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第2話
次の週明け、俺は久しぶりに出勤の支度をした。
職場復帰の日にぴったりのいい天気だ。
とはいえ初日ということで、仕事は午後からになっている。
「お久しぶりです、シェフ」
俺は職場の玄関を開けた。
カウンターわきの椅子に腰かけたじいさんがちらっと視線を上げる。
「おう」
とじいさんは言った。手元の新聞をたたんで、脇にあったエプロンに腕を通す。
彼がここのオーナーシェフだ。
「大変だったな。鍋 は振れるのか」
「もちろん」
俺はシェフについて厨房に入った。
自宅から2駅先の小さなレストランだ。テーブルが24席と、カウンターが8席。
5年前までは二人で厨房を回してたが、シェフが腰を痛めたので、去年から厨房にもアルバイトを入れている。
「おはようございまーす」
玄関から若い声がした。18才くらいの青年が立っていた。俺は手を振った。
彼が今話したアルバイトくんだ、あとで紹介する。
「今日もお願いします、シェフ」
「シェフならあっちだ」
「冗談よしてください」
俺は苦笑した。
しばらくぶりの職場の空気は心地よかった。
事件の日から途切れていた日常が再びつながった気がして、俺は気持ちを新たに仕事にとりかかった。
◆
「お疲れさまでーす」
「ああ、また明日な」
時計の針が22時を指した。
玄関ドアの看板を裏返し、アルバイトくんが帰っていく。まだティーンだからな、店の営業時間までだ。
俺は手入れを終えた包丁をラックに戻した。よく使いこまれた包丁が11本、予備も含めて揃っている。
「一本持って帰っていいぞ」
シェフは作業台を拭きながら言った。
俺は驚いた。
どの包丁も、俺がここで働く前からシェフが使ってきた品だ。値段だって安くない。
シェフは肩越しに俺を見た。
「予備もあるんだ。家にもう一本使い慣れたのがあったっていいだろう」
「ありがとうございます。……じゃあ、これを」
俺はシェフズナイフを一本選んだ。
シェフは小さい目を細めて笑った。
30分後、俺は片づけを終わらせて店を出た。
包丁を包むのに少し手間取 ったが、仕事終わりのいつもの時刻だ。
俺は気の早い木枯 らしに肩をちぢめて帰りを急いだ。
そんなに長く休んでいたつもりはないが、いつの間にか季節は進んで、冬じたくのシーズンになっている。
ポケットのスマホが鳴った。マシューだ。
「もしもし?」
『こんばんはライアン。今平気?』
「ああ、帰り道だ。なにしてたんだ?」
なんてな、他愛 もない雑談だ。今日のできごとや明日の天気を語り合ったら、話題は次の約束になる。
『きみが良ければまた週末に泊まってもいいかな』
「もちろんだ。夕食は何がいい?」
電話の向こうでマシューが苦笑した。
『次は食べすぎないよ! 寒くなってきたから、シチューは?』
「いいアイデアだな」
俺はおやすみを言って通話を切った。
ふむ、シチューか。
俺は冷蔵庫の中身を思い返した。今日明日一人で食べる分はさておき、週末を二人で過ごすには心もとない。
特にシチュー肉だ。今日買って数日熟成させれば、週末にはちょうどいい具合になるだろう。
俺は道を変えてスーパーマーケットに寄った。
そう長居 はしなかったが、家に着くころには日付が変わろうとしていた。
「……これは切らないとな」
俺は牛の塊肉 をキッチンに置いた。
他の食材は冷蔵庫に収まったが、ひとかかえほどの塊肉は少しばかりサイズオーバーだ。シチューに使わない分は切り分けて冷凍しておこう。
「せっかくだから今日の包丁を使うか」
俺はケースから包丁を出した。軽く洗って水分を拭いて、手になじんだ柄 を握る。
包丁の刃先が肉の塊に埋まった。
右手から背筋にいやな寒気が走った。手のひらの感覚がにぶくなって、妙に現実感が遠のく。
俺は背後に人の気配を感じた。そいつが今にも俺の首を締 めようとしている気がした。
俺は勢いよく振り向いた。
誰もいなかった。そりゃそうだ、いるわけがない。
包丁を握りしめた手が小刻 みに震えていた。
――――落ち着けよ。
俺は苦笑いして自分に言い聞かせた。
もう冷房がいらない気温なのに、やけに汗をかいている。
俺は深呼吸した。
――――大丈夫だよ。今はしっかり包丁を握ってるだろ?
「……包丁を握ってたら、なんだ?」
俺はぞっとした。
今、何を考えた?
もし振り向いて、もし誰かがいて、あの日と同じことが起こったら。
俺はまた、この包丁で誰かを殺すのか?
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