喉を押さえて固まった。
「……っ……吐きそう……」
その声は、痛みよりも恐怖で震えている。薫は気づいた。
――これは単なる気持ち悪さじゃねぇ。吐くこと自体が怖ぇんだ。
「……怖ぇか」
「……っ……うん……吐きたくない……やだ……」
涼真の目が大きく揺れて、涙が滲む。その手は膝の上で握り締められ、爪が白くなっていた。薫はゆっくりと息を吐き、低く落ち着いた声で言った。
「いい、吐かなくていい。無理に出す必要ねぇ。俺がここにいるから」
そう言って、背中を優しく支える。
「深呼吸しろ。ほら、俺の声に合わせろ。吸って、吐いて……そうだ」
だがその時――
「……っ、うぇ……っ」
涼真の喉が痙攣し、えづく音が漏れた。
「――っ……やだやだやだ……吐きたくない……!」
その声は震え、涙が頬を伝う。
「涼真、落ち着け、大丈夫だ」
薫は背中をさすりながら、吐き気を堪える涼真を支える。
「……っ、く、う……っ……やだ……吐きたくない……」
肩が震え、必死に喉を押さえる手に力がこもる。恐怖で全身が硬直していた。
「なぁ涼真。吐いてもいい、でも怖ぇなら吐かなくていい。お前が選べ」
「……吐きたくないっ……でも……気持ち悪……」
「じゃあ、吐かなくていい。俺が隣でずっといる」
薫はカーテンを引き、部屋を薄暗くする。
「光も遮った。これで少しは楽か」
「……うん……」
その声はかすれ、今にも泣き出しそうだった。涼真は薫の胸に顔を埋め、強くしがみつく。震えは恐怖と痛みの混じったものだ。薫はその背中をゆっくり撫で、一定のリズムで呼吸を促す。
「……はぁ……っ……ぐっ……う……っ……怖い……」
「いいよ、吐かなくていい。俺がどうにかする」
「……お前……なんでそんな……」
「好きなやつが泣きそうになってんのに、放っとけるか」
涼真の指先が薫の服を握り、涙がぽとりと落ちる。
「……お前、ズルい……」
「ズルい男で悪かったな」
しばらく、薫は何も言わなかった。ただ、涼真の呼吸が安定するまで、ずっとその背中をさすり続けた。やがて、恐怖で硬直していた涼真の体が少しずつ緩んでいく。
「……落ち着いたか」
「……うん……吐き気……少しマシ……」
「よし、このまま寝ろ」
「……一緒に……」
「当たり前だろ」
薫はベッドに横たわり、涼真を腕の中に閉じ込めた。涼真はかすれた声で呟く。
「……ありがと……薫……」
「……俺が守ってやる。安心して寝ろ」
涼真のまつ毛が震えながらも、やがてゆっくり閉じていく。恐怖の影を完全に消せるのは、きっとこの腕だけだ。薫はそう確信しながら、そっとその額に口づけた。
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