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第2話

 トーマは好奇心旺盛で、あらゆるものに興味を示した。 スマホやテレビ、パソコンの電子機器からカレンダーやIHにも「これはなんだ」「どうやって使うのだと」といちいち説明を求められうんざりした。  こっちはバイトで疲れて帰ってきているのに今度は「バイトとはなんだ」と訊かれてしまい、頭が痛い。  圭吾ではないのだから適当でいいのにと思う反面、姿かたちが彼であると雑には扱えない。  一度気持ちを切り替えるために深く息を吐いた。  「バイトは学生や主婦が短時間で働いてお金を稼ぐことだよ。僕は塾の講師をしてる」  「塾? 講師とはなんだ」  「子どもたちに勉強を教えるところ。講師は先生みたいなものかな」  「学校とは違うのか」  「ちょっと違う。学校とは別の場所で勉強するんだ。てかもう寝てもいい?」  「だめだ。もう少し説明しろ」  「勘弁してよ」  自室の布団に潜ってもトーマの質問攻めは終わらない。大抵のものは説明したが、まだまだ足りないようだ。  でも眠気も限界である。  「頼むから寝かせてよ。明日は大学で卒論の経過報告会があるんだから」  「大学とはなんだ?」  「もー!」  「そんなことで怒るとは晃は短気だな」  「帰ってから四時間は付き合ってるよ。ほらみて。いま深夜二時だよ。わかる?」  ベッドサイドに置いてある時計を指さすとトーマはまた目を輝かせた。  「この丸っこいのはなんだ? この文字はなんと書いてある?」  「時計だよ!」  もう知らないと布団を被るが「教えてくれよ」と揺すられてしまい眠れない。  「晃」  耳に心地よく響くテノールの声にがばりと布団から顔を出した。  「……圭吾?」  「なんてな。圭吾はこういうクールなタイプの人間なんだな。憶えておこう」  「~~っ最低!」  今度こそ無視を決め込んでダンゴムシのように身体を丸また。  布団の外からトーマの声が聞こえたが無視し続けているうちにすぐに眠ってしまった。  アラームの音で瞼をあげた。寝不足のせいで頭の芯が鈍く痛む。  (それもこれもトーマのせいだ)  怒りと共に起き上がるとトーマの姿はなかった。部屋で寝ているのだろうか。  わずかに開いた扉の隙間から焦げ臭い匂いが入ってくる。  まさかと思って台所に向かうと白煙が部屋中にまん延していた。  IHの前にトーマが立っている。  「なにこれ!?」  「腹が減ったからなにか作ろうと思ったんだが難しいな」  「これじゃ火災報知器鳴っちゃうよ」  「火災報知器とはなんだ?」  「いいから、ちょっとどいて!」  トーマを押しのけてIHのボタンを押した。部屋の窓を全開にして、換気扇を最大にすると煙がどんどん薄くなっていく。  どうにか火災報知器は反応せず、大事にならずに済んだ。こんな朝から消防車だの救急車だの来たら近隣の人に迷惑をかけてしまう。  「なんだ慌ただしい。ただの煙だろ」  「そうだけど、そうじゃないんだよ。てかこれ勝手に使ったの?」  IHの上にある鉄のフライパンを見て、言葉を失った。目玉焼きを作ろうとしていたのだろうか炭のように真っ黒な物体がこびりついている。  ルームシェアをした年に圭吾が誕生日プレゼントでくれた世界に一つしかない大切な宝物。  我が子のように大切に使い、圭吾が好きな半熟の目玉焼きを毎日作っていたフライパンが見るも無残な姿になってしまっている。  「こんなの洗えば落ちるだろ」  「そんな簡単に言うなよ」  焦がさないよう大切に使ってきたものだ。洗えばいいとかそんな簡単な問題ではない。  これで圭吾に朝食を作ってあげるのが晃の一日の始まりだった。そんな幸福な時間を一緒に過ごしてきたフライパンは一心同体といっても過言ではない。  圭吾の姿で圭吾からもらった大切なものを雑に扱われるとまるで自分も同じようにされた気分になってしまう。  さすがに悪いと思ったのかトーマは頭を下げた。  「すまない。とても大切なものなんだな」  「わかってくれたならもう勝手なことはしないで」  「それは約束できない」  ぎろりと睨みつけるとトーマは目を泳がせた。どうしても好奇心が抑えられないのだろう。  どうやら晃が思っていた王子様像とトーマはかけ離れている。シンデレラや白雪姫の王子はクールでかっこいい印象があったのにトーマは子どものように無邪気だ。  興味があることに猪突猛進に突っ込み、こちらの都合などお構いなしに土足で踏み荒らしていく。まるで台風みたいだ。  (でも怒っても仕方がない)  フライパンを水につけて、冷蔵庫からミートボールや作り置きのサラダを出した。  どんなにトーマに腹を立てても身体は圭吾だ。適当なものは食べさせられない。  栄養たっぷりな朝食を前にトーマは太陽のように眩しい笑顔を向けた。  「なんて豪華な食卓だ!」  「王子様なんだからもっといいもの食べてるでしょ」  「フロント国は北国で年中雪が降っているんだ。生野菜なんてほとんど食べられない」  レタスをうっとりと眺めるトーマの顔を盗み見た。  「……フロントなんて国名、聞いたことないな」  世界中の国の名前を知っているわけではないが、耳馴染みがない。  だがトーマは過去から来たのだ。もしかしたら戦争や侵略で国の名前がいまとは違ったのかもしれない。  「雪が降る静かな夜によくシリウスと逢瀬をしていた。城の裏にある納屋でそれはそれは熱い夜を過ごして  」  「シリウスって恋人の名前?」  「そうだ! とても麗しい青年なのだ。黒い髪にサファイヤのような瞳で頭もよくて気立てもいい。なにより手先が器用だ。小さな木屑で動物を彫っているときの顔は本当に愛らしい!」  青年、という言葉に目を剥いた。  「……恋人って男なの?」  「もしやこの国も同性同士は禁忌とされているのか?」  「……そういうわけじゃないけど」  王子様の恋人というならどこかの貴族の令嬢だと思っていた。まさかの男。しかも話の様子から位も高くなさそうだ。  トーマの怯えた表情からフロント国では同性同士の恋愛はご法度とされていたのだろう。  もしかして二人の恋路は幸せなものばかりではなかったのかもしれない。  なぜか自分と圭吾を重ねてしまい、頭を振って嫌な思考を追い出した。  「てかもうこんな時間! 大学行かなきゃ……でも」  ちらりとトーマを見た。見た目は圭吾だがなにしろ言動が破天荒過ぎる。  経過報告会は現状どこまで卒論がまとまっているかを報告する会だ。出席は必須で、冠婚葬祭以外の欠席は許されない。最悪、卒論を提出しても単位がもらえない。  (僕も同じゼミだからフォローするしかないな)  圭吾のためなら仕方がないと腹を決めた。  「とりあえず服着替えて大学に行こう」  「外に出られるのか!」  ご機嫌な様子のトーマに服を着せるだけでも苦労し、どうにか手を引っ張って大学に着いたころには汗をびっしょりとかいていた。 寝不足もプラスされて身体が酷く重い。  「誰に話しかけられても笑顔でやり過ごすんだよ」  「わかっておる」  「発表も僕が手助けするから言う通りにしてね」  「はいはい」  道中に口酸っぱく説明したが、本当に理解しているのだろうか。  時間ギリギリで研究室に飛び込むとゼミ生全員が集まっていた。  二年間ともに学んできたゼミ生たちは卒業が間近に迫っているのもあり、どこか気が緩んだ様子がある。残り少ない卒業までの日を楽しい時間で埋めようとしているのだろう。  だが、自分に向けられる視線は冷たい。一気に室内の温度まで下げてしまう。  もう慣れっこなので無視していると晃の脇を通り過ぎてゼミ生たちは圭吾の方に集まっていく。  圭吾は昔から人気者で、いつも周りには取り巻きたちがいた。一歩学内に入ってしまうと嫌われ者の晃は圭吾に近づけない。  でも今日はそういうわけにはいかず、できるだけ近くの席に陣取って耳をすませた。  「久しぶり、圭吾」  「内定決まったからってまた金髪に戻したのかよ」  男二人に声をかけられてトーマは白い歯を覗かせた。  「おまえのズボンはなぜ大きな穴が開いている? 買う金がないのか?」  「は……?」  「それにおまえは肌が汚い。ぼつぼつ赤くなっているぞ。流行り病か?」  「なに言ってるんだよ」  二人は目線を合わせ、口をあんぐりとさせている。慌てて視線を送るがトーマは初めて会う人間に興奮しきっていて気づいていない。  高い鼻を摘んだトーマは眉間の皺を深くさせた。  「それよりなんだ、この匂い。花を腐られたような異臭がするぞ。うちの馬小屋より酷い」  「圭吾!」  もうさすがに耐えきれない。  圭吾の腕を引っ張って廊下に連れ出した。研究室では「どうしたんだよ、あいつ」と動揺する声が聞こえてくる。  周りに誰もいないことを確認してから口を開いた。  「笑顔でやり過ごすって約束したでしょ」  「ずっと私は笑顔でいたぞ」  「いや、そうじゃなくて……なにも話すなってことだよ」  「それは無理だな! 私は母様の口から産まれたというほど口達者で有名だったんだ」  「……やっぱ連れて来るんじゃなかった」  卒業のために仕方がなかったとはいえ、ここまで酷いとは思わなかった。  緩い教授だから出席さえしておけば評価してくれるだろうが、他のゼミ生たちから蔑まれたらどうしよう。  せっかく圭吾が築いてきた交友関係に最後の最後で亀裂をいれるわけにはいかない。  「とりあえず大人しくして。喋らないように」  「善処しよう」  「善処じゃなくて決定事項だから」  このまま放りだしたい衝動にかられるが、それは同時に圭吾を見捨てると同じ意味になる。圭吾のために頑張らないと。  部屋に戻るちょうど教授が入ってきた。ざわめいていた教室が静かになり、各々席に座る。それを教壇からすみからすみまで見渡した教授はこほんと一つ咳払いをした。  教授の髪は薄く、つるりとした額が露わになっている。頭頂部に白熱灯に反射して眩い光を放っていた。もう見慣れたものだが誰かが鼻で笑っている声が聞こえた。  隣を見るとトーマは手を組んで目を瞑っている。その熱心な横顔に首を傾げた。  「なにしてるの」  「牧師が来たのならお祈りしないといけないだろ」  「牧師って」  確かにハゲているけど牧師ではない。その会話が聞こえたらしく、ゼミ室は笑い声が響いていた。  (もうやだ)  早く日常が戻って欲しいと願わずにはいられなかった。      「静かにしてって言ったのに」  「大人しくしていただろう!」  「どこが……」  思い返したくないくらい報告会は散々だった。  圭吾は事前にスライドをつくり、原稿まで仕上げていた。それを読めばいいだけなのだがトーマは日本語が読めない。 なら喉が痛いということにして晃が代わりに読む、まではよかった。  だが晃が原稿を読んでいる最中にトーマは「それはおかしい!」「なんて惨い仕打ちだ」と怒ったり泣いたり野次を飛ばしてきたりと好き勝手に発言していた。  大らかすぎる教授は笑ってくれていたが、内心どう思われているかわからない。  一人五分の持ち時間を大幅に過ぎたせいで全員の発表を終えることができず、急遽明日も続きをするはめになってしまった。  ゼミ生たちの非難の視線から逃れるために研究棟の裏にトーマを連れ出したが、怒りはおさまりそうもない。  顔を真っ赤にさせてこぶしを青空に突き上げながらトーマの熱弁は続いた。  「いつの時代も同性婚に厳しいんだな! なにも火あぶりにしなくてもいいじゃないか」  「そういう時代だったんだよ」  「だが火あぶりはよくない。神に背いているわけではないのだから」  「それはわかるけど」  圭吾の卒論のテーマは「同性婚の歴史」だった。まさかこんなことを研究していたとは知らず、晃自身も驚いた。  だがトーマとしては同性の恋人がいるから自分と重ねてしまう部分が多かったのだろう。  同性婚の歴史の惨さにご立腹だ。  怒りの矛先を変えるために話を逸らした。  「フロント国だとどうなの?」  「我が国も同性婚は認められなかったな」  スイッチが切り替わるようにトーマの表情に暗い影が落ちた。失敗した、と思ったがもう遅い。  あれほど怒りに震えていたこぶしが今度は違う意味を持っているのに気づいてしまった。  (王子様と平民で同性同士の恋なんてきっといろんなことがあったに違いない)  なにも知らないくせにとやかく言う立場ではない。  「ごめん」と小さく謝罪をするとトーマは笑ってくれた。  知らないといけない。  トーマのこともフロント国のことも。そうしないとまた傷つけてしまう。  だがネットでフロント国のことを調べてもヒットしなかった。どうすればいいんだと顔をあげるとトーマの後ろに見慣れた建物が目についた。  「図書館で調べてみよう」  「調べるってなにを?」  「フロント国だよ。シリウスさんのことがなにかわかるかもしれない」  腕を引っ張って図書館に入った。  大学に併設されている図書館は史学科があるので世界中の歴史書が豊富に蔵書されている。  歴史ごとの世界地図を舐め回すように見て回ったが「フロント国」の文字は見つけられなかった。  「これだけ探しても出てこないってことは異世界なのかな」  「異世界とは?」  「僕たちがいまいる世界線とは全然違う時空ってこと」  ルーズリーフに色違いの線を二本書いた。赤色は晃とトーマがいる世界で、青色の線は別の世界をさす。どちらも同じ時間が流れているし、文明も似ている。だがまったくの別物であり、お互い干渉することはできない。  子どものとき夢中になったSFアニメの知識が役に立っている。  「よくわからんが、ここまで調べてないならそうなのだろうな」  どこか投げやりな様子のトーマは大きな欠伸を一つ零した。  昨晩からずっと起きているのだから眠くなっても仕方がない。だがここで寝られたら困る。  身体の大きな圭吾の身体を家まで運ぶなんて不可能だ。  寝かせないように話を振った。  「フロント国に電気はないんだよね?」  「スマホやテレビのことか? あんな素晴らしい発明品はないな。明かりは蝋燭だし、部屋を温めるのはもっぱら暖炉だ」  「なるほど」  トーマから聞いた情報を総合した限り、フロント国はここでいう中世ヨーロッパに近い時代なようだ。  確かにその時代なら内戦や小競り合いはたびたび起きていて、革命も度々起きていた。  国や権力者がコロコロ変わっていた。   「シリウスさんとはどこで出会ったの?」  「城下町だ。祭りをやっていて、城を抜け出して散歩していたときに出会ったんだ」  眠気を吹っ飛したらしいトーマの表情が明るくなる。シリウスの話をするトーマは生き生きとしていて、それが圭吾と重なる。  圭吾と恋人になりたいなんて願っていないのに、いざトーマを通して恋人の話を聞くだけでも胸が抉られるように痛い。  適当に相槌を打っていたがふとトーマは話を止めて、俯いてしまった。  「……シリウスと会えるのだろうか」  小刻みに揺れる長い睫毛をみつめた。  考えてみればよくわからない世界に来て、知っている人が誰もいないなかトーマは常に不安だったのかもしれない。  明るく振る舞っているから忘れてしまっていたが、晃に気を使ってくれていたのだろう。  もし自分がトーマの立場になったら、と考えたら不安に押し潰されて部屋から一歩も出なかったかもしれない。   「大丈夫だよ。きっと会えるよ」  なんて安っぽい言葉なのだろう。それじゃ不安なトーマを助けてやれない。  それでもトーマは「ありがとう」と笑顔を向けてくれて、罪悪感で胸が軋んだ。  収穫を得られないまま家に帰ると、一日の疲れがどっと肩にのしかかる。  「疲れた。さっさと風呂に入って寝たい」  「風呂とはいいな! 心の洗濯とも言う」  「じゃあ先に入ってきていいよ」  「おまえは洗ってくれないのか?」  「なんで僕が洗わないといけないの?」  驚いたように目を瞠ったトーマの表情に首を傾げる。  「一人で風呂に入ったことがない」  「いつも誰かに洗ってもらってたってこと?」  「そうだ」  「とんだ王子様だな」  皮肉のつもりだったが、トーマは「それはもちろん王子だからな」となぜか胸を張っている。  トーマは一度決めたら譲らないとこの一日でよくわかった。自分が諦めて従った方が物事は早く進む。  「わかったよ」  服を脱がせて洗濯機に放り込んで浴室に押し込んだ。  浴室は暖房設備があり、追い炊き機能もついている最新型だ。使ったことはないけどミストもでる。  「じゃあまず頭からね」  「うおっ、いきなりお湯が出てきたぞ」  「これはシャワーね」  椅子に座らせて頭からシャワーをかけるとトーマは子どもみたいにきゃっきゃと悦んでいる。浴室の声が響くことに気づいて今度は「わー!」と大声を出すので圭吾の身体ということを忘れ、殴りそうになった。  どうにか気持ちを落ち着かせようと深く息を吐いて、ボトルを手に取る。  「それはなんだ?」  「シャンプー。これで髪を洗うの」  「それは?」  「ボディソープ。身体を洗うやつ」  訊かれることに淡々と答えながら洗ってあげた。  だがここで大きな問題が残る。身体をどう洗うか、だ。  王子様なトーマは一度も自分で洗ったことがない。なら晃がやり方を教えるしかないのだ。  泡立てたボディソープをトーマに差し出した。  「背中は洗ってあげるから、前は自分で洗って」  「前ってちんーー」  「全部言わなくていいから! さっさとして!」  「そんな照れることではないだろう。どれどれ、かなり立派じゃないか」  「……そういうこと言わなくていいよ」  想像するだけで頭が茹ってしまう。できるだけ直視しないように背中を洗ってあげた。  足の指の間や脇などを洗うように指示するとトーマは大人しく従ってくれた。  全部洗い終わるとトーマは満足そうに湯船に浸かった。対して晃は精神的にボロボロである。  「いままでで一番の風呂だ」  「それはよかったよ」  湯船の縁に頭を預けるトーマの頰は赤い。一糸まとわぬ姿が水のなかでゆらゆらと見える。   (圭吾と風呂に入るのは小学校の修学旅行以来だな)  大人になった身体に視線が釘つけになってしまう。圭吾は暇さえあればランニングに行き、家では筋トレをしているのでがたいがいい。  割れた腹筋や隆起した二の腕が水滴を帯びている様子にどきりと胸が跳ねる。濡れた髪を後ろにまとめていると丸い額が露わになって大人っぽい。  (圭吾の意識がないのにジロジロみちゃだめだろ)  そう自分を窘めても欲には勝てず、片付けるふりをしてちらりと盗み見るとトーマと目が合ってしまった。  「なんださっきからチラチラ気にして」  「べ、別になんでもない」  「この身体が気になるのか」  にやりと笑われて頬に血がのぼった。  「しょうがない。褒美に見せてやってもいい」  立ち上がろうとするトーマの肩を掴んで湯船に沈めた。  「それはダメだ。圭吾が嫌かもしれない」  「私は構わぬと言っていてもか?」  「トーマは圭吾じゃないでしょ。本人の承諾がないのに勝手なことはできない」  それは圭吾への裏切りになる。  「愛が深いな」  トーマは呟くと肩までしっかりお湯に浸かってくれた。  風呂から出てドライヤーで髪を乾かしてやるとトーマは険しい顔で目を瞑っている。  「どうしたの?」  「その音は苦手だ」  「へ〜いいこと聞いたな」  風量を最大にして耳元に当てると「なにをするんだ!?」と目を吊り上げた。その表情が圭吾に似ている。  「……晃も圭吾に会いたいか」  「ここにいるけどね」  「そうだな」  それ以来口を閉ざしたトーマは夕飯も食べずにソファで眠ってしまった。  揺すっても叩いても起きる気配はない。一日以上起きていたから無理もないだろう。  圭吾の部屋から毛布を持ってきてかけてあげた。  寝顔は圭吾と同じだ。誰が見ても中身が別人だと思わないだろう。  トーマがいると騒がしくて気が逸れていられたが、こうして一人になってしまうと圭吾の不在をより強く感じる。  あるのに、ない。  ないけど、ある。  まるで空気のように掴むことができない残像を追いかけているような気分だ。  「寂しいな……」  月明かりに照らされた寝顔をしばらくじっと見つめていた。  ぶるりと身震いがして身体を起こそうとすると全身が痺れていた。どうやらトーマの寝顔を見ながらリビングで眠ってしまったらしい。  時計を見ると少し早いが起きた方がいいだろう。  伸びをすると背中の関節がバキバキとサイリウムみたいに鳴った。これで光れば完璧と莫迦みたいなことを考えられる余裕がある。  だがまたゼミに顔出さなければいけないことを思い出し、気が重い。自分だけ変な目で見られるのは慣れているが、圭吾も一緒くたにされてしまうと精神的にきつかった。  「トーマ、起きて。朝だよ」  「ん……っ」  「トーマ?」  ゆったりとした動作で瞼を開けたトーマはまだ眠たいのかとろんとしている。  (圭吾の寝起きの顔に似ている)  圭吾は低血圧のせいか覚醒するまで時間がかかる。トーマも身体は圭吾だからそうなのだろうか。  呆けた顔にぐんと欲望が顔を出してしまう。  (ちょっとくらいいいよね)  くすみもない白い肌に触れると温かくて柔らかい。昔一緒に食べたマシュマロを思い出した。  火で炙ったらマシュマロが溶けて美味しくなるとテレビでやっていて、実家のガスコンロで同じことをしたら溶けたマシュマロがコンロに落ちてボヤ騒ぎになったことがある。  そのとき圭吾が「俺が無理やりやらせたんだ」と庇ってくれた。  二人して親に怒られて泣いたときもしっかりと手を握っていた。  あの小さな手はもうない。  「好き」  寝起きで掠れた声だったので聞こえてないだろう。それでも想いを口にできると身体の中心がぽかぽかしてやさしい気持ちになる。  まだぼんやりとした顔をしているトーマは焦点の合わない目のままだ。  「トーマ? 具合い悪い?」  「あれ、俺どうしてソファで寝てるんだ。いててて」  トーマが起き上がろうとするとバキバキと関節が鳴った。背が高い圭吾の身体ではソファは窮屈だったのかもしれない。  そうじゃなくていま「俺」って言った?  「もしかして圭吾?」  「なに言ってんの?」  眉間に皺を寄せた圭吾は目を眇めた。寝起きだから機嫌が悪い。いつもの圭吾だ。  (トーマはどこにいった?)  一日で入れ替わりが終了したのか。まだ目的である恋人を探してないのに?  でも目の前にいるのは間違いなく圭吾だ。長年一緒にいるからわかる。  「自分の部屋で寝てたはずなのに。夢遊病かな」  圭吾のなかでは自室で寝ていたはずなのに起きたらリビングに移動していることになっているらしい。それも当然だ。小柄な晃では圭吾を運ぶことなんてできない。  ましてや一日経っているなんて露ほど思わないだろう。  トーマという人格が乗り移っていたんだよ、と言ったら驚いてしまうだろう。そのまま心臓が止まってしまうかもしれない。  (寝起きにトーマの話は刺激が強すぎるもんね)  自分のなかで結論づけた。  「そういえば夜中ウロウロしてたよ」  「まじか。疲れてんのかな」  首を傾げる圭吾ににっこりと微笑みかけた。  「朝ごはん作るね。その間にシャワー浴びてきたら?」  「そうするわ」  肩をぐるぐると回しながら圭吾は寝室に向かった。  (トーマは大丈夫なのかな)  まるで夢でも見ていたかのようにトーマの存在だけがなくなってしまっている。  これではトーマという人格が乗り移っていたと言っても信じてもらえないだろう。  どうしたもんかと頭を抱えたくなった。  朝食を食べている間、ちらりと圭吾の顔を盗み見た。仏頂面で目玉焼きにフォークを刺し、半熟の黄身がこぼれないように皿を持って食べている。  普段通りだ。  トーマと入れ替わっていた自覚もないようだし、どうしよう。やはりトーマの話をした方がいいだろうか。  でも信じてもらえるか。頭がおかしくなってしまったと思われたら立ち直れない。  モヤモヤしていると朝食を食べ終えた圭吾は壁掛け時計を見上げた。  「そろそろ大学行く時間だな」  昨日のことを思い出して背中に冷や汗が伝う。トーマのせいで中間報告会は今日に持ち越された。でもそのことを圭吾は知らない。  「あーそうだね。でもまだ時間に余裕あるからゆっくりしようよ」  「じゃあおまえはあとから出ろよ。俺はパソコン室で最後にスライド確認したいから」  食器をシンクに片付けた圭吾は手早く出かける準備を始めた。  まずい。  一人で行かせるわけには行かない。かといって引き止める理由がなにも思いつかない。  「ぼ、僕も一緒に行くよ」  「おまえも最終確認か?」  「そんなところ」  具体的な解決策が見つからないまま大学へと向かった。少しでも時間を引き延ばそうと  歩くスピードを遅くしていると圭吾が不思議そうに振り返った。  「腹でも痛いのか?」  「そういうわけじゃないけど」  心配をかけてしまっている罪悪感から良心が痛む。圭吾は晃と視線を合わせるために腰を曲げた。  「報告書まとめてないのか?」  「それは完璧」  「じゃあなんだよ」  気の短い圭吾は眉間にぐっと皺を寄せて渋面をつくった。なにか引き延ばせそうな話題は、と当たりをキョロキョロする。  「そういえば昔カラスに襲われたことがあったよね」  フェンスの上にいるカラスを指さすと圭吾は大袈裟にびくりと肩を跳ねさせた。  小学生のとき、圭吾はカラスに頭を突かれたことがある。それ以来カラスは苦手だ。  青ざめた圭吾はさっと自分の後ろに隠れた。一九〇センチある身体を小さく丸めさせている。  「大丈夫だよ。走っていけば襲ってこない」  「わかんねぇだろ。アイツらはなにするか……っ!」  カラスが「かぁかぁ」と鳴くと肩を掴まれた。骨が軋むほどの痛みだがそれすらも可愛いと思ってしまうから末期だ。  「ほら、行こう」  圭吾の手を取って走り出すとカラスは驚いて青空の向こうへと飛んで行った。  「お……圭吾」  結局大学まで走ってしまい、予定より早く着いてしまった。  しかも校門でズボンと肌を指摘された二人とばったりと出くわしてしまい、最悪だ。  二人はじっと圭吾を見たあと、こそこそと耳打ちをしている。漂う空気が淀んでいくような気配があった。  「よ、報告書をまとめたか?」  圭吾が気安く声をかけると二人は揃って目を眇めた。  「よく気安く声なんてかけられるな」  「昨日のこと忘れたわけじゃねぇだろ」  「昨日?」  圭吾が疑問符を浮かべて首を傾げるが、二人は眉を吊り上げた。  「みんなの前であんな風に晒すことないだろ!」  「……なんのことだ?」  「憶えてないふりとか余計タチ悪いわ。行こうぜ」  二人はさっさと行ってしまい残された圭吾は呆然と立ち尽くしている。  圭吾は悪くない。悪いのはトーマを制御できなかった晃だ。  本人の知らぬ間に友人を傷つけるような言動をさせてしまった申し訳なさから顔があげられない。  (やっぱりちゃんと話すべきだった)  圭吾が寝ている間にトーマという王子様と入れ替わり、中間報告会をめちゃくちゃにしてしまったのだと説明するべきだった。  でもどういえばよかったんだ。うまい言葉が浮かばず、ぐるぐると回っていく。  小さくなってしまった背中は傷ついているのがわかる。友だちが多く、いつも輪の中心にいた圭吾にとって初めての仕打ちだ。  なんて声をかければいいのかわからず、オロオロしていると圭吾は笑った。  「あいつら急にどうしたんだろうな」  「……そうだね」  強がっているのが丸わかりな強張った笑顔に胸が張り裂けそうだ。  ゼミ室へ行くとすでにみんな集まっていた。昨日とは打って変わって、自分たちが部屋に入るとしんと静まる。  針のように鋭い視線を向けられ、圭吾が一瞬固まる。だがすぐ近くにいた男に声をかけた。  「久しぶり。卒論終わりそう?」  「……おまえのせいで遅れそうだよ」  「どういう意味?」  男にぷいと顔を背かれてしまい、圭吾の笑顔が引きつってしまっている。  トーマが報告会をめちゃくちゃにしてしまったので一日延びてしまった。卒論やアルバイト、就職活動で忙しいなか予定を狂わされたことにみんな腹を立てているのだろう。  教授が来て、昨日できなかったゼミ生たちが発表していく。隣の席の圭吾は机の隅をみつめたままじっと動かない。  普段は仲の良いメンバーと近くの席に座るのに今日は隣に来るのも不自然だ。  ぴしっと伸びた背中が心なしか曲がっているように見えてしまう。  最後の一人が発表を終えると教授はファイルに視線を落とした。  「じゃあこれで全員終わったかな」  「あの、俺まだやってないです」  手を挙げた圭吾に全員の視線が向けられる。  教授は眼鏡を押し上げた。  「五十嵐くんは昨日やったじゃない」  「え、昨日は一日寝てて」  「中世ヨーロッパの同性婚についてでしょ。大変興味深い発表だったね」  クスクスとゼミ生たちが笑っている。なにが起こっているのかわからない圭吾は耳を赤くさせて頷いてしまった。  (もうこれ以上、圭吾が恥ずかしい思いをさせるのは嫌だ)  荷物を適当に鞄に突っ込み、圭吾の腕を取って逃げるように研究室を飛び出した。  春休み中で閑散とした食堂にはちらほらと学生や教授がいるだけだ。席の間隔を離せば内緒話をしても聞き耳をたてられることはないだろう。  向いに座った圭吾はなにが起こったのかわからないと言った様子で困惑顔を浮かべている。  「あのね……入れ替わりって信じる?」  「は?」  「実は、圭吾と王子様が入れ替わってて  」  昨日の出来事を最初から丁寧に説明した。  起きたらフロント国の第三王子トーマになっていたこと。  単位のために大学に行ったら酷い発言で友人たちを貶したこと。  そのせいで中間報告会が今日まで伸びてしまったこと。  最後まで聞いた圭吾は目を見開いた。  「ということはいま一日経ってるのか」  「そうだよ」  携帯の画面を見せる。二月十五日と表示されているのを見て、驚いたように仰け反った。  朝はバタバタしていたので携帯を確認する余裕がなかったのだ。  「てことは……あれは成功してたのか?」  「圭吾?」  「なんでもない。でもわかった」  「信じてくれるの?」  じっと圭吾の瞳を見返した。左右に揺れていた瞳の焦点が合うと圭吾は肩を落とした。  「信じられないけど納得はした。おまえは嘘を吐くような奴じゃないからな」  「よかった、信じてくれて」  証拠を出せと言われたら困るところだった。自分でもまだ信じられない話を真実だというのはなかなか骨が折れる。  「……それなら朝起きたときに言って欲しかった」  「ごめん……圭吾に嫌な思いをさせたくなかったんだよ」  でも本当のことを言わなかったせいで圭吾を余計に傷つけてしまった。  どうして大事にしたいと囲っていても傷つけてしまうのだろう。  非力な自分が悔しい。  「とりあえず出席して発表もしたなら単位はもらえるだろ」  「でも友だちが……」  二人の顔が浮かんだ。確かサークルが一緒で一年のときから圭吾と仲良くしていた二人組だ。よく飲みにも行っていた。  せっかく築き上げていた友情を自分の力不足のせいで壊してしまったのだ。  顔を伏せるとぽんと頭を撫でてくれた。  「どうせもうすぐ卒業するから関係ねぇよ。こんなことで縁が切れるならそれまでだろ」  「でも」  「もういいよ。気にすんな」  「……ごめん」  やさしい笑顔の圭吾を見て、泣きたくなった。  小学生のときから上位カーストに君臨している圭吾を自分と同じところに引きずり落としてしまった無念が胸を突きさす。  『あいつ、ゲイらしいよ』  女だったか男だったかもう思い出せない声が頭のなかで響く。いつの間にか自分はゲイだとレッテルを貼られ、小学校、中学高校、大学にいっても後ろ指をさされることが多かった。  だからいつも集団の枠の外にはみ出していた。  でもそんな外れものの晃のそばに寄り添ってくれていたのが圭吾だ。  周りからなんと言われても圭吾の態度は小さいときから変わらず、それが前を向ける勇気をくれた。  圭吾がいたからいまの自分がある。  だから圭吾のことを全力で支えると決めていた。  「ま、俺がここにいるんだしもう大丈夫だろ。映画とかだと最後の方に戻ったりするし」  「そうだね」  なんとなく腑に落ちなかった。恋人を探して欲しいというトーマの願いを叶えてあげられていない。  それこそ映画だと願いを叶えて元の人格も戻りハッピーエンドな気がする。  でもそんな疑問は臆面も出さずに笑顔を向けた。  「そうだね。圭吾が戻ってきてくれてよかった」  それからうどんを食べて、帰路についた。  トーマなんて人はいなかったといつか笑い話になることを願いながら眠った。  ***  夢だ、と瞬時に悟った。  目の前を通り過ぎる人たちの服装が異国情緒に現れ、髪も金髪や茶髪、赤い髪が多い。  どうやら晃は誰かの額に目があるようだ。自分の手足はなく、ただ感覚だけが男と共有しているのがわかる。顔も見えないのになぜか晃は男の視点になっていると確信があった。  晃の視点になっている男は店を出しているらしい。布テントの下で椅子に座りながら通り過ぎる人並みをぼんやりと眺めている。  店先に並んでいるのは木彫りのオブジェだ。うさぎやリス、猫、犬と動物から雪の結晶や家などが手のひらサイズからティッシュ箱の大きさまで置かれている。  触るのも怖いくらい繊細で美しい。眺めているだけでも心が癒されるのに、誰も店の前を立ち止まらない。ちらりと見る人はいるが足早に通り過ぎて行ってしまう。  ヤスリで丁寧に削ったのだろう。青空の光を反射するように艶を帯びた木製の小物たちが残念そうに肩を落としているように見えた。  『これはなんだね?』  突然声をかけられて驚いた。ローブを目深に被った男は口元を隠し、目しか見えない。  この空のように澄んだ青さには憶えがあった。でもどこで見ただろうか。  霧に囲まれた記憶は手探りでは探し出せない。  『こちらは月見草です』  『月見草?』  『はい』  青い瞳の男はぱっと表情が変わった。口元が隠れていても笑っているのがわかる。その顔を見て晃の心にも花が咲いたような温かな気が流れてきた。  『これをいただこう』  『ありがとうございます』  代金を受け取り、品物が割れないように丁寧に紙に包んだ。少しでも時間を引き延ばそうとしているのか、男の動作がやけにゆったりとしているのが気になる。  『ここにいつも店を出しているのか?』  『週に一、二回程度です』  『そなたとまた会うにはどうすればいい?』  内緒話をするように耳元に寄せられた声に男と連動している晃の心臓が跳ねた。  意味深な瞳にぱっと頬が熱くなる。  『南の……工房にいます』  『わかった。会いに行くよ』  品物を渡すとき青い瞳の男の手に触れた。そして一陣風が吹き、目を閉じている間に男の姿は影も形もなくなっていた。  まるで春を告げる嵐のようだ。さっと吹くと草木や動物たちが動き出すように自分の心臓も強く拍動していた。  僅かに触れた手のひらもじわじわと温かかった。

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