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第27話 過去と今

 目を覚ました瞬間、俺は嫌な予感を覚えた。  静かすぎる。  いつもなら、先に起きたヴィルユーグが書類に目を通したり、着替えの準備をしている気配がある。  だが今日は、それがない。 「……んん?」  ぼんやりした頭のまま隣へ手を伸ばす。  触れたのは、もう冷えたシーツだけだった。  そこでようやく、意識が一気に覚醒する。 「っ……!」  ガバッと飛び起き、周りを確かめる。  いつもよりも乱れたシーツ。妙にすっきりとした下腹部。  昨夜の記憶が、容赦なく蘇る。  告白をされたこと。  優しく触れられたこと。  唇が重なったこと。  そして――それ以上に、互いの体温を確かめ合うように触れ合ったこと。 「〜〜〜っ……!」  思わず顔を覆う。  熱い。耳まで熱い。 (な、何をしてるんだ俺は……!)  しかも。寝過ごした。  騎士としてあり得ない。  完全に気が緩んでいる。  慌てて窓を見ると、太陽の位置がいつも起きる時間をとうに過ぎていることを知らせた。 「まずい……!」  寝台から飛び降りる。  急いで着替え、身支度を整えるために洗面台に立つ。  鏡を見た瞬間、首元に薄く残る赤みに気づいてしまい、リヨンは絶句した。 「……ヴィル……!」  本人のいないところで抗議しても意味はない。  慌てて襟を整え隠す。  そして半ば逃げるように部屋を飛び出した。  廊下を歩きながらも、心臓が落ち着かない。  昨夜のことをどう受け止めればいいのか分からない。  嫌だったわけではない。  むしろ、ヴィルユーグに触れられることを拒めなかった。  それが一番問題だった。 (絶対、呆れられてる……)  恋をしたことがないからわからない。  そう答えたばかりなのに。  流されるまま、あんな――。  羞恥と後悔を抱えたまま、執務室の前へ辿り着く。  すうーっと深呼吸を一つ。  それから恐る恐る扉を叩いた。 「入れ」  昨晩と同じ、低い声。  中へ入ると、ヴィルユーグは机に向かったまま書類へ目を通していた。  その姿は普段と何も変わらない。  けれども、リヨンへ視線を向けた瞬間、黒い瞳が僅かに和らいだ。 「起きたか」  その目は怒っていない。  それどころか、妙に機嫌が良いようにも見える。 「……申し訳ありません」  俺は反射的に頭を下げた。 「寝過ごしました。騎士としてあるまじき失態です」 「そうか?」  予想外の返答に、俺は顔を上げる。  ヴィルユーグは平然としていた。 「よく眠っていたから、起こさなかった」 「ですが――」 「疲れていたんだろう」  責める気配はまるでない。  むしろ気遣うような声音だった。 「……ヴィル」  戸惑い混じりに名前を呼ぶと、ヴィルユーグが静かに手を差し出した。 「来い」  促されるまま近づけば、自然な動作で腕を引かれる。 「っ……!」  そのままヴィルユーグの隣へ座らされた。  その距離は、肩がくっつくほど近い。 「だ、誰かに見られたら……」 「かまわない」 (俺がかまうんだって!)  ヴィルユーグは気にした様子もなく、淹れたばかりの茶を差し出してくる。 「飲め」 「……ありがとうございます」  受け取りながらも落ち着かない。  同じようにカップを持つヴィルユーグの手を見て、昨夜の痴態を思い出してしまう。 「顔が赤い」 「気のせいです!」  即答すると、ヴィルユーグが小さく笑った。 「そうか」  絶対に分かっている。  リヨンがじろりと睨むと、ヴィルユーグは珍しく楽しそうに目を細めた。 「……そんなに警戒するな」 「誰のせいだと……」  思わず漏れた小声に、ヴィルユーグの肩が僅かに揺れる。  絶対に、笑っている。 「ヴィル!」 「悪い」  全然悪いと思っていない顔だった。 「眠いなら、もう少し休むか?」 「寝ません!」 「そうか」  俺は茶を飲みながら、落ち着かない胸を押さえた。  ふと視線を上げると、ヴィルユーグが静かにこちらを見ていた。  その黒い瞳は、ひどく満たされた色をしていて。  俺はまた、どうしようもなく顔が熱くなるのを感じた。  その時、執務室の扉が勢いよく開く。 「陛下、朝の――……は?」  入ってきたアレクシスが、その場で固まった。  まずヴィルユーグを見る。  次にリヨンを見る。  もう一度ヴィルユーグを見る。 「いや待て。本当によく連れ戻してきたな……?」  心底驚いたような声だった。  俺は居心地悪く肩を縮める。  対してヴィルユーグは平然としていた。 「戻ってきた」 「その言い方だと自分から帰ってきたみたいに聞こえるんだが?」 「違うのか」  アレクシスが吹き出す。 「いや、まあ……結果的にはそうなのか?」  意味深な視線を向けられ、俺はますます落ち着かない。  ヴィルユーグの隣から離れようとも、彼の手がそれを許さなかった。 「へえ。随分と囲い込んだな、陛下」 「囲ってはいない」 「そうか? 俺にはかなり必死に見えるけどな」  ニヤニヤ笑いながらアレクシスが近づいてくる。  そのまま書類を渡すふりをして、こっそり俺へ耳打ちした。 「もし無理やり嫌なことされたら、俺に言えよ」 「っ!?」  言われた言葉に、思わず目を見開く。  すると……。 「……アレク」  低い声が落ちた。  空気が一瞬で冷える。  アレクシスは肩を竦めた。 「怖い怖い。男の嫉妬は見苦しいぞ」  ヴィルユーグは何も言わない。  けれども、否定もしなかった。 (嫉妬……?)  思わずヴィルユーグを見る。  黒い瞳が静かにアレクシスを睨んでいた。  そこへさらにアレクシスが爆弾を落とす。 「十年越しに手に入れた獲物を逃がしかけたんだ。そりゃ必死にもなるか」 「……十年?」  俺が聞き返すと、アレクシスが「あれ、聞いてない?」と笑う。  ヴィルユーグは露骨に眉を寄せた。 「余計なことを言うな」 「でも、そろそろ話してやってもいいだろ」  意味深な笑みを残し、アレクシスは仕事の報告を済ませると去っていった。  静かになった部屋で、リヨンは気になって仕方なくなる。 「……アレクシスが言っていた話は、本当なんですか」  ヴィルユーグは少しだけ黙った。  それから静かに立ち上がる。 「あとで、茶を飲むか。菓子も用意させよう」  昼過ぎ。  二人が向かったのは、以前訪れた庭園だった。  木漏れ日が揺れ、風が花の香りを運ぶ。  人払いされているのか、周囲に気配はない。  以前と同じ席へ腰を下ろすと、ヴィルユーグがゆっくり口を開いた。 「十年前、父に連れられてアルヴェリアの夜会へ行った」  俺は静かに耳を傾ける。 「社交が苦手でな。途中で庭へ逃げた」 「……意外です」 「今も得意ではない」  淡々と返しながら、ヴィルユーグは茶を口に含む。  冷酷王が夜会に出ないというのは有名な話だ。ただ、夜会は生産性のないものと思ってのことだろうと噂されていた。  ヴィルユーグが、また口を開いた。 「そこで銀髪の子どもに会った」  その言葉に、リヨンは小さく息を呑む。 「その子どもが、お前だ」  十年前。  まだ十歳ほどだった頃。  イリーナの相手をし、その後帰る前に庭園を歩いていた記憶は確かにある。確かに、城の中は夜会をするために騒がしかったことを覚えている。  だが、そこで誰かと話したことまでは覚えていなかった。 「全然覚えていないのか」  少し不満そうな声音に、俺は慌てる。 「す、すみません……」 「謝るな」  ヴィルユーグは小さく息を吐いた。 「だが私は忘れなかった」  漆黒の瞳が真っ直ぐ向けられる。 「ずっと探していた」  名前も。  身分も。  何も分からなかった。  婚姻話が出た時、もしかしたらと思った。  だが送られてきた肖像画は別人だった。  だから興味を失った。 「……なのに」  ヴィルユーグの声が少し甘くなる。 「お前を見た瞬間に分かった」  胸がざわついた。 (そんな前から……)  確かに、10年前にアルヴェリアにいた銀髪の子どもは俺だろう。  だから、俺を連れ戻したのか。  だから、手放したくないと言ったのか。  その重さを、ようやく理解する。  気づけば、ヴィルユーグはこちらを見ていた。  あまりにも真っ直ぐで、リヨンは耐えきれず視線を逸らす。 「……そんなに見ないでください」 「見たい」 「即答しないでください」  ヴィルユーグがまた小さく笑った。  その柔らかな表情に、胸がまた騒ぐ。  それから数日。  二人で過ごす時間は自然に増えていった。  執務室で仕事をする。  訓練場で手合わせをする。  夜は盤ゲーム。  同じ寝台で眠る。  気づけば、それが当たり前になっていた。  さすがにあの日のような触れ合いは無いが、その代わりにおやすみのキスと抱擁は習慣化されつつあった。  そして、とある夜。  ヴィルユーグの私室で夕食を共にしていた時だった。 「今日は随分静かですね」 「疲れているだけだ」 「休めばいいのに」 「お前がいるから問題ない」 「なんですかそれ……」  そんな他愛ない会話を交わしていた時。  侍従が茶を運んできた。  ヴィルユーグは何気なく口をつける。  その瞬間だった。  ぴたりと動きが止まる。 「ヴィル?」  黒い瞳が細められた。  静かに茶器が置かれる。 「……毒だ」  直後、ガタン、と椅子が揺れた。  ヴィルユーグの身体が僅かによろめく。 「ヴィル!?」  慌てて駆け寄る。  支えた身体は異様に震えている。  痙攣だ。  ヴィルユーグが浅く息を吐く。 「クラウスを……呼べ」  そう言った後、ヴィルユーグの体から力が抜けていった。  俺は一心不乱に、執事の名を呼んだ。

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