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1-4 迫る中間テスト
二学期が始まって二週間。
紫苑学園の教室には、早くも十月一週目に控えた中間テストに向けて、ピリピリとしたムードが漂い始めていた。
この学園は、成績によって明確にクラスが分けられている。
スポーツ推薦者を中心とした二組、中間層の一組と三組。
そして、僕が所属するこの「四組」は、受験時の成績上位層だけが集められた特進クラスだ。
だからこそ、二学期から四組に編入してきた兵藤 くんは、本来なら優秀な頭脳を持っているはずなのだが──。
「すぅ……」
僕の左隣、窓際の最後尾の席。
兵藤くんは、張り詰めた空気とは関係なしに、今日も二限目が終わるまで、気持ちよさそうに机に突っ伏して眠りこけていた。
(……本当に、どうして四組に入れたんだろう)
呆れ半分、不思議さ半分で横顔を見つめる。
彼が毎日こうして睡眠時間を確保するツケを、なぜか僕が払うことになっていた。
放課後は毎日、僕の部屋で彼に勉強を教えるのが、二人のルーティンになってしまっているのだ。
「……ふぁー、よく寝た。間宮くん、おはよ」
二限終わりの中休み。
兵藤くんはあくび混じりに体を起こすと、いつものように机に頬杖をつき、ふにゃりとした笑顔をこちらに向けた。
「毎日居眠りして……。たまには早く寝て、一限からちゃんと起きられるようにしなよ」
「んー、無理。俺、夜型なの」
(夜型って……まさか毎晩ゲームでもしてるのかな)
僕が小さくため息をつくと、兵藤くんは周囲を一度見渡してから、内緒話をするように僕の方へ体を寄せてきた。
「……ねね、今日の放課後も、二限目までの内容教えてもらってもいい?」
甘えるように囁かれ、心臓がトクンと小さく跳ねる。
「いいけど、僕なんかで本当に大丈夫? わからないなら、先生に聞きに行ったら?」
「先生の方がいいなら、毎日居眠りなんてしないさ。それに間宮くん、教えるのすっごく上手いんだもん」
机に寝そべった体勢のまま、顔だけこちらに向けてくしゃっと笑う兵藤くん。
誰かに勉強を教えるのは嫌じゃない。
僕自身の復習にもなるから、ありがたいはずなのに。
最近、この無防備な彼と二人きりでいると、なぜかソワソワしてしまう自分がいる。
その原因は、わかっていた。
『あんまり誰にでも、特別って言われちゃダメだよ。……おやすみ、咲都 』
二学期初日の別れ際。
耳元に落とされた、あの低くて甘い声。
熱を帯びた言葉の意味が、いまだにわからない。
それに、僕を「咲都」と呼んだのは、あの一度きりだった。
翌日からは、何事もなかったかのように一貫して「間宮くん」と呼んでくる。
人からどう呼ばれようと、今まで気にしたことなんて一度もなかったのに。
どうしてか、「咲都」と呼んだあの瞬間の兵藤くんの声が、鼓膜にこびりついて離れないのだ。
(……ダメだ。また、考えてる)
夏休みに、一度だけ言葉を交わした彼。
熱帯夜が見せた、圧倒的な色気を放つ大人の男の幻影。
全くの別人である兵藤くんから漂う香りが、あの幻影に似ているというだけで、僕は無意識のうちに「あの夜の男」を重ねすぎているのかもしれない。
(……いい加減、忘れないと。兵藤くんは、兵藤くんでしかないんだから)
僕の思考をかき消すかのように、三限の開始を知らせるチャイムが、教室に鳴り響いた。
***
「この単元、大学受験の応用問題に紐づくことが多いみたいだから、ちゃんと復習した方が良いかも」
放課後。
約束通り、僕は自室で兵藤くんに一限と二限の内容を教えていた。
「なるほどね。メモしとこ。……よし、ノート写し終わった! 今日も助かったよ。間宮くん、ありがとう」
ノートを閉じるなり、パッと顔を上げて明るい表情をこちらに向ける兵藤くん。
教えることで僕自身の復習にもなるからと、メリットを感じて始めたことではあるが。
毎回こうして、大型犬のように全身で真っ直ぐな好意を向けられると、なんだか照れくさくて、悪い気はしないものだ。
「もう17時すぎか……。そろそろ夕飯、作らないと」
ふと壁の時計を見てつぶやくと、兵藤くんが何かを閃いたかのように指を鳴らした。
「ねえ。いつも勉強教えてもらってるお礼に、たまには俺から夜メシ、振る舞わせてもらえないかな?」
「えっ……! いいの!? でも、彰那 の分はどうしよう……」
「メシなんて、二人分も三人分も作る手間は変わらないよ。高槻の分も用意するからさ」
「ありがとう……! それなら、今日はお言葉に甘えさせてもらおうかな」
ヨシ、と小さくガッツポーズをする兵藤くん。
ご飯を用意してもらえて嬉しいのは僕の方なのに。
その無邪気な姿がおかしくて、「変なの」と小さく笑うと。
彼はなぜかビクッと肩を揺らし、手のひらで口元を覆って、ひどく困ったような──どこか熱を帯びた瞳で僕を見つめ返してきた。
(……え?)
一瞬だけ見えたその瞳の奥の熱に、心臓がドクンと跳ねる。
けれど、彼が口元を覆っていた手を離した時には、いつものふにゃりとした笑顔に戻っていた。
***
「……母親が作る生姜焼きより、美味しいかも……」
「兵藤、おかわりまだあるか!?」
「高槻たかつき、お前がっつきすぎ。あるから安心して。神宮 くんも、何も言わないけど美味しいって顔してるね。よかった」
夕飯の食材を買いに出ようとした時、寮に戻ってきた彰那と神宮くんに鉢合わせ、結局四人で食卓を囲むことになった。
生姜焼き、きんぴらごぼう、ほうれん草のお浸し、きのこがたっぷり入った炊き込みご飯に、冷蔵庫の残り物食材を活かしたお味噌汁。
下手な定食屋よりもクオリティが高く、本当に美味しい。
手料理を振る舞ってもらうのも久しぶりだったからか、温かいご飯がいつにも増して胃の奥に染み渡る。
「自炊派って言ってたけど、こんなに美味しいものが作れるなら納得だよ……! この生姜焼きのレシピ、今度教えてほしいな」
僕が素直に絶賛すると、兵藤くんは頬杖をつき、とろけるような甘い微笑みを僕に向けた。
「間宮くんのためなら、俺がいつでも生姜焼き作るから。レシピなんて知る必要ないと思うよ」
「……えっ」
「いつでも作る」という言葉が、まるで僕のすべてを肯定してくれているかのような錯覚を覚えさせて、僕はごまかすように麦茶の入ったコップに手を伸ばした。
「そしたら、俺もいつでもこの美味い生姜焼き食えるってことか!」
「あくまでも間宮くんのためだからな! 高槻、肝に銘じておけよ!」
兵藤くんと彰那はすっかり打ち解けたようで、友達特有の軽口を叩き合っている。
神宮くんも文句を言わずにこの場にいるということは、少なくとも兵藤くんを嫌ってはいないのだろう。
僕自身も、彼と過ごすこの部屋の居心地の良さが、日に日に増していく実感があった。
「そういう兵藤もさ、あんまり咲都にべったりしすぎんなよ。今日も勉強教えてもらってたんだろ? こいつ、頼られたら断れねぇお人好しだからな」
「こら、彰那! 勉強しようとしてもペンすら持てない人が、そんなこと言わないの!」
僕が右隣に座る彰那の頭を軽く叩くと、珍しく神宮くんが静かに口を開いた。
「……間宮くんでも、ダメなのか」
「えっ、もしかして神宮くん、彰那の勉強みてくれてるの?」
神宮くんの一言に、目を大きく見開いて動揺する彰那。
どうやら図星らしい。
「学年トップの神宮くんの時間を割いてもらってるのに、彰那、どういうこと!? 中間テストも近いのに!」
「いくら神宮だろうと、咲都であろうと、俺に勉強は無理ってことだ!」
「……高槻に少しでも期待した俺がバカだった」
発言は自責なのに、彰那に向ける表情が冷たく辛辣な神宮くんに、僕たちはただ苦笑いを浮かべることしかできなかった。
「待って……、神宮くんが、学年トップなの!?」
兵藤くんが驚いたように声を上げる。
特進の四組ではなく、スポーツ推薦者中心の二組に在籍する神宮くんが首位というのが、信じられなかったのだろう。
「ただの偶然だよ。間宮くんだって、二位をキープしているじゃないか」
「えっ、僕!? うん、まぁ、そうだね……」
「間宮くん、二位なの!? うわぁ、転校早々、そんな天才二人と仲良くなれたなんて、俺、恐れ多いなぁ!」
大げさに驚いてみせる兵藤くんに、僕は「そんなことないよ」と照れ笑いを返した。
(……もうすぐ、中間テストかぁ)
和やかな食卓の空気を味わいながらも、すでに二週間後に迫った試験のプレッシャーが僕の中に広がり始める。
僕なりにベストを尽くして、せめて二位はキープしたい。
あわよくば、神宮くんを抜いて首位にだって……。
闘志を燃やす僕の隣で、兵藤くんは「おかわりまだあるよ!」と無邪気に笑っている。
この時の僕は、まだ何も知らなかったのだ。
僕の自尊心も、神宮くんのトップの座も。
この、優しくて大型犬のような転校生によって覆される日が、すぐそこまで迫っているということを──。
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