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第1話

 アラームの音が台所にまで届き、鹿取晃はコンロのボタンを押した。フライパンに油をひいて温まったらベーコンと卵を二つ割る。  換気扇はつけない。台所脇の小窓だけを開けておくと、ベーコンが焼ける香ばしい匂いが部屋中に広まっていく。  しばらくすると冬眠していた熊のような足取りで五十嵐圭吾がやってきた。  「おはよう、圭吾」  「……はよっ」  くわぁと大きな欠伸をこぼし圭吾は眠たそうに目を掻いた。夜中までキーボードの音が聞こえたから卒論が大詰めを迎えているのだろう。  「半熟……」  「わかってる。もうすぐできるから顔洗ってきなよ」  「ん」  セットしたトースターがチンとタイミングよく音を響かせた。こんがりとしたパンの焼ける匂いはどうしてこんなに幸せな気持ちにしてくれるのだろう。  手早くバターを塗り、目玉焼きと一緒に皿に盛りつける。  淹れたてのコーヒーと一緒にテーブルに並べると絵に描いたような食卓にうんと大きく頷いた。完璧。死角がないくらいパーフェクトな朝食に気持ちがぐんと上がる。  洗面所から戻ってきた圭吾の目の下には濃いくまができていた。頬もげっそりと痩せ、無精髭まで生えている。いつもはセットされた金髪も寝癖でふわふわしていて可愛い。  「何時までやってたの」  「憶えてねぇ」  「そんなに根を詰めたら身体保たないよ」  「二徹くらい余裕だわ」  昔から頑丈だけが取り柄の圭吾だが、二徹はさすがに辛いだろう。強情だなと思ったが口にしない。  説教じみたことを言うと拗ねさせてしまうと長い付き合いなのでわかる。  「半熟具合い完璧」  寝不足でも食欲はあるらしくもりもりとご飯を食べてくれる。口の端に黄身がついても気にしていない。愛を込めて作った朝食を大好きな人に喜んでもらえてつい頬が緩みそうになる。  きゅっと口角に力を入れ、平静を装うのもだいぶ慣れたものだ。  圭吾とは小学校からの幼馴染だ。実家が隣で、同い年。親同士も仲が良く、お互いの家を行き来しながら兄弟同然として育ってきた。  俺様で威圧的な圭吾と引っ込み思案な晃は周りから見れば不釣り合いなコンビだったが、内実は馬が合い気心許せる親友だ。  そして晃にとって圭吾は初恋の人。もちろんいまも継続中である。  小中高まで同じで、大学に上京するにあたりルームシェアをすることもお互いの親の勧めだ。圭吾のことをずっと好きだった晃にとって天啓のような提案に飛びついたのが四年前。  来月には大学を卒業し、それぞれ就職することが決まっている。  お互いの就職先は都内なのでこのままルームシェアを続けられるだろう。親たちもそれを望んでいる。  好きな人と一年中ずっと一緒にいられる幸せを日々感じていた。  「おまえは卒論終わったのか?」  「あと少し。研究結果はまとめてあるから考察書けば終わるよ」  「俺、そういうの苦手。おまえ昔からちまちま作業するんの好きだよな」  「うん、好き」  じっと圭吾を見返した。別の意味を存分に含めているが圭吾は気づかないだろう。  案の定「マウントかよ」と毒吐かれ、圭吾は食べ終わった食器をシンクに置いた。  「話あんだけどさ」  「なに?」  妙に真剣な表情の圭吾の雰囲気につられて晃もフォークを置いた。  どこか切羽詰まった圭吾の表情にこの部屋の酸素が外に吸い出されてしまったかのように息苦しさを憶えた。  「卒業したら、この部屋を、出ようと思う」  圭吾は一語一句区切りながら口にした。まるで子どもに言い聞かせるようだ。それなのに言葉が耳を通り過ぎてしまい、すぐには意味を理解できない。  台所の蛇口から水がぽたりと落ちる音がやけに大きく響いた。  「いつまでもおまえと一緒ってわけにいかないだろ。就職して大人になるんだし。いい区切りじゃん」  矢継ぎ早に圭吾が言葉を重ねる。  この家はお互いの職場から遠いとか部屋が狭いだの、いままで一度も言ってこなかった不満をぶちまける圭吾をただぼんやりと眺めた。  もしかしてこの暮らしを気に入っているのは自分だけだったのだろうか。  温度も湿度も料理も生活もすべて圭吾のために完璧に整えているつもりだったのに、どこかに齟齬があったのだ。  そういえば同居をすると決まったときも圭吾はいい顔をしていなかった。  (もしかしてずっと我慢させていた?)  楽しかったのは自分だけで圭吾は合わせてくれていたのかもしれない。  美味しかったはずの目玉焼きが粘土みたいな味に変わっていく。  じっと見られ、「返事は?」と言わんばかりの態度にはっと我に返った。  「わかった。じゃあ引っ越しの部屋探さないとね」  圭吾と出会って鍛え上げられた表情筋でめいいっぱい笑った。  圭吾は一瞬きょとんとしたが、鼻に皺を寄せて背中を向けた。  「少し寝る」  「……今日は一日休み?」  「そう」  「僕はバイトだからお昼ご飯、冷蔵庫に入れておくね」  「ん。ごっそさん」  圭吾はまた大きなあくびをして、部屋に戻って行った。ぴょこぴょこと揺れる毛先をついうっとりと眺めてしまい、慌てて頭を振った。  あと何回寝癖頭の圭吾を見られるのだろう。  圭吾との暮らしは幸せの積み重ねだった。寝起きでぼんやりした顔や子どもみたいにご飯をかきこむところ、それに反して風呂上がりの色っぽい姿を毎日見られだけで前世はどれだけ徳を積んだのだろうと感謝していたくらいだ。  (でも圭吾は違った)  親の勧めだからと半ば強引にルームシェアをしてしまったが、圭吾は一人暮らしに憧れていたのかもしれない。  この四年間彼女らしい存在はなかったが、社会人になったらわからない。圭吾の魅力に気づく女性は多いだろう。  部屋に連れ込もうにも晃がいたら邪魔に決まっている。  友人としての距離感は大切に保たなければ、と初心を思い出す。  圭吾のことは子どものときから好きだ。でも想いを伝えるつもりはないし、恋人になりたいなんて夢をみたこともない。  この幸せな日々を一日でも長く自分のなかに留めておきたい。それだけでいいのだ。  気持ちは一気に奈落の底へと沈んだが元々わかっていたことだ。一生一緒にはいられない。  シフトレバーを動かすように気持ちを切り替える。もう何年もそういうことをしてきたから慣れたものだ。  それでもどうしても胸は痛む。がちゃがちゃと音をたてて壊れていく心に絆創膏を貼って原型を留めさせる。  いくら平静に装うことに慣れても辛いものは辛い。  ふうと深く息を吐いた。吐き続けると息が苦しい。それが圭吾への想いなのか酸素不足なのか境界線が曖昧になったところで息を吸った。  そうしても胸の痛みはなくなることはない。    バイトから帰ってきても部屋は深海のように暗く、物音ひとつない。  作り置きしておいたチャーハンは手つかずのまま冷蔵庫に鎮座している。どうやら圭吾は昼食を食べずに寝ているらしい。  朝からなにも食べていないなら夕飯は胃にやさしいものがいいだろう。  昆布と鰹節で出汁をとった野菜たっぷりの味噌汁と雑煮を作る。卵は煮立ったら円を描くようにいれ、すぐに火を消す。ふわふわの卵は圭吾のお気に入りだ。  美味しそうな香りにくんと鼻を鳴らしていると扉が開く音がした。  今朝と変わりないやり取りににやついてしまう。匂いにつられるなんて本当に熊みたいだ。  「おそよう、よく寝てたね」  「……」  「圭吾?」  もう一度名前を呼ぶが圭吾は不思議そうに首を傾げた。まだ寝ぼけているのだろうか。  黒のスウェットに身を包んだ圭吾の両目はとろんと垂れ下がっている。寝過ぎて覚醒するのに時間がかかっているのだろう。   圭吾の寝起きは悪い。  でも次第に親とはぐれた子どものように顔が歪められていく。  「どうしたの? 寝過ぎて頭が痛い?」  なにか変だ。そう思ったら居てもたってもいられず火を消して、圭吾の元へ駆け寄った。  暗いリビングに月明りが差し込んできた。  窓から見える月は満月。煌々とした月光を浴びて、圭吾の金髪がきらりと輝いている。  少し吊り上がった琥珀色の瞳に月の光がはいる。きれいだとうっとりと眺めているとその目が眇められた。  「誰だ?」  「え……圭吾?」  「ここはどこだ? 私はなぜこんなところにいるんだ?」  「どうしたの? 頭でも打った?」  まさか記憶喪失ーー?  慌てて圭吾の頭を触るがこぶができている様子はない。身体をくまなく検分したが、痛がったり腫れている箇所はなかった。  圭吾は不思議そうにこちらを見下ろし、また首を傾げている。だがしばらくするとぱっと笑顔をみせた。  「おぉ! わかったぞ。そなたが私の新しい従者だな」  「従者?」  なにを言っているんだと言い返そうとすると圭吾(偽物?)は勝手に納得している。  「だがここはどこだ? 馬小屋か? それとも納屋か? 納屋にしては小綺麗にはしてあるほうだが狭いな」  「ここは僕と圭吾の部屋だよ」  「圭吾とは誰のことだ?」  「きみのことだよ」  圭吾を指さすと両目を大きく広げた。なんと、と驚愕の声をあげる。  喋り方も変だし意味のわからないことばかり言う。圭吾なのに圭吾じゃない。  自分がいない間に変なものでも食べてしまって頭がおかしくなってしまったのだろうか。  でもこの家に賞味期限切れものすら置いていない。食事には人一倍気にしている。  けれど圭吾がどこかで買って食べたもののまでは把握できていない。  なにか強い刺激物を食べて一時的に記憶が混濁しているのだろう。  ならここは下手に刺激をしないで話を合わせた方がいい。そのうち正気に戻るはずだ。  携帯を内側カメラにして渡すと圭吾はおっかなびっくりと触れた。  「なんだこの四角いものは!?」  「スマホだよ。覗いてみて」  「これが……私?」  スマホを受け取った圭吾はしみじみと画面を見ている。顔の角度を変えたり目を瞑ったりして本当に自分の顔かどうか確かめているようだ。  「そうだよ」  「なんと不細工な男だ。小さい目に骨ばった輪郭。なによりこの変な金髪はなんだ。私の金色の髪は朝日を浴びる小麦畑のように美しいのに」  「どこからどう見てもかっこいいだろ! 切れ長の目は色っぽいじゃないか。背は高いし、鍛えてるから筋肉質で男らしいし。それに金髪も白い肌にとても合ってる! 圭吾が不細工なわけないだろ!」  一息に捲し立てると偽物はあんぐりと口を開けた。呆然とした表情を見て、かぁと頰が熱をもつ。  「そなたはこの男のことが好きなんだな」  「べ、別に友だちなら普通だろ」  「そうか」  目を細めて笑う顔は圭吾なのに圭吾じゃない。いままで一度も見たことがない類のものだった。  偽物は跪いて恭しく頭を下げた。  「私はフロント国の第三王子、トーマ・ディクソンだ。数々の無礼、どうかお許し願いたい」  「フロント? 王子?」  なにを言っているのか処理が追いつかない。もしかして新手のジョークかと圭吾を見上げるがやさしい微笑みを向けられてしまい、どくりと心臓が嫌な音をした。  圭吾は冗談が嫌いでお笑い番組すら観ないほど生真面目な性格をしている。  「そなたの名前は?」  「鹿取(かとり)……晃(あきら)だけど」  「晃だな。よろしく!」  にっと歯を覗かせて笑う圭吾の顔は子どものとき以来だ。最近はあまり大声で笑うことが少なってしまっている。  だから余計にこの人は圭吾じゃないとわかってしまう。   「どうやら成功したのかもしれない」  「なにが」  「なんでもない。晃のいう「圭吾」とやらの身体を借りているのだろう」  「よくアニメや映画にある中身だけ入れ替わるってやつ?」  自分で言っておきながらそんな非現実的なことが起こるわけないと思う自分もいる。  だがいま目の前に圭吾の顔をした別人がいるのもまた事実なのだ。  トーマは真剣な顔をして頷いた。  「アニメやえーがとやらはわからんが、そうかもしれん。私がいた時代とは文明が違う。もしかしたら未来にきたのかもしれない」  「トーマは過去の人ってこと?」  「その可能性が高い」  確かにトーマはスマホを見て驚いていた。現代人なら知らない人はいない。  「だが、月だけは変わらないな」  満月を懐かしむように目を細める横顔が圭吾らしからぬ憂いさがあり、本当に別人なんだと納得してしまった。  「圭吾はどこにいるの?」  「ちゃんとここにいる。いまは眠っているな」  トーマはとんと胸を叩いた。圭吾の意識はなく、いまはトーマが表に出ているらしい。  つまりなんらかの引き金がきっかけで、トーマと圭吾が入れ替わっているということだろうか。  でもなにがきっかけだったのかわからない。バイトに行かないで圭吾の様子をちゃんと見ておくべきだった。  「ここで会ったのもなにかの縁だ。私の恋人を探して欲しい」  「なんで急に恋人なんだよ!」  「それを探すためにここに来たに違いない」  「嫌だ」  「なんでだ!? 普通承諾するところだろ」  「だって僕には関係ないことだし」  きっぱり言い捨てるとトーマは「確かに」と納得してしまっている。結構素直だ。  「だがこの身体はどうなってもいいのか? 私はこのまま外に出て、他の者に頼んできても構わない」  「それはだめ!」  トーマ自身のことはどうでもいいが、圭吾が関わるなら話は別だ。よく考えれば身体は圭吾のものだから人質を取られているようなものではないか。  この世界のことを知らないトーマが圭吾の身体で好き勝手して困るのは晃だ。  誰かに連れ攫われたり、いかがわしい奴に悪戯をされてしまうかもしれない。  最悪警察沙汰になったらせっかく内定した会社もだめになってしまうのではないか。  圭吾のことがなによりも大事だ。自分が持っているすべてのものを投げ出しても足りないくらい愛している。  圭吾を守るためなら面倒なことも引き受けるしかない。  「……わかった。恋人探しを手伝うよ」  「うむ」  満面の笑顔を浮かべるトーマの笑顔に不覚にもどきりとしてしまった。

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