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第19話 本音(冷酷王side)
朝の空気は、妙に静かだった。
いつもと同じ時刻、同じ執務室。整然と並ぶ書類、控える侍従の気配。何一つ変わらないはずなのに――昨日までそこにいたはずのものだけが欠けている。
私は書類に目を落としたまま、ふと視線を上げた。
無意識に、隣を見る。
(……いない)
いるはずがないと理解している。それでも、違和感は消えない。
余計な口出しも、遠慮のない視線もない。ただ静かなだけの空間が、やけに広く感じられた。
その時、侍従が一歩進み出る。
「ご報告がございます」
「言え」
「リヨン殿が……早朝、城を出られました」
一瞬にして、思考が止まった。
「……いつだ」
「夜明け前には既に」
いつも通りの簡潔な報告。それは私が望んだはずなのに、今は何故か苛立ちさえも覚える。
私の頭には昨夜の光景が脳裏に浮かぶ。
庭園でのやり取り。そして私の言葉に対し、怒りを滲ませて部屋から去っていった背中。
(……朝に、話すつもりだった)
あの場の私は、冷静ではなかった。言葉の選び方を誤った可能性がある。
一晩置いて整理し、改めて伝えるつもりだった。
だが――その機会は、もうない。
胸の奥に、妙な空白が広がる。
怒りでも苛立ちでもない。ただ、どう扱えばいいのか分からない感情。
(……どうすればいい)
そんな問いが浮かぶこと自体、異常だった。
私はこれまで、判断に迷ったことなどない。常に合理的に考え、最適解を選んできた。
だが今は……分からない。
「陛下、本日の予定はどうなさいますか」
「……予定通り進める」
そう告げる。思考が定まらずとも、公務は今日も山積みだ。
朝の会議直前。
扉が開き、軽い足取りで入ってくる男がいた。
「おはようございます、陛下」
騎士団長のアレクシスだ。
人前では一応敬語を使っているが、へらへらとした顔は隠せていない。
金髪の緩くカールの入った髪を揺らし、私に近づいてくる。
「……リヨンがいないようだが、どうした?」
彼にとっては何気ない問いだったのだろう。
「出て行った」
私は即答した。
すると、アレクシスの動きが止まる。
「……は?」
「今朝、城を出たらしい」
同じことを言うと、彼は大きく息を吐いた。
「……で、追わないのか?」
「……追わなければならないのか?」
ギロリと鋭い目線が私に向けられる。今は上司と部下の立場であることを、忘れているようだった。
「お前なあ、質問に質問で返すんじゃねえよ」
私は正直に答えた。
「わからないんだ……どうすればいいのか」
自分の口から出た言葉は、自分でも思いがけないものだ。
だが、それが事実だった。
「お前がそんなことを言うとはな……」
呆れたように笑いながらも、アレクシスの目は真剣だった。
「それで?何があったんだ」
問い詰める視線に、私は一瞬黙る。
だが、隠す必要はない。
「……キスをした」
「は?」
間の抜けた声が返ってくる。
「要因として考えられるのはそれだ」
「無理矢理……したのか?」
「いや、拒んだ様子はなかった」
あの瞬間を思い出す。
触れた唇。逃げずにそばにいたリヨン。
(受け入れられたと、思った)
だから私は――。
「その後、“手に入れたい”と言った」
アレクシスが「あちゃあ」と言って顔を覆った。
「お前……それで逃げられたのか」
「……そうなのか?」
私の問いに、深いため息が返る。
「お前の言い方が悪い」
はっきりと断言され、私は眉根を寄せた。
「……何?」
「“手に入れたい”なんて言われて喜ぶ奴がどこにいる」
私は黙る。
昔から欲しいものは手に入れたいと明言してきた。そうしなければ、誰かに掻っ攫われると教わったからだ。
それに……。
「……拒まれなかった」
「それはその場の状況だろ」
即座に返されるが、ぐうの音もでない。
「お前、相手の立場で考えたことあるか?」
そんなことを聞かれても……。
わからない。
言葉が出ない私を見て、アレクシスは頭を掻いた。
「……にしてもお前、あの騎士に入れ込みすぎだろ」
「……そう見えるか」
「見えるどころじゃないな」
そこで、私は一つの仮説を口にした。
「……初めて見た時から、妙に引っかかっていた。あの銀髪……覚えがあるんだ」
アレクシスは俺の話をじっと聞いている。
「覚えているか。十年前のアルヴェリアの夜会を」
アレクシスの表情が変わった。
「……ああ、あの時か」
「父に連れられて行った」
社交の場が苦手で、私は途中で抜け出した。
人のいない、静かな場所を求めて庭に出る。側にアレクシスを従えて。
月明かりの下――一人の子どもがいた。
十歳前後だろうか。
銀の髪が夜の光を受けて淡く輝いていた。
少女にも少年にも見えたが……それよりも天使かと思った。
「……あの時、私は道を迷ってしまいその子に話しかけたな」
アレクシスも思い出したように口を開く。
「……ああ、いたな。銀髪の子。まさか……お前」
「……ああ。その後、その子が誰なのか調べさせたが皇族の誰にも当てはまらなかった。それが何故なのか、今ならわかった気がする」
記録にも残らない存在。
だから、その時は諦めた。
「今回の婚姻の話が来た時、まさかとは思っていた」
しかし、相手は15歳の少女。記憶の子とはズレが大きすぎる。
さらに送られてきた肖像は、全く別人だった。
そのため、婚姻に興味は失せた。破談になろうがどうでもよかった。
それなのに――。
「……あいつを見た瞬間、わかった」
言葉が自然と出る。
「あの子なんだと」
アレクシスが小さく息を吐く。
「お前、それでリヨンに執着してんのか」
その言葉に、私はわずかに考える。
「……それだけではない」
だが、確実に一因ではある。
十年前、一言二言しか交わせなかった相手。
そして今、目の前に現れた。手を伸ばせば届く距離に。
アレクシスはしばらく黙り、それから肩をすくめた。
「まあいい。話を戻すぞ」
軽く手を振って、アレクシスはいつになく真面目な顔で言った。
「まず謝れ」
「……謝る必要があるのか?」
「ある」
即答だった。
普段なら不敬だと言われても仕方がない行動だが、今はそんなこと言ってられないくらい私は焦っている。
先を話せと視線で命じる。
「あと説明だ。誤解されてること全部な」
「誤解……」
視線が机に落ちる。
そこには、リヨンが書いた手紙がある。
(……外に出すつもりはなかった)
中身はほぼ改めた。ただの事実のみが記されており、おかしな点は一つもない。
では、なぜ私はこの手紙を出さなかったのか。
(他に触れさせたくなかった)
それだけは確かだった。
「それも含めて説明しろ」
アレクシスが言う。
「でないと、完全に嫌われるぞ」
「……嫌われる、か」
その言葉が、胸の奥に引っかかる。
これまで考えたこともなかった可能性。
今まで生きてきて、誰かから好まれたいと思ったことはなかった。
しかし、リヨンには……。
「お前、それ完全に惚れてるぞ。初めてなんだろ?好みを聞いて、菓子をプレゼントするのは」
沈黙が落ちる。
お前の気持ち、言い当ててやったぜと言わんばかりに得意げな顔をするアレクシス。
だが、私は否定することができなかった。
やがて、私は口を開いた。
「……迎えに行く」
アレクシスが眉を上げる。
「ほう。理由は?」
一瞬考えて、頭の中に明確な答えが浮かび上がった。
「利用できるからではない」
言い切る。そして、そのまま続けた。
「私が望む」
合理性ではない。
自分の意思。
初めての選択だった。
それを聞いて、アレクシスが小さく笑う。
「やっと人間らしくなったじゃないか」
からかうような声。
だが、その響きは柔らかい。
「まあ……行ってこいよ。こっちは何とかなるからさ」
それは、部下ではなく幼馴染としての言葉だった。
私は頷いた。
「準備を整えろ。最短でアルヴェリアへ向かう」
即座に命じる。
無駄のない手配。
だがその目的は、これまでとは違う。
ただ一人を――取り戻すために。
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