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第16話 戸惑い
唇に残る感触が、消えない。
昨晩、熱に浮かされたヴィルユーグに引き寄せられ、触れたそれが何だったのか――リヨンには未だに分からなかった。
いや、正確に言えば、ヴィルユーグはどういうつもりだったのか。
しかし、問いただす前に彼は眠ってしまったのだ。
(……本当に何だったんだ、あれは)
翌朝、ヴィルユーグは何事もなかったかのように起き上がり、普段通り執務へ向かった。顔色もよく、昨夜の弱りきった様子など微塵も残っていない。
(覚えて、いないのか……?)
聞く機会はいくらでもあった。だが、結局俺は口を開けなかった。
あれに意味があったのか、それともなかったのか。答えを知るのが、妙に怖かった。
(……ただ、弱っていただけだ)
そう自分に言い聞かせる。
熱に浮かされて、人肌が恋しくなった。それだけだ。深い意味などあるはずがない。
(そうだ……気にすることじゃない)
そう結論づけたはずなのに。
それでも、胸の奥に残る違和感は消えなかった。
そして。
それ以上に、違和感を強める出来事が続いていた。
「こっちだ、リヨン」
自然な動作で、腰に手を添えられる。
まるで大切な人をエスコートするかのように。
「……っ」
一瞬、息が詰まる。
そのまま軽く導かれる形で歩き出す。それでも、ヴィルユーグを拒む理由も、拒む術も見つからない。
距離が、明らかに近い。並んで歩くだけでも、肩が触れそうなほど。
何気ない仕草で距離を詰めてくるのに、ヴィルユーグ自身はまるで意識していないようだった。
それから、ヴィルユーグからの視線も増えた。
ふとした瞬間に目が合う。しかも、じっと見られている。
(……何なんだ、本当に)
理解が追いつかないまま、日々だけが進んでいく。
だが、決定的だったのは――食事の席でのことだった。
並べられた料理の中で、珍しく甘味が運ばれてきたとき。
ほんの少しだけ、意識がそちらに向いた。
アルヴェリアではイリーナが甘い物好きだったため、俺も共に食べる機会が多かった。いつしか、俺も間食をすることが習慣化されていたが、ここにきてからはそれを忘れていた。
口に含むと、その甘さに自然と口角が上がる。
――その瞬間。
「……甘いものが好きか」
「え?」
思わず顔を上げる。
ヴィルユーグはいつもの無表情のまま、こちらを見ていた。
「……あ、はい。嫌いでは、ありませんが」
どうしてそんなことを聞くのか。
問いかける前に、彼は短く頷くだけだった。
「そうか」
それきり、話題は終わる。
だがその一言が、妙に引っかかったまま残った。
――そして翌日。
ヴィルユーグは城外へ半日間の視察に出た。
リヨンは同行を命じられず、城に残るように言われた。
降って湧いた自由な時間だったが、かといって特にやるべきこともなく、俺は訓練場にいくなどして時間を潰した。
静かではあるが、なんだかかえって居心地が悪い気がする。
そして昼過ぎ、ヴィルユーグは帰還した。
「リヨン」
戻ってきたヴィルユーグに呼び出され、さっそくかと思いつつも俺は従った。
「少し付き合え」
「……は?」
短くそう告げられ、説明もないまま歩き出す背を追う。
案内されたのは、城の奥――普段は立ち入ることのない区域だった。
(こんな場所があったのか……)
やがて辿り着いた先で、ヴィルユーグは足を止める。
そこは、静かな庭園だった。
高い壁に囲まれ、人の気配はない。木々の隙間から差し込む光が、柔らかく地面を照らしている。
風が揺らす葉の音だけが、静かに響いていた。
「ここは……」
「幼い頃からよく来ていた」
ヴィルユーグのお気に入りの場所といったところなのだろう。
(……そんな場所に、俺を?)
胸の奥がなぜかむずむずとする。
誤魔化すように視線を移すと、庭の端には小さなテーブルと椅子が用意されていた。
そして、既に茶器が並べられている。
「そこに座れ」
促されるまま、向かいに座る。
やがて、クラウスから紅茶を注がれ、皿が差し出された。
そこに並ぶのは、焼き菓子や小さなケーキ。
それをひとつ手に取り、口に運ぶ。
「……美味しい」
思わず、素直な感想が漏れた。
その瞬間、はっとする。
視線が、こちらに向けられていることに気づいたからだ。
(……見られている)
まるで、俺の反応を確かめるように。
わずかに居心地の悪さを覚えながらも、もう一口クッキーを食べる。
ホロリと崩れる食感と甘さが、じんわりと口の中に広がった。
すると、ヴィルユーグが口を開く。
「さっき、視察のついでに買った」
「……え?」
思いもよらぬ言葉に、俺は思わず顔を上げた。
ヴィルユーグは、何でもないことのように紅茶を口に含んでいる。
そんな短い言葉では意味が理解できない。でも、甘いものを食べないヴィルユーグが買ったということは……これは俺に?
思考が繋がった瞬間、心臓が跳ねた。
(……俺のために?)
じわりと、顔が熱くなる。
視線を逸らそうとした、その時。
「ついている」
「っ」
ヴィルユーグの指が、唇に触れた。
それはほんの一瞬だったけど。
確かに触れられた感触が残る。
すみません、とか、言ってくれればよかったのに、とか言いたいことはあるのに声にならずにパクパクと口だけが動いてしまう。
あの夜の記憶が、鮮明に蘇ったからだ。
いや、あの時のヴィルユーグは体も心も弱っていた。だから、他意はないはず。
なぜなら……俺は。
任務の相手。
そして、同盟が結ばれていない今は敵国でもある。
距離を詰める理由など、どこにもないはずなのに。
それでも。
こうして用意された時間も、場所も、言葉も。
すべてが、自分に向けられていると感じてしまう。
(俺はどうしたいのか……いや、わからない)
ただ一つ確かなのは――この状況を、嫌だとは思っていないということだった。
沈黙の中、紅茶の湯気が揺れる。
その向こうで、ヴィルユーグが静かに口を開いた。
「お前の好みは覚えた」
「……え?」
息が止まるような気がした。
顔が熱い。
何も言い返せないまま、視線を落とす。
それでも、この場で言わなければいけないことがある。
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