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第10話

 かくして週末の午後、俺とマシューは近くの美術館に来ていた。  目当(めあ)てはある絵本作家の特別展だ。  名前は知らないけど子供のころに一度は読んだ、そういう作家だ。  美術館もそういうコンセプトで宣伝してるらしく、展示室には何組もの親子連れや恋人たちの姿があった。  ルーヴルほどじゃないがそれなりの盛況(せいきょう)だ。  後年は画家としても活動してたそうで、長い通路にビビッドなキャンバスがずらりと並んでいた。  唯一の誤算(ごさん)はそれが全部抽象画(ちゅうしょうが)だったことだ。 「このうずまき何に見える?」 「カタツムリかな。キャンディーにも似てるね」  なんて会話をしながら、俺とマシューは展示室を出た。 「――――ああ楽しかった。いろいろあったね」  マシューが椅子に腰かけて一息ついた。  時刻は夕方5時を少し過ぎたころだ。  展示を見終わってまっすぐ帰る人もいれば、併設(へいせつ)されたカフェでもう少し美術館の雰囲気を楽しむ人もいる。  今日の俺たちは後者だ。 「芸術的だったな。正直半分くらいはよくわからなかった」 「それは僕も」  俺はメニューを開いた。 「何か食べるか?」  マシューは首を横に振った。 「お昼は済ませてきたんだ」 「そうか」  スパイスティーとホットアップルサイダーがテーブルに置かれた。  飲むのをためらうほど熱いはずはない。が、俺はカップで指を温めながらマシューを見た。 「この前は大変だったな。警察に何か言われなかったか?」 「全然。戻ってからはうちの上司と話してたよ。出入口のセンサーが無反応だったから、近々チェックするって。僕は裏庭のフェンスが怪しいと思うな」 「ああ、子供にはいいアスレチックだな」  俺はちらっと向かいの壁を見た。真珠の耳飾りの少女がこっちを見ていた。照れるだろ、あっち向いてな。 「あー……ケイティ・ベイカーさんのことだが」 「うん」 「大学時代の恋人で、いろいろあって在学中に別れた」  『いろいろ』の部分はケイティのプライバシーだ。俺が話すべきはそこじゃない。 「この前会ったのは本当に偶然で、住所も連絡先も知らない。母親になってたことも初めて知った。……別れたのは何年も前だが、やっとさよならが言えて良かったと思ってる」  俺は言葉を切ってマシューに視線を戻した。  マシューは一言、 「知ってるよ」 と言った。  俺は言葉を失った。  マシューは困ったようにくすっと笑った。 「プライベートなことは知らなかったよ。話してくれてありがとう。ただ、きみが今彼女となにかあるわけじゃないのは、なんとなくわかってたんだ」  俺は手品を見せられた気分でマシューの顔を眺めた。  わざわざ話してよかったんだろうか、いや、実際話してよかったんだろう。  マシューは俺の手に手を重ねた。  その指先がかすかに冷えていた。  俺はマシューの手を握り返した。 「僕、彼女のお母さんの担当なんだ。仕事上の情報だから言えないけど、きみと彼女の今を疑うのはちょっと……論理的じゃないなって」  マシューは苦笑した。  俺は両手を上げて降参(こうさん)のポーズをした。 「まいった。俺より彼女に詳しいな」 「書類にあることだけだよ」  マシューは肩をすくめた。片手をカップに触れさせながら、()(けっ)したように唇を閉じる。 「……やきもちついでに一つ聞いていいかな」 「いくつでもいいぜ、なんだ?」  マシューはスマホを出した。  アプリのスクリーンショットだろう。どこかの厨房らしき床と、二人分の手が写った写真だ。  なんの加工も個人情報もなさそうな写真だが、俺には見覚えがあった。 「ああ、この写真……」  俺は言いかけて口を閉じた。  マシューはハムスターもかくやの表情でむくれていた。 「この人誰!」 「職場の後輩だよ。まだティーンなんだ」  俺はマシューの勢いに押されつつ言った。 「僕だって数年前までそうだったよ!」 「今は大人だろ?」  俺は目の前のハムスターのほっぺをつついた。  マシューは肩とほっぺの力を抜いた。  俺はにやけそうになるのを我慢できなかった。  そりゃそうだ。マシューには写真の相手の年なんてわからない。俺と写真を撮った誰かさんを警戒するのは当然だ。  実際にはその子はティーンだから、俺がそっちに行く可能性なんてゼロなのにな。  ああクソ、かわいい。にやけるなよ、格好つかないぜ。 「よく手だけでわかったな」 「わかるよ。きみだもの」  マシューは俺の小指側の手の甲を撫でた。  写真の手は同じ位置に傷がある。とはいってもほとんど治りかけていて、角度的にも見えづらい。  今の俺の手はほとんど新しい皮膚(ひふ)になっているから、鮮明(せんめい)な指の感触がくすぐったかった。  ああ、テーブルの距離がもどかしいな。  店員が隣の席を片づけに来るのが見えて、俺たちはそれとなく手をほどいた。手に残る体温が名残惜(なごりお)しかった。  俺は空いた手で頬杖(ほおづえ)をついて、唇で指の甲に触れた。  マシューが熱っぽくそれを見ていた。 「出ようか。……夕飯(ゆうはん)食べていくだろ」 「うん」 ◆  帰り道は二人とも無言だった。日が落ちて風も冷たくなってきたのに、じわりと頬が熱い。  急ぎ足の数人が俺たちの横を通り過ぎた。  俺とマシューは道のはしへよけた。コートごしの腕が触れた。  俺はコートの陰でマシューの手を握った。  薄暗い上にこの寒さだ、みんなちぢこまって前を見てる。見えたとしてもまあな、ありふれた光景だ。  マシューがぎゅっと俺の手を握り返した。  手袋ごしだから互いの体温なんてわからない。だからこそ布の向こうの、さっきまで触れてた指をありありと想像できてしまった。  俺は早く家に帰らなきゃなと思った。

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