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第9話

 やれやれ、大変な一日だったぜ。  俺は家のカギを開けた。ランチどころかディナーも終わる時間だ。真っ暗な部屋の手元を照らそうとして、スマホの通知に気が付いた。  マシューからメッセージが届いていた。 『今朝(けさ)は何も言わずに帰ってごめん』 『兄さんに「食欲がないならプロテインはどうだ」って言われて取りに帰ったんだ』 『とりあえず3種類までしぼれたよ』  俺は電気をつけた。  メッセージの下に写真が添付(てんぷ)されていた。 「っ、はは」  俺は吹きだした。  テーブルの上にプロテインらしき袋が何種類か置いてある。床に見切(みき)れてるのは別の大袋か。多くないか? 『すごいな』 『お言葉に甘えて1、2食分もらうよ』 『良さそうなら自分でも買ってみる』  俺は送信を押してスマホを伏せた。  さて、夕食にするか。  俺は手を洗ってキッチンに立った。  ひとまず簡単で手早(てばや)くできるものがいい。ケイティの話に出た野菜スープでも作るか。  俺は当時のレシピを思い出しつつフードプロセッサーを出した。  レシピというほど大層(たいそう)なものじゃない。家にある野菜を順序良く細かくして味をととのえるだけだ。  とはいえ、たまねぎを切りもせずフードプロセッサーにぶちこむわけにはいかない。  俺はペティナイフを取ろうとして、少し考えて、隣のシェフズナイフを握った。  手になじんだ柄の感触がしっくりくる。だが脳は久しぶりの重みにぎょっとしたようだった。何て名前だったかな、扁桃体(へんとうたい)?  俺は苦笑した。  一度包丁を置いて深呼吸し、軽く腕を振る。  ――――たまねぎひとつだ。そう(りき)むなよ。  ――――()にもの(ぐる)いで握りしめなくても、ちゃんと俺の手の中にある。  俺はみじん切りにした野菜の小山(こやま)を鍋に入れた。  湯気を眺めながら、ちょうどよく煮詰まってきたスープを味見する。 「……もう一品欲しいな」  俺は冷蔵庫の中身を思い返しつつ壁のエプロンをとった。  前菜(ぜんさい)は終わりだ。メインディッシュにかかろう。 ◆  洗い物を済ませたころにスマホの存在を思い出した。  俺はスマホを見た。  マシューからメッセージの返事が来ていた。 『遠慮しなくていいのに』 『でもわかった。兄さんにも伝えておくよ』  まだ続きがあった。俺は画面をスクロールした。  何度か送信取り消しの跡があって、 『また連絡するね。おやすみ』  とだけあった。送信時刻は2分前だ。  俺は少し考えて、通話アイコンをタップした。 『っ、ライアン?』  3回目の呼び出し音が終わる前につながった。 「マシュー、今いいか? 用はないんだ。きみの声が聞きたくて」 『……僕もそう思ってたんだ』  俺は自然と目を細めていた。  電話の向こうの空気もゆるんだような気がした。 「写真見たよ。すごいコレクションだな」 『いいよ、倉庫って言って。きみに渡してから出勤するつもりだったけど、思ったより数が多くて』 「ははっ」  マシューがつられるように苦笑した。 『……今日は大変だったね』 「まったくだ。あそこできみに会うとは思わなかった」  俺はソファにもたれなおした。 「いや、前に話してくれたよな。職場が変わったって話は覚えてたんだが、今日の場所とはつながらなかった」 『無理ないよ。駅からも離れてるし、用がなければわざわざ行かないエリアだと思う』  マシューが電話口で一息ついた。 『僕が介護士(かいごし)だって、話してなかったよね』 「ああ」  立派な仕事じゃないか。  俺は思った。が、マシューの言葉を待った。 『隠してたつもりはないんだ。ただ……なんて言えばいいかな』  俺はあいづちを打った。ちゃんと聞いているぜ、という意思表示だ。 『きみに「患者扱いするな」って拒絶(きょぜつ)されるのがこわかったんだ。……もし介護士だって言ったら、僕が何をしてもケアの一環だと思われるんじゃないかって」  マシューは困ったように笑った。自嘲(じちょう)にも聞こえた。 『仕事は好きだよ。でも公私混同(こうしこんどう)はちょっとね』 「ああ」  だろうな。  俺はケイティと居合わせたときのマシューの態度を思い出した。もしあの場で俺たちが知り合いだと明かしていたら、警察もケイティも無視はできなかっただろう。  マシューが息をつく。 『僕は、きみの恋人で』 「うん」 『一緒にいるのも、大切にしたいのも僕の意思で』 「ああ」 『……あまり言いたくないけど、きみと親密になりたいって下心もあるから』 「わかるよ」  俺は本心から言った。痛いほど身に覚えがあった。 「なあマシュー。職場なら大問題だが、俺個人はきみの下心は歓迎(かんげい)なんだぜ?」 『あっ、やっぱり昨日は誘ってたんだね!? やつれてるきみに手を出せるわけないだろ!』  マシューは冗談めかして怒った。  俺は心から愛しいと思った。  この声の持ち主が目の前にいたらいいのにな。そうしたら今すぐ抱きしめてキスするのに。 「次の週末出かけないか? きみに会いたい」

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