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1-6 転校生、擬態する

二学期が始まってからの一ヶ月半。 あの熱帯夜に出会った時の自分を隠して、咲都(さきと)の隣をつかみ取る計画は、驚くほど順調に進んでいた。 おろした前髪と、少し猫背にした姿勢。 度の入っていない分厚い黒縁メガネ。 そして、一人じゃ何もできない転校生という計算された脆弱性。 「僕なんかで本当に大丈夫なの?」 俺が頼れば、咲都は少し困ったように眉を下げながらも、その優しさを余すことなく注いでくれる。 ノートを覗き込む時の、真剣な横顔。 時折ふわりと漂う、清潔な石鹸の匂い。 「間宮くん」と呼んで好意を見せれば、控えめだけど素直に表情を緩ませる。 その無防備な笑顔を見るたび、彼を知れば知るほど。 俺の中の恋心とも執着心ともいえる、甘くやわらかな──しかしドロッとした感情が、胸の奥で際限なく広がっていくのを感じた。 実際にクラスメイトになってみて、わかったことがある。 特進クラスである一年四組において、見た目も中身も完璧な学級委員である間宮咲都は、完全に特別視されていた。 誰もが彼を頼りにし、憧れを装う熱を孕んだ眼差しを向けている。 しかし、彼のその完璧さゆえに気後れしてしまい、誰も彼のパーソナルスペースには踏み込まない。 結果として、このクラスに咲都と対等に話せる本当の友達と呼べる存在は、一人もいなかったのだ。 好都合すぎた。 咲都の隣には、まるで俺のためと言わんばかりの特等席が空いている。 だから俺は、この無害な擬態を使って、いともたやすくその空席に滑り込んだ。 そしてもう一つ、わかったことがある。 咲都と同室で幼馴染でもある高槻彰那(たかつきあきな)。 彼を敵対視する必要は、どうやらなさそうだということだ。 「咲都はあれだ、特別」 高槻がそう言い放った、あの瞬間。 神宮(かみや)くんの目の奥が、どこまでも黒く冷たくなっていったのを、俺は見逃さなかった。 おそらく、自分以外の人間に『特別』な感情を向けられたことによる、強烈な嫉妬。 確証はないが、高槻と神宮くんの間には、単なる友達以上の空気が漂っている。 その憶測が正しければ、高槻の存在もまた、俺にとって好都合になりうるだろう。 なぜなら、誰よりも咲都の過去を知っている彼から、情報を引き出すことができるからだ。 咲都の隣を死守するためなら、使えるものは何だって使う。 あのどこまでも純粋で気高い咲都が、俺にだけ世話を焼き、俺にだけ甘い隙を見せてくれるのだ。 この特等席を離れることなんて、もうできるはずがない。 生まれて初めて出会った、心の底から愛おしいと思える、俺のすべてを狂わせる対象。 この強すぎる感情の行き場のなさに戸惑いつつも、彼に溺れていくこの状況が、楽しくて仕方がなかった──。 *** 中間テストの結果発表の日。 俺は特設掲示板へと向かう渡り廊下で、周囲の有象無象どもの鬱陶しい話し声を耳にしていた。 「今回、トップは神宮か間宮、どっちだろうな」 「あいつら異次元だよな。二人とも頭良くて、あの女顔の美人だろ?」 「俺は間宮派! 神宮は近寄りがたいけど、間宮は気さくでいい子だし」 (……チッ) 無自覚に漏れそうになった舌打ちを抑える。 俺の咲都を、勝手に評価するな。 だが、連中の言う通り、咲都のあの純粋なとっつきやすさが、いらぬ虫を引き寄せているのも事実だった。 (……咲都の視界に入る『特別』は、俺だけでいい) だから、今回の中間テストは本気で臨んだ。 特待生として学費免除でこの城に居座る条件に、上位五位以内をキープする必要もあったが、それ以上に咲都からの『特別』を強固にしたい意思の方が強かった。 俺が圧倒的な首位という名の玉座に座ることで、咲都の意識を俺だけに向けさせる。 だが、この作戦には一つのリスクがあった。 咲都が俺に騙されていたと感じ、怒りや嫉妬をぶつけてくる可能性だ。 (最悪、嫌われたらその時は本来の俺に戻って種明かしをするしかないのか……) 不本意なシミュレーションすら頭の片隅に置きながら、俺は掲示板の前に立つ、愛しい背中を見つけた。 「あ、間宮くん! やっと見つけた」 いつもの、ふにゃりとした大型犬の声を出しながら近づく。 俺の順位を見た彼は、どんな顔をするのだろう。 落胆するか、それとも冷たく俺を拒絶するか──。 「兵藤くん、すごいよ! 学年一位だなんて……!」 「……えっ?」 振り返った咲都の顔を見て、俺の思考回路は完全にショートした。 怒りでも、嫉妬でもない。 色素の薄いその瞳は、キラキラと純粋な光を放ち、俺の成績を自分のことのように喜んでいたのだ。 「すごくなんかないよ。俺が一位になれたのは、全部間宮くんのおかげ。間宮くんが毎日、俺のペースに合わせて丁寧に教えてくれたからだよ」 「そんなことない。僕が教えたのは基礎だけだし、あれをテストで応用できたのは兵藤くんの実力だよ。……なんだか、僕のまわりはすごい人だらけで、まだまだ頑張らないとなー!」 (……なんだ、この子は……) 俺の薄汚い計算なんて、この純白の天使の前ではなす術を持たない。 自分が負けたというのに、俺の実力を真っ直ぐに認め、心から称賛してくれる。 その圧倒的な光にあてられて、俺の胸の奥で、カチリと何かが外れる音がした。 「本当におめでとう」 咲都が俺の背中をポン、と叩いた。 その温かい手のひらの感触が、俺の理性を焼き切っていく。 (……ああ、もうダメだ。……狂いそう) こんなにも美しくて、気高くて、愛おしい生き物が、この世界に存在したなんて。 焼き切られた理性と共に、被っていた無害な犬の皮も溶けていく。 気付けば、黒縁メガネの奥で目を細め、彼を丸ごと喰い尽くしたいという本能を隠すことなく、甘く微笑んでいた。 「……俺もずっと、間宮くんの隣で頑張るね」 ドクン、と。咲都の胸が跳ねたのがわかった。 戸惑いと、無自覚なときめきが混ざったような至極愛おしい表情に、さらに口角が上がる。 ──焦らなくていい。 咲都はきっと、本能レベルで堕ちかけている。 焦らして、盛り上げて、時が来たら。 容赦なく間宮咲都を喰い尽くす。 秋の高く澄んだ空の下。 俺の初恋は、彼の手によって、後戻りできない絶対的執着へとアップデートされたのだった。

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