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第2話

 ジェレミーは顔を洗い終えると、胸を撫で下ろした。 「そうか夢かあ、怖い夢だったなあ」 「きょうは晴れがましい日ではありませんか、朝食をとったらすぐお支度をしませんと」  なんの日だろう、と首をかしげると、アンナはいつもの愛想のない顔でこう言った。 「ご冗談ばかり。フェルディナンさまとジェレミーさまの婚約披露パーティーではありませんか」 「婚約……?」  このユニヴェール王国第一騎士団長フェルディナンとはすでに婚約して一年が経過し、もうすぐ結婚式だったはずなのに。 「昨夜は楽しみで眠れないとおっしゃっていたのに、朝になったら忘れていらっしゃるなんて」  間抜けな声を上げたジェレミーをアンナがくすくすと真顔で笑った。 「アンナ、真顔か笑うかどっちかにして」 (どういうことだろう、殺されそうになったことだけじゃなくて、婚約していた一年間も全部夢だったってこと……?)  この一年の記憶が鮮明にあるのに。  フェルディナンが一人の神官の収賄を暴いたものの神殿全体の腐敗は摘発できなかったこと、血の繋がらない妹イザベルが〝治癒の祝福〟という特殊能力により「聖女」と呼ばれるようになったこと、そして婚約後にジェレミーがキスをねだったらフェルディナンに「結婚式まで触れることはできない」と阻まれたこと――。  肋骨のあたりがズキズキする。  フェルディナンは結婚式まで自分に触れられないのではなく、イザベルと恋人関係にあったため触れたくなかったのだろうと思うと――。 (こんなことが全部夢だった?)  屋敷の二階にあるこの部屋にも、庭からの犬の吠える声が聞こえてきた。  洗った顔を拭きながらテラスに出ると、顔なじみの食材配達人の男が番犬ポポロンから追いかけ回されていた。名前は可愛いが体重は人間の女性ほどある黒いもふもふの大型犬だ。いつもは尻尾を振って出迎える相手なのに珍しい。 (あれ、この場面見たことがある……)  ジェレミーの記憶が正しければ、婚約式の朝、食材配達人が番犬ポポロンに噛まれた騒動があった。原因はポケットに入っていた香り袋。前夜に飲み屋でもらった香り袋に、訓練されたポポロンが反応したのだった。 (もしかして)  ジェレミーは窓を開けて、配達人に向かって叫んだ。 「ポケットの香り袋を遠くに捨てて!」  配達人は「えっ、どうしてそれを――」と驚きながら、慌ててポケットから袋を捨てる。  するとポポロンは方向転換し、その香り袋に向かって突進したのだ。  配達人は「た、助かったあ~」と公爵邸の生け垣にへたりこむ。  後ろでアンナが「よく香り袋を持ってるとご存じでしたね」と感心している。 「さすが〝失せ物見つかり神〟です」  侍女アンナだけは、ジェレミーをときどきそう呼ぶ。物を紛失したときにジェレミーに報告すると、すぐ見つかるのだという。偶然なのだが、それが続いたためアンナは半ば本気で信じている。  ジェレミーは二階のテラスから配達人に声をかける。 「ねえ、その香り袋、昨日飲み屋でもらった?」  配達人は帽子を取って立ち上がり、ジェレミーにお辞儀をしながらうなずいた。 「お、おっしゃる通りです、坊ちゃん」  ジェレミーの記憶では、香り袋にわずかに麻薬成分の含まれる植物が入っていた。それに反応してポポロンが噛んだのだ。配達人はそれによって捜査を受け、大騒ぎになったので印象に残っていたのだ。 (やっぱり、僕が見てきたこの一年間は夢じゃない気がする)  記憶では、確かこのあとイザベルが部屋に飛び込んできて「白のドレスを着たい」とジェレミーにタキシードの色の変更を求めてくる。 「お兄さま! イザベル、とっても大事なお願いがありますの!」  その記憶通りに、イザベルがノックもせずにジェレミーの部屋に駆け込んできた。ふわふわの赤毛に緑の瞳、控えめなパーツだがバランスよく配置された顔立ち――。誰からも愛されそうな愛嬌があった。自分の美青年ぶりも負けていないが。 「イザベル、ノックをしないと。それに寝間着姿じゃないか」  アンナに着替えを手伝ってもらったジェレミーは注意する。 「それどころじゃないの、イザベル、ジェレミーお兄さまの婚約式で白のドレスが着たいのね? でも主役とかぶってはマナー違反になるでしょう。だからお兄さまに別の色のタキシードを着てほしいの」  ジェレミーの記憶通りのせりふだった。 (間違いない、僕が見たのは夢じゃない。本当のことなんだ。じゃあ僕が聞いた、フェルディナンさまとイザベルが恋人関係だってことも――)  一年前のきょう、ジェレミーは義妹イザベルのこのわがままを許してしまった。そうしてイザベルは、ジェレミーの婚約者であるフェルディナンに向かって婚約式でこう言ってのけるのだ。 『私とフェルディナンさまが白でお揃いになっちゃった、まるで私たちの婚約式だと思われちゃうわ』  ジェレミーはぐっと拳を握って、イザベルの要求を断った。 「だめ。フェルディナンさまと約束してるんだ、白で揃えようって」  断られると思っていなかったイザベルが、顔を赤くして腹を立てた。 「どうして! いいじゃない、イザベルは白が着たいの!」  同時に、ガタン、と部屋の入り口で音がした。  イザベルが開けっぱなしにしていた扉の前で、自分よりも頭一つぶん背の高い、金髪の美丈夫が立ち尽くしていた。  立派な体躯をしているので、騎士団の白い正装がとても映える。その姿は二十七歳とは思えないほど落ち着いていた。  金色の絹糸のような前髪の間から、切れ長の瞳がこちらを見つめる。王族にしか受け継がれないと言われている紫色の瞳が――。  その姿に、胸がぎゅっと絞られる。  大好きな人、でも自分を裏切った憎い人――。 「フェルディナンさま」  ジェレミーは声をかけた。  フェルディナン・デマレは、放心したかのようにジェレミーを無言で見つめている。  ジェレミーは足下に転がっていた箱を拾って、取り落としたであろう彼の手に握らせた。  その中身を、ジェレミーは知っている。  自分のために用意してくれたダイヤモンドのタイピンなのだ。イザベルのわがままを受け入れた直後に、彼が持ってきてくれたのを覚えている。  そう、国王の庶子として生まれ、公爵家の養子となった王国第一騎士団長フェルディナン・デマレと、マルディノッジ公爵家次男であるジェレミーとの婚約の記念に――。  普段から表情に乏しいフェルディナンが、珍しくうろたえていた。 「今、イザベル嬢のわがままを断った……のか……?」  そう問うフェルディナンに、背後でイザベルが「わがままだなんて」と怒っている。  ジェレミーがいつもイザベルの言いなりだったことを知っているからだろう。

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