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第35話 愛人
アルヴェリア城の正門が見えた瞬間、胸の奥に張り詰めていたものがようやくほどけた。
戦は終わった。
皆、生きて帰ってきた。
それだけで十分なはずだった。
「リヨン!」
城門から飛び出してきたのはイリーナだった。
淡い青のドレスを翻しながら駆け寄り、勢いそのままにリヨンの前で立ち止まる。
「ご無事で……!」
その瞳には涙が滲んでいた。
戦況は逐一報告されていたとはいえ、実際に顔を見るまでは安心できなかったのだろう。
俺は穏やかに笑った。
「心配をかけたな」
「本当に……本当に、よかったです」
涙を拭いながら笑うイリーナに、俺も自然と笑みを返す。
その様子を見ていた王は安堵したように頷き、第二王子のヴァンは「まずはゆっくり休め」と俺の肩を叩いた。
その日は戦勝を祝う宴が開かれたが、長旅の疲れもあり、俺は早々に席を外した。
部屋へ戻ろうと廊下を歩いていると、不意に声を掛けられる。
「少し、お時間をいただけますか?」
振り返ればイリーナが立っていた。
その表情は昼間とは違い、どこか決意を秘めているように見えた。
「もちろんだ」
二人は人気のない中庭へ向かう。
幼い頃はよくここでイリーナの遊び相手をしたものだ。
夜風が花の香りを運び、静かな時間が流れていた。
イリーナは振り返り、胸元から小さな箱を取り出す。
「これを、お受け取りください」
俺は何の疑問も持たず、箱を開いた。
中には細工の美しい銀の耳飾り。
それには透き通る青い宝石が嵌め込まれている。
月明かりを受けて輝くその色は、イリーナの瞳とよく似ていた。
「これは……」
「本当は戦へ向かわれる前に、お渡ししたかったものです。」
イリーナは少し照れたように微笑む。
「でも、その時は渡せませんでした。」
その言葉だけで十分だった。
この贈り物に込められた意味を、俺は理解してしまう。
だからこそ、曖昧にはできなかった。
箱をそっと閉じる。
「ありがとう」
一呼吸置いて続けた。
「だが、これは受け取れない」
イリーナの肩が小さく震える。
泣かせてしまう、と思った。
「……そう、ですよね」
それでも彼女は笑顔を崩さなかった。
「分かっていました。それでも、一度だけ伝えたかったんです。」
笑いながら……ぽろり、と涙が零れ落ちる。
「好きでした。……ずっと」
つきん、と胸が痛んだ。
泣かせたくはなかった。
妹のように可愛がってきた大切な存在。誰よりも、過ごした時間は多かった。
それでも、ここで期待を持たせる方が残酷だ。
「すまない。イリーナのことは大事だと思ってる、だが……」
その続きは言えない。言えば、さらに傷つけることになるだろうと知っていたから。
イリーナは首を横に振り、涙を拭った。
「謝らないでください。ちゃんとお返事をいただけて、嬉しかったです」
そう言って気丈に笑う姿が、余計に切なかった。
一礼すると、イリーナは静かにその場を去っていく。
入れ替わるように背後からため息が聞こえた。
「私の妹を泣かせたな」
その声の持ち主は、皇太子だった。
腕を組み、複雑そうな顔でこちらを見ている。
「……大変失礼致しました、エイジ様。ですが、私は誠実でありたいのです」
「仕方ないとは思う」
皇太子は肩をすくめた。
「だが、一つだけ聞かせろ」
「はい」
皇太子は真剣な眼差しで俺を見た。
「リヨン、好きな相手がいるんだろう?」
俺は否定できなかった。
沈黙が答えになる。
「ヴィルユーグ王か」
図星だった。
俺はゆっくりと頷く。
「そうか」
王太子は驚く様子もなく、小さく息を吐いた。
「なら、お前は本当にあの方が好きなんだな。」
その言葉を聞いた瞬間、不思議と胸の中がすっと軽くなる。
「……ああ」
自然と笑みが浮かぶ。
「私は、ヴィルユーグが好きです」
その一言に偽りはなかった。
皇太子はしばらく黙っていたが、やがて静かに口を開く。
「なら、もう一つだけ聞く」
その表情は先ほどまでとは違い、王族としての厳しさを帯びていた。
「ヴィルユーグは王だ。つまり、王には世継ぎが必要になる」
「……」
そう言われた瞬間、頭の中心がずしりと重くなったような、そんな錯覚を覚えた。
世継ぎ。
俺には必要の無い存在。だから、この瞬間まで欠片すら考えもしなかった。
「もし妃を迎え、子を成す日が来たら……」
王太子は真っ直ぐ俺を見つめた。まるで射抜くように。
「お前は、愛人でいいのか」
その問いは、戦場の剣よりも深く俺の胸へ突き刺さった。
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