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第9話 困惑

 夕刻の城は、昼とも夜ともつかない曖昧な色に染まっていた。  高い窓から差し込む夕焼けが、廊下を赤く照らす。 長く伸びた影が床を這い、静まり返った空気の中で、足音だけがやけに響いた。  昼間の喧騒が嘘のように、人の気配はまばらだ。みんな食堂に集まっているのだろう。  こんな時間に男に呼び出されるのは、初めてではない。 「……失礼します」  扉を叩き、返答を待って中へ入る。  執務室には、いつも通りの光景があった。  机に向かうヴィルユーグ。  彼の前には山のように積まれた書類。  そして、途切れることのない筆の音。 「来たか」  ヴィルユーグは顔も上げずに言う。 「はい」  俺は短く応じ、指示を待つ。 「そこにある資料を見ろ」  示されたのは、いくつもの報告書だった。  内容を確認しながら、必要な意見を述べる。  それに対してヴィルユーグが修正を加え、決裁する。  2人の間の言葉は最小限。  だが、やり取りは正確で、無駄がない。  気づけば、時間はかなり経っていた。  外はすでに、深い夜に沈んでいる。  それでも、ヴィルユーグの手は止まらない。 (……休まないのか)  ふとした違和感を覚え、俺はヴィルユーグの目元を見た。  昼も、同じように働いていたはずだ。  それなのに、疲れた様子を見せない。 (いや、違う)  よく見れば、わずかな変化がある。  ペンを持つ手が、昼間よりほんの少しだけ重い。  そして視線の動きが、微かに遅い。  気づかない程度の差。だが、確かにある。 「……陛下」  俺は思わず、ヴィルユーグに声をかけていた。 「何だ」  視線は書類のまま。 「お休みには、ならないのですか」  一瞬、手が止まる。しかし、またペンを走らせる。 「必要ない」  即答。 「ですが――」  言いかけて、言葉が詰まる。  だが、俺は口を滑らせてしまった。 「……眠れていないのでは」  今度は、完全に手が止まった。  沈黙が落ちる。  やがて、ヴィルユーグがゆっくりと顔を上げた。  その視線が、まっすぐにこちらを捉える。 「問題ない」  その答えは、否定ではなかった。 「この程度で支障は出ない」  淡々とした声音。  事実として言っているだけなんだろう。  でも、胸の奥に、言葉にならない感情が生まれる。  休まないのではない。  休めないのだ。  この国の全てを背負っているから。  判断も、責任も、結果も。  誰にも預けず、一人で抱え込んでいる。 (……一人で)  気づいてしまう。  この男は、誰にも頼らない。  いつもこの部屋で、ひとりで全てを受け入れて。  頼れないのではなく、最初から選択肢にないんだ。 「……少しは、休まれるべきです」  自然と口をついて出た。  ヴィルユーグの眉が、わずかに動く。 「それは、命令か」 「いえ」  首を振る。 「進言です」  静かに返す。  ヴィルユーグはしばらくこちらを見ていたが、やがて視線を外した。  そして。 「……なら」  ぽつりと、落ちる。 「お前が、そうさせればいい」  一瞬、意味が理解できなかった。 「……は?」  思わず声が漏れる。  ヴィルユーグは立ち上がり、書類をまとめる。 「今夜、部屋に来い」  淡々とした口調。  まるで当然の命令のように。 「俺が眠れるようにしてみせろ」  その一言に、思考が止まる。  心臓だけが、ドッドッドッと激しく揺れる。 (……この人は、何を言っている)  理解が追いつかない。  命令の意図も、その理由も。 「……陛下、あの――」  言いかけて、言葉が続かない。  ヴィルユーグは一言、 「今日はもういい。下がってろ」  それだけ言い残して、また黙って書類と睨めっこに戻った。  俺1人が取り残された気分で……静かに部屋を出るしかなかった。 「……何なんだ」  呟きが、やけに大きく廊下に響いた。  胸の奥だけが、騒がしい。 (ヴィルユーグは、何を考えている?)  答えは出ない。  ただ一つだけ確かなのは。  今夜、自分は……あの男の部屋へ向かうことになる、ということだった。

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