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第20話 帰郷
夜明け前の城は、昼間とは異なりシーンと静まり返っている。
人気のない廊下を足音を殺して進みながら、俺は一度だけ立ち止まる。
(……これでいい)
自分に言い聞かせるように、小さく息を吐く。
ここにいる理由はもうない。婚約破棄の話は終わり、同盟の糸口も見えた。これ以上深入りする必要は、ないはずだった。
それでも胸の奥に残るものを振り払うように、俺は歩き出す。
城門へと向かう途中、ひとりの影が立っていた。
「……クラウス」
名を呼ぶと、老執事は静かに頭を下げる。
「お早いご出立でございますね」
「……ああ。世話になった」
それ以上、言葉は続かなかった。
クラウスは何も問わない。
どこに行くのか、何故行くのか。
ただ、わずかに目を細めて――。
「お気をつけて」
それだけを告げる。
引き止めるでもなく、送り出すでもない曖昧な言葉。
何を考えているのか分からないが、俺はただ頷いた。
「……ああ」
短く応じ、城を後にする。
馬房には、来た時に預けたままの愛馬がいた。
きちんと世話をしてくれており、毛並みも上々だ。
「よしよし……帰るぞ」
俺は馬に跨り、そして出発した。
朝靄の中、蹄の音だけが規則正しく響く。
しばらく進んだところで、ふと俺は馬を止めた。
(……あれは)
前方を横切る馬車が目に入る。
見慣れない紋章。服装もどこか異国風だ。
(この辺りで見る顔じゃないな)
そう思いながらも、その時はそのまま通り過ぎる。
最初は、それだけだった。
だが、太陽が真上に昇った頃。
また同じような一団を見かけた。
今度は徒歩の男たち。話している言葉に、わずかな訛りがある。
(……偶然にしては多い)
俺は眉をひそめた。
商人にしては、荷物が少なすぎる。
さらに進むと、街道から少し外れた場所で立ち止まる数人の姿が見えた。
地面に広げられているのは、地図のようだった。
(あれは……)
一瞬、足を止める。
だが相手方も気づいたのか、さっとそれを畳み、視線を逸らした。
先ほどまで賑やかともいえる会話が聞こえてきたのに、全員がぴたりと口を閉じた。
不自然な沈黙。
(……ここで関わっても碌なことにならなさそうだ)
そう思い直し、俺は馬を進める。
だが違和感は消えない。
夕方、休憩のために立ち寄った小さな村で、軽い揉め事が起きていた。
「だから通れるって言ってるだろ!」
見慣れない男が、村人に詰め寄っている。
「ここはうちの土地だ、勝手な真似は――」
言い争いは次第に激しくなり、周囲がざわつき始める。
俺はため息をつき、間に入った。
「そこまでだ」
低く告げると、双方がこちらを見る。
「通行の問題なら、順を守ればいい。それで解決する話だ」
冷静に言い聞かせると、男は舌打ちをして肩をすくめた。
「……ちっ、分かったよ」
男はあっさりと引き下がる。
先ほどまでの威勢は無かったかのように。
(……妙だな)
普通なら、もう少し食い下がるはずだ。
だが男は、まるで最初から争う気がなかったというように立ち去っていった。
(……慣れている)
無用な衝突を避ける動き。
ただの旅人とは思えなかった。
再び馬に乗りながら、俺は小さく息を吐く。
怪しい動きをする男たちに、一つ覚えがあった。
こいつらは別の国からのスパイ。
まさか……戦を仕掛けようとしている?
だがすぐに首を振ってその考えを否定する。
(いや、考えすぎか)
そう自分に言い聞かせた。
隣国間での大きな動きは今のところ聞いていない。そういったことは、王の入れ替わり時期など不安定な時に起きがちなものだ。
そうして思考を切り替えようとした瞬間、不意に――。
あの夜のことが脳裏をよぎった。
触れた唇の感触。
(……何だったんだ、あれは)
思わず手綱を握る手に力が入る。
成り行きとはいえ、されるがままだった自分のことも信じられなかった。
しかも、その後のヴィルユーグの言葉。
『手に入れたい』
男の意図が掴めない。俺をどうしたいというのか。
苛立ちと困惑が混ざる。
人質として、利用したいと考えているのか?
わずかでも血が繋がっているとはいえ、継承権のないただの騎士である俺を?
あまりにも現実的とはいえなさすぎる。
そこで、俺は思考することを放棄した。
やがて国境を越え、見慣れた景色が広がる。
アルヴェリア。
俺の故郷。
安心するはずの場所。
それなのに――。
(……何だ、この感じ)
胸の奥が、妙にざわつく。
城門をくぐると、すぐに同僚たちの声が上がった。
「リヨンだ!」
「帰ってきたぞ!」
一気にリヨンの周りに屈強な男たちが集まる。
囲まれ、肩を叩かれることに懐かしさを覚える。
「無事だったのか!」
「相変わらず綺麗な顔してるな!」
いつもの軽口。変わらない光景。
(……そうだ、ここが)
俺の居場所のはずだ。
はずだったんだ。
「もう戻ってくるよな?」
「しばらくはいるんだろ?」
同僚たちに問いかけられ、一瞬だけ言葉に詰まる。
「……ああ、そのつもりだ」
そう答えながら――。
(本当に?)
自分でも分からない問いが浮かぶ。
その時、聞き慣れた声が響いた。
「リヨン!」
振り向くと、駆け寄ってくるブロンドの髪を揺らした少女の姿。
イリーナだった。
「無事でよかった……本当に心配したのよ!」
勢いのまま腕を取られ、距離を詰められる。
顔が近い。声も明るい。
「あ、ああ……」
近いな、と思う。
以前なら、この距離感が普通だったはずなのに。
「怪我は?何もされてない?」
矢継ぎ早に問いかけられる。
「大丈夫だ、問題ない」
そう答えながらも、視線がわずかに揺れる。
「お父様も、リヨンが帰ってきて喜ぶわ。早く知らせなきゃ」
「そうだな……報告をしなければならないし」
周囲は変わらない。
騎士団も、イリーナも、城も。
すべてが、あるべき姿のまま。
俺も、その中の一つのはずだった。
それなのに……。
(……なぜ、落ち着かないんだろう)
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