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2-2 グリーンとインクとコーヒーと
寮のエントランスを抜け、いつもなら自室がある二階に続く階段を上がるはずの足が止まった。
僕の肩を抱く兵藤くんの腕は、まだそこにある。
「……あの、兵藤くん」
「ん?」
「さっきは、ありがとう。僕が恥ずかしがってたの、気づいて連れ出してくれて」
素直にそう告げると、彼は少しだけ驚いたように目を見開いた。
自分のこの、ざわざわした感情の正体はまだわからない。
けれど、彼の手をこのまま離してしまったら、その正体から遠ざかってしまう。
そんな気がして──。
「もしよかったら……このあと、もう少し二人で話せないかな? 迷惑かもしれないけど……」
自分でも驚くほど真っ直ぐで、少しだけ情けない言葉がこぼれ落ちた。
兵藤くんは一瞬、息を呑んだように沈黙し──それから、優しく温かな目で僕を見つめ返した。
「迷惑なわけない。すっごく嬉しいよ。……それなら、俺の部屋に来る?」
彼の腕が、僕の肩をわずかに強く引き寄せる。
「中途半端な時期に転校してきたから、運良く一人部屋なんだ。ここなら、誰にも邪魔されないから」
確かに、僕の部屋では彰那が帰ってきたらゆっくり話はできなさそうだ。
「……うん! お邪魔、させてもらおうかな」
頷くと、兵藤くんは満足そうに目を細めた。
彼に導かれて、一階の奥へと続く廊下を歩く。
薄暗い廊下を進むほどに日常から切り離されていくような不思議な緊張感が、僕の背中を撫でた。
「着いた! どうぞ、入って」
一階の最奥、108号室。
ドアが開かれ、「お邪魔します」と足を踏み入れた、その瞬間。
(兵藤くんの、匂い……)
爽やかなのにどこか甘く、大人びたグリーンの香りが全身に降り注ぐ。
夏休みに一度だけ言葉を交わしたあの人の匂いだと思っていたそれは、無意識のうちに、兵藤くんそのものを証明する香りとして完全に上書きされていた。
「僕の部屋と間取りも家具も同じなのに、全然違う部屋みたい」
「そうかも。間宮くんと高槻の部屋はなんか明るいから」
「兵藤くんの部屋は静かで落ち着く感じがする」
「そりゃ、角部屋だからねー。間宮くん、コーヒー飲める?」
兵藤くんは、軽く笑いながら鞄を床に置くと、そのままキッチンへと向かっていく。
「ありがとう。できればミルク欲しいかも……」
「あー、ごめん。俺ブラックしか飲まなくて、ミルク買ってないんだ。砂糖ならあるんだけど……」
「全然! お砂糖だけで大丈夫だよ」
(ブラックコーヒーしか飲まないんだ。……なんか、大人っぽくてかっこいいな)
僕がキッチンについて行こうとすると、彼は振り返って僕を制した。
「コーヒーメーカーのスイッチ押すだけだから、座ってゆっくりしてて」
やわらかな笑顔でそう言われ、僕は大人しくリビングのソファに座ってぽつんと佇む。
自室では家事や勉強で常に動き回っているためか、何もせずにお客様扱いされると、かえって落ち着かない。
「ねえ、部屋の中、少し見てまわっても平気?」
「もちろんいいよー!」
許可を得て、リビングの奥にある個室の扉をそっと開ける。
「……えっ?」
僕は、その場に釘付けになった。
窓側に配置されたシングルベッドの上には、色褪せた本や、付箋がびっしりと貼られた書類が山のように積み上げられていたからだ。
男子高校生の一人暮らしの光景とは、かけ離れた空間。
「ああ、ごめん。散らかってるよね。そこ、俺の趣味部屋というか……」
いつの間にか背後に立っていた兵藤くんに声をかけられ、ビクッと肩が跳ねる。
(趣味……? 夜な夜なゲームしているんじゃなくて……?)
ぽかんとしている僕をよそに、兵藤くんは続けて言った。
「親父が大学の先生でさ。小さい頃から本がおもちゃ代わりだったから、これぐらい紙に囲まれている方が落ち着くんだ。……そこの椅子、座って?」
いつものようにふにゃりと笑って、僕を机の前の椅子へ誘導する。
「失礼します……」
彼のルーツを探るように、机の上に積まれた背表紙を目でなぞる。
ずらりと並ぶのは、分厚くて古びた装丁の本ばかり。
洋書も混ざっていて、どの本のタイトルにも僕の知らない単語が羅列されていた。
本がおもちゃ代わりだったことが冗談ではなく本気だとわかるほどに、使い込まれた気配が染み付いている。
古紙とインクの匂いが、兵藤くんから漂うグリーンの匂いと混ざり合う。
圧倒的な知性の欠片に囲まれて、どこかワクワクしてしまう自分がいた。
「お待たせ。砂糖足りなかったら教えて」
差し出されたのは、少し歪な形をした手馴染みの良さそうなマグカップ。
自分で淹れるよりもずっと濃くて苦い香りを深く吸い込み、一口飲む。
「……美味しい!」
「よかった。なんか、ようやくいつもの間宮くんに戻った感じする」
兵藤くんはベッドの端に腰を下ろすと、長い脚を持て余すように組み、膝に頬杖をついた。
「……で、俺と何を話したかったの?」
マグカップに口をあてながら、上目遣いで僕を見つめる。
西日が差し込む部屋の中、空気中を舞う細かな埃がキラキラと光っている。
逆光のせいで彼の表情はよく見えない。
けれど、コーヒーを飲み込むたびに上下する喉仏と、黒縁メガネの奥でこちらを射抜く瞳だけは、夕日の赤よりもずっと濃い熱を帯びているようで。
二人きりの、静かすぎる108号室。
コーヒーで潤されたばかりだというのに、僕の喉は彼に何を問えばいいのかわからず、ただ熱く乾き切っていた。
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