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第3話
目が覚めると頭がぼんやりと靄がかり、しゃんとするまで時間がかかった。
とても長い夢を見たような気がするのに内容までは憶えていない。
どうやら泣いていたようで肌に残る雫はすでにひんやりとしていた。
「悲しい夢でも見たのかな」
雪に埋まったまま息吹くことがない球根のように未来に希望を見いだせないような後味の悪さが残る。
起き上がる気力もおきず、まだ暗い窓の外を見た。
二月半ばでもまだ冬の気配が濃く、日の出前の空は青紫色をしている。
しばらくぼんやりしていると携帯の着信が鳴った。画面を見て無視したくなる衝動をぐっと堪えた。
「もしもし、姉ちゃん?」
『おはよう。ダーリン』
語尾にハートマークがつくほど甘い声に苦笑いを浮かべた。
「おはよう。その声は葵だね」
『さすが未来の旦那様はよくわかってる』
「こんな朝早くからどうしたの?」
『この前のこと憶えてる?』
(この前? なんだっけ?)
思い当たる節がなく冷や汗が背中を伝う。ここで返答を間違えたら癇癪を起こし、「保育園に行かない!」と暴れるのが目に見えた。
葵は茜に似て気性が荒い。飢餓状態の動物のような神経質さがあるので、言動には人一倍きをつけなければならない。
記憶の糸を辿っているとピコンと頭上の電球が光る。
「もちろん憶えてるよ。プロポーズのことでしょ」
『よかった。憶えてなかったら保育園休んで、家に突撃しようかと思った』
危ない、危ない。完全に忘れていた。
ただの姪っ子と叔父の戯れの一環だったが、葵はとても大切にしてくれているようだった。
好かれているのは単純に嬉しい。だが年齢は二十近く離れているし、なにより圭吾以外を愛するつもりもない。
罪悪感はあるが、茜は「子どもだからすぐに飽きるよ」と励ましてくれた。
『今日も言って欲しいなと思って』
可愛らしい声音にきゅんとしてしまった。三歳でも侮れない。甘え方がもう上級者だ。
「好きだよ。結婚しようね」
『うっふふふふふ』
不気味な笑い声だったが悦んでもらえてよかった。
だが被せるように「なにやってんのよ!」と茜の怒声が聞こえ、がさがさと耳障りな音がする。葵がなにか言っているようだったがわからなかった。
『ごめんね、晃。忙しい時間に』
「大丈夫だよ。姉さんも大変だね」
『この子、どうしてすぐパスワード突破できるのかしら。また変えなきゃ』
疲労の色を滲ませる姉の声に同情した。茜も出社の時間が迫っているだろうにドタバタとしている姿が目に浮かぶ。
『じゃあまたね!』
こちらが返事をするより先に通話を切られてしまった。
このあと葵を保育園に預けて仕事に向かうのだろう。大変だなと茜に同情した。
葵たちと話したお陰で少し気持ちは浮上したが、すぐに下降し始めてしまう。こういうときは布団に潜っていたら余計なことを考えてしまって、ダメになる。
すぐにベッドから起き上がりキッチンに顔を出すと圭吾の後ろ姿があった。珍しく早起きをして、朝食でも作ってくれているのだろうか。
大きな背中に縋りつきそうになりぐっと唇を噛みしめた。
「圭吾」
嫌な夢の余韻がまだ残っている。この不安を打ち消すように愛しい人の名前を呼んだ。
柔らかいテノールで自分の名前を呼んで欲しい。寝起きの不機嫌な顔で「おはよ」と言われたい。
それだけでこの靄は吹き飛んでくれる。
だが希望はすぐに砕かれた。
「おぉ、晃。一日ぶりだな」
「……トーマ」
また入れ替わっていることの絶望感が加わり、その場にへたり込んでしまった。
「どうした? 具合いでも悪いのか?」
「またトーマなんだね」
「そうみたいだな。まったく困ったことだ」
言葉とは裏腹なトーマは満面の笑みを浮かべ、またシンクの方へとくるりと向いた。
「さっきからなにやってるの?」
「焦げがついたまま放置したのだろう。なかなか取れなくて苦労したぞ」
トレーナーの裾を泡だらけにしたトーマの手元を覗くと圭吾がくれたフライパンをあろうことかたわして擦っていた。
力任せに擦っていたらしく、引っ掻き傷のような細い線が表面にいくつもある。
「ほれ、だいぶきれいになっただろ」
「ふざけるな!!」
自分の頭頂部でマグマが噴火したような怒りに視界が真っ赤に染まる。
圭吾への想いと同じように大切に使ってきたフライパンを圭吾本人の手で傷つけられた。もうこれではきれいな目玉焼きを作ってやれない。
涙が溢れてきて止まる術を忘れたように頰を伝って床に落ちていく。
どうして不安なときに圭吾はいない。
どうして自分の大切なものを汚していくんだ。
どうして、どうして、どうして。
ーー圭吾の顔で残酷な仕打ちを受けなきゃいけないんだ
「なんでお前なんだよ。圭吾を返せよ……返せよ!!」
怒鳴っても仕方がない。それでもこの気持ちをどう消化すればいいのかわからなかった。
嗚咽を漏らしながらみっともなく泣いた。加減をしらない子どものように乱暴に目を拭うと瞼がヒリヒリする。
強く擦るなよ、とまだあどけない圭吾の声が鼓膜の内側で響く。
小学三年生のとき、圭吾とつまらないことで言い合いになった。なにが原因だったのか思い出せないくらい些細なことだったと思う。
いつも一緒に帰っていたのにその日は圭吾に置いていかれた。
なにも言われず先に行かれたことに腹が立ち、走っておいかけると圭吾はクラスメイトたちと楽しそうに歩いていた。
(喧嘩しているのにどうして笑えるんだよ)
悲しくて辛くて突き動かされるまま圭吾たちの前に回った。
『圭吾の莫迦!』
負け犬のような台詞を残して家へと帰った。いつも当たり前にいた圭吾の不在を強く残した一人きりの影が物悲しく地面に伸びている。
目が腫れるほど泣いて部屋に引きこもっていると圭吾がやって来た。
『ごめん』
ただその一言だけだった。でも意地っ張りな圭吾が謝るのなんて初めてのことで驚いてしまい涙が引っ込んでしまった。
『なんだよ』
『圭吾から謝るなんて思わなかったから』
『……おまえに泣かれるとつれぇんだよ』
そうやってぶっきらぼうに鼻を掻いた圭吾の耳が赤かったのは夕日だけのせいではないだろう。
涙が溢れる目を擦っていると『強く擦ると目が痛くなるぞ』と腕を掴まれた。
そしてじろりと睨まれて眉間に皺を寄せた圭吾は口を閉ざしてしまった。次はおまえだろ、と目が語っている。
『僕もごめん』
『これでもう仲直りな』
『うん』
謝ると前よりも絆が強くなった気がする。傷ついても修復すればいい。そうすれば前よりももっと強くて太い絆で結ばれるのだと圭吾と共に乗り越えてきた。
けれどいま目の前にいるはトーマだ。
フライパンを傷つけ傍若無人な振る舞いで圭吾の友人関係に亀裂を入れた張本人。
圭吾との関係を引っ搔き回しているのは圭吾の皮を被った別人だ。どうやって修復すればいいんだ。
フライパンの傷のようにすべて元には戻れない。絆なんて強くなれようがない。
居たたまれなくなり外に飛び出した。朝日が昇り、空は黄金色に輝いている。
とにかくトーマと距離を取りたかった。川沿いまで来ると息が上がり、耳殻が冷たさで鈍く痛みだし足を止めた。
犬の散歩をしている人にジロジロと見られ、パジャマのまま出てきてしまったことに気づいた。コートも着てこなかったし変人に見えるだろう。
それでもトーマがいる家に帰りたくない。
冷たい風が耳ごと持っていかれそうなほど強く吹く。身体の芯まで氷漬けされたように冷え切っていて、歩くのも辛くなってきた。
少し歩いて公園のベンチに座った。運よく誰もいない。
サンダルを引っかけただけの爪先はかじかんで赤くなっている。
指先を動かそうにも固まってしまい、びくともしない。
それでも絶対に帰ってやるもんかと気合いだけがメラメラと燃えている。
いまはトーマに会いたくない。
なにがきっかけでこんな非現実的なことが起きてしまったのだろう。答えがでるわけではないのに、どうしてと疑問符を止められない。
ただでさえ圭吾が卒業後、家を出ていくと言われ入れ替わりどころではないのだ。一緒にいられる時間が刻一刻と減っているのにトーマのせいで余計に少ない。
でもだからといってトーマを蔑ろにしていい理由にはならないはずだ。トーマと圭吾が入れ替わったのには理由があるのかもしれない。このまま時間を浪費しても意味がないことくらいわかっている。
また強い風が吹き、闘志の炎を消してくれる。
身体が冷えると怒りで沸騰した思考も落ち着いてきた。
そうすると後悔が顔を出してくる。
トーマなりにフライパンを焦げさせてしまったことを悪いと思っていたのだろう。それをあんな風に突っぱねてしまって、傷つけてしまった。
そのことはきちんと謝らなくちゃいけない。
「こんなところにいたのか」
「……トーマ」
「随分探したぞ」
トーマも見慣れたスウェット姿のままなのに、その手には晃のダッフルコートをしっかりと持ってくれていた。
「そのままでは風邪を引くぞ」
コートをかけてもらうと少し暖かい。強張った心を解してくれるような温もりにまた涙がこみあげてきそうになる。
「すまない」
「どうしてトーマが謝るの」
「この世界に来ていろいろと不安だったんだ。見るもの聞くのもすべて初めてのものだしな。でも晃がそばにいてくれた。わからないことを訊くと教えてくれた。それに安心していたのだ」
首を垂れるトーマの表情は見えない。肩を丸くさせ、彼なりに落ち込んでいるのが雰囲気でわかる。
傍若無人の王子様だったのはトーマなりに不安を隠そうとしているとわかっていたのに傷つけてしまった。
そのやさしさに甘えていたのは晃だ。
「僕のほうこそごめん。フライパンのこと気にしてくれたんだね」
「とても大切にしているようだったから」
「うん。とても大切。僕の宝物」
「そうか」
顔をあげたトーマはほっとしたように目尻を下げた。同じ顔なのにトーマと圭吾では笑い方が違う。こんな風にやさしく微笑まれることがなかったから、少しどきりとしてしまった。
トーマがくしゃみをしたので家に帰ることにした。
「焦げたフライパンはこうするんだ」
フライパンに重曹と水を入れ、沸騰させてから火を止めて鍋敷きの上に置いた。
「こうするときれいになるんだ」
「その粉はなんだ」
「重曹といって炭酸水素ナトリウムという化学薬品だよ」
「よくわからんが魔法の粉だな」
「そうだね」
無邪気に笑ってくれるトーマにふわりと心が軽くなる。
圭吾と喧嘩して仲直りしたときと似ている。絆が強くなっているのだろう。
いままで圭吾以外の友人なんていなかったから、トーマが二番目の友人ともいえる。(容姿は圭吾だけど)
一仕事終えてうんと背伸びした。
「僕も休みだし、どこか出かけようか」
「いいのか」
「だって恋人探したいんでしょ」
「感謝する」
跪いてお辞儀をするトーマは本当の王子様然としていて、あまりに様になる仕草に呆けてしまった。
どこに行きたいかとネットで検索しているとトーマは水族館、動物園、遊園地の三個で悩み、どうせなら全部行くことにした。
「これはなんだ」
「ICカード。見てて」
改札口にカードをかざすとピっと軽快な音をたててゲートが開いた。
「こうやってやるんだよ」
「わかった」
トーマはおっかなびっくりと改札口を潜り、ハイタッチをした。
電車に乗っているときもトーマは落ち着かない様子で周りをキョロキョロしている。
「とても速い乗り物だな!」
「フロント国の移動手段はなに?」
「馬車か徒歩だな」
「でも雪国なんでしょ? 寒くないの?」
「熊やウサギの毛皮を着れば暖かい」
物騒な単語に隣に座っていた若い女性に二度見されたが気にしないことにした。
上野駅で降りると家族連れやカップルが多い。春休みなのも手伝って同世代が目立つ。
像やきりんなどが描かれたアーチが見えてくると動物園特有の匂いがしてきた。
土や草の香りに混じって動物たちの排泄物の匂いもする。お世辞にもいい匂いとは言えないが、トーマは顔を輝かせた。
「獣の匂いだ」
「動物園の匂いって苦手だったけど、たまにはいいね」
「とても久しぶりだ」
ゲートを見つめるトーマの横顔はなぜか悲しそうに見えた。どうして久しぶりなのだろうと訊くのは野暮なような気がしてぐっと言葉を飲み込んだ。
「早く行こう。シリウスさん、探すんでしょ」
「そうだな」
アフリカ像やゴリラ、トラなどを順番に見て回った。どの動物もフロント国にはいないらしくトーマは食い入るように見ている。
「なに見てるの?」
ハシビロコウの大きさに驚いているとトーマは檻ではなく、隣のカップルを見つめていた。
仲睦まじい様子にシリウスを重ねているのかもしれない。きっと二人で過ごせる時間をとても大切にしていたのだろう。
「動物ばっかり見てないでシリウスさんも探さないとね」
晃が声をかけると「そうだな」とトーマは嬉しそうに笑った。
「でももしトーマと同じように誰かの意識と入れ替わってたら見た目が違うからわからないよね」
「確かにそうだな。でも見た目が似ている人かもしれない。片っ端から声をかけよう!」
「ちょっと!」
トーマは勇んで行ってしまい、本当に次から次へと声をかけた。しかも「シリウスか?」なんて訊かれて、あまり日本人らしくない名前にみんな困ってしまっている。
「すいません、すいません」
トーマを引き剥がしているうちに時間は過ぎてしまった。
昼ごはんを食べて、今度は水族館へと移動した。
トーマは暗い室内のなかに浮かび上がるように展示されている魚に終始驚いている。特にクラゲに衝撃を受けたらしく、お土産コーナーでぬいぐるみを買わされた。
だが水族館を出るとすっかり夜が更けていた。もう遊園地には行けそうにもない。
「ごめん、時間かかっちゃったね。遊園地は厳しいかな」
「あれはなんだ」
トーマが指さした先には観覧車がある。ダイヤや花の形にライトアップされ、幻想的な世界をつくっている。
「観覧車だよ。ゴンドラに乗って空高くのぼるんだ」
「乗ってみたい!」
目を宝石のように輝かせるので「仕方がないな」と言いながら観覧車の方に向かった。
トーマは動くゴンドラに合わせて乗るのが難しかったらしく、一個逃してしまった。だが混んでいなかったこともあり、スタッフから「ゆっくりで大丈夫ですよ」と声をかけてもらえた。
やっと席に座るとゴンドラが激しく揺れるのでトーマがさっと顔を青ざめた。
「こんな簡単に揺れるのか」
「そうだよ。だから暴れないでね」
「わかった」
ゴンドラが上がるにつれ、ビルや車が小さくなっていく。テールランプのついた車が渋滞をつくり、まるで一つの生き物のようにうねうねと蛇行している。
「あの赤いのが東京タワーだよ」
「そ、そうか」
「どうしたの?」
あんなに楽しみにしていたのにトーマは窓の外を見ようともしない。ぴしっと背筋を伸ばしたまま天井を見つめている。その膝の上に置かれたこぶしが小刻みに震えていた。
「もしかして怖い?」
「こんな高い場所、いままで来たことがなかったからな」
「そっか。ごめん、気づかなくて」
「構わん。私が乗りたいと言ったのだ。いい経験になる」
「でも」
暗がりでもトーマの顔が青ざめているのが分かる。早く降ろしてあげたいが一周回るのに十分ほどかかる。まだ頂上すら着いていない。
「手を握ってもいいか」
「え」
それはつまり圭吾と手を繋ぐという意味になる。圭吾の意識がないのに身体に触れることには抵抗があった。
でも怖がっているトーマをこのままにしておくのも可哀想だ。
「早く」
「……わかったよ」
恐る恐る手を握ると思ったよりも強い力で握り返された。大きくて温かい手。圭吾の手に触れたのはいつ以来だろう。
小学校低学年のときはよく手を繋いで帰っていた気がする。でも中学、高校と大人になるにつれ恋人でもないのに手を繋ぐ機会はなかった。
この温もりはもう二度と味わえないだろう。皮膚の厚さや温もりを堪能しているとトーマが鼻で笑った。
「晃は本当に圭吾が好きなんだな」
「そうだよ」
「想いを伝えないのか」
「……いまのままで充分幸せだよ」
友だちというカテゴリーに分類されればずっとそばにいられる。
触れたり、抱き合ったり恋人のようなことはできないが、色褪せない「友人」というフレームは形を変えない不変的なもので、理想の形である。
圭吾のそばにいられるだけで幸せだ。
(でも家を出て行くって……)
それは友人関係もやめたいという表れなのだろうか。
それとも恋人ができて一緒に住みたいのだろうか。
ぐるぐると答えの見えない迷宮に陥っているとぎゅっと強く握られた。
「生きているうちに想いを伝えはほうがいい」
「急に物騒だな」
「みたところ、この世界には戦争や貧困はなさそうだが、でも人は突然死ぬのが世の理だ」
重みのある言葉はずしりと肩にのりかかる。そうだ、いまだって圭吾の意識はないのだ。会えないのも同然。明日になったら元に戻る補償はどこにもない。
このまま永遠の別れがきたら自分はどうなってしまうのだろうか。
「トーマの世界には戦争があったの?」
「あった。フロント国は雪国で作物が育たないからな。生きるのにみんな必死だった」
「……そうなんだ」
「だからこそ一日一日を大切に生きようと決めた。そう思わせてくれたのがシリウスだ」
恋人の名前を口にするトーマの表情はとびきり甘くなる。心から愛しているのが伝わってきて、なぜだか晃まで嬉しくなってしまう。
「シリウスさんのどこが好きなの?」
「全部だな」
臆面もなくトーマは言い切った。
「やさしくて気立てがよくて、内気なところはあるが頑固者だな。一度決めたことは曲げない根性を持っている。そういう一本気なところもいい」
シリウスを語るトーマの表情がみるみる明るくなっていく。
「シリウスは木工職人なんだ。彼の作る工芸品は見事なもので、国に指定されているほどだ」
「貴族ではないの?」
「平民だな」
「やっぱり」
トーマとシリウスには越えられない身分差があるのではないか。第三王子とは言っても国の代表のトーマが平民の、ましてや男と恋人がいるなんて許されないだろう。
晃の表情から察したのかトーマは困ったように笑った。
「許されない恋だった。それでも私にはシリウスしかいなかったんだよ」
「大好きなんだね」
「どんなことを犠牲にしても最期まで愛したかった」
愛したかった、という言葉が引っかかる。なぜ過去形になってしまうのだ。
(もしかして別れさせられてしまったのだろうか)
口を開くより先にトーマが「あっ」と声を上げた。
「ここが頂上か」
「そうだよ。きれいだね」
さっきよりも景色が遠くまで見渡せる。海側はまっくらなのに足元はビルや車の光でキラキラと輝いていた。その極端な風景が天国と地獄を表しているようでぞっと背骨が震える。
だが晃の恐怖に気づいていないトーマは穏やかな笑みをたたえていた。
「この景色をシリウスにも見せてやりたかったな」
その声が鋭く胸に刺さった。
家に帰るとトーマは眠さが限界だったらしい。首が船を漕ぎ始めているのに頑なにベッドに行こうとはせず、袖を引っ張られた。
「寝ないの?」
「もう少し、晃と話したい」
子どもっぽい甘えた声につい顔が綻んでしまう。トーマに慕われるのは素直に嬉しい。
けれど圭吾の意識はいまこの瞬間どうなっているのだろうという心配もあり手放しで悦べない。
でも一つわかったことがある。
初めてトーマと会ったときも、今日も圭吾の意識といきなり交代する素振りはなかった。
それに昨日今日の変化と言えば寝たことだ。
寝ることでお互いの意識が変わるのかもしれない。
トーマが寝てくれれば明日圭吾と会えるかもしれないと淡い期待が燻る。一刻も早く寝かせたいところだが、寂しそうな姿を見せられると心が痛む。
恋人を見つけられず、悲しんでいるのだろう。その気持ちは痛いほどわかるから放っておけない。
「わかった。とりあえずベッドに横になろう。そばにいるから」
「ありがとう」
トーマをベッドに寝かせて床に座ると布団をめくられた。
「ここに入れ」
「それはちょっと」
「寒いのだ」
「暖房つけようか?」
「いいから」
腕を引っ張られ布団に無理やり入れさせられた。スプリングが文句を言うようにぎしりと鳴る。
シングルベッドに男二人が入るのは窮屈だ。なにより圭吾の身体は平均より大きい。
自分が入れるスペースなんてないも同然だが、壁際でじっとしているとトーマに抱きしめられた。ふわりと香る圭吾の匂いに頭がクラクラする。
耳朶を擽る熱い吐息に心臓が早鐘を打ち始めた。これはトーマであって圭吾ではないのだと何度言い聞かせても、匂いも身体も声もすべてが圭吾だから意識しないなんて無理だ。
触れ合った箇所からどんどん体温が上がっていき、バターみたいに溶けてしまう。
だがこっちの心情など構わず、トーマは目をとろんとさせて微睡んでいた。
「晃はシリウスに似ているな」
「どのへんが?」
「やさしいところ」
「やさしくないよ」
「やさしい。初めて会ったときからずっと」
トーマは甘えるようにぐりぐりと額を押しつけてきた。柔らかな毛先が首筋に当たる。
「ふふっ。くすぐったい」
「ほれほれほれ」
やめてよと髪をくしゃりと撫でると圭吾のシャンプーの香りにはっとする。
「どうした?」
「……いまごろ圭吾はどうしてるのかな」
「私と同じだったら暗い闇のなかにいるかもしれん」
「闇……」
なんておぞましい響きなのだろう。さっき観覧車で見た真っ暗な海を思い出した。光も届かない暗闇に一人取り残された圭吾のことを思うと胸が痛む。
「まぁ私の場合は特別かもしれん。圭吾はただ眠っているだけの可能性もある」
「そうだといいけど」
圭吾の意識がただ眠っているだけならそれでいい。怖い思いなんてして欲しくない。
頭上で微かな笑い声が降ってきた。
「そんな風に心配してると知ったら圭吾が悦ぶぞ」
「うざったいと思われるだけだよ」
圭吾は昔からなんでもできた。勉強もスポーツもずっと一番をキープしている。
真新しいものを見つけるたびに挑戦する度胸もあった。その分、晃は同じくらいヒヤヒヤさせられていた。
でも下手に心配すると「うざっ」と言われるので口には出さないようにしている。
「格好つけたいんだ」
「圭吾はカッコいいよ」
「もっと格好つけたいのだ」
「よくわからないな」
「圭吾の気持ち、なんとなくわかるぞ」
トーマと目が合っているはずなのにどこか遠くに想いを馳せているようだった。シリウスのことを思い出しているのだろう。
その表情がとてもやさしい慈愛のあるもので、圭吾の顔で違う人のことを想っていることが悲しい。
(こんなの友だち失格だ)
圭吾に恋人ができても一番の親友でいると決めた。いつか友人代表として結婚式でスピーチするという野望だってある。
けれどトーマを通して実際目の当たりにしてしまうと、心が墨を落とした半紙のようにじわじわと黒く染められてしまう。
「私は乗馬が苦手でね。でもどうしても格好いいところ見せようとシリウスを乗せたことがある」
「さすが王子様」
「でも馬をうまく扱えなくてシリウスを落馬させてしまった。怪我はなかったが、あのとき心臓が縮みあがったよ」
そのときを思い出しているのかトーマの顔が険しくなる。まるで自分が怪我したような表情に、そっと頰を撫でた。
「きっとシリウスさんは嬉しかったと思うよ」
「……同じことを言ってくれるのだな」
「わざと落馬させたわけじゃないことくらい恋人ならわかるでしょ」
「そうだな」
「トーマと同じ景色を見られて幸せだったと思うよ」
観覧車から見えた夜景をシリウスにも見せたいと言っていた。その願いを叶えるのは難しい。けれどトーマはシリウスといたときからずっと一緒のものを見てきたのだ。
言葉の節々に愛が滲んでいる。これだけ愛されてシリウスはどれほど幸せだったか。
「だと……いい、な」
トーマはゆっくりと瞼を閉じるとすぐに寝息が聞こえてきた。規則的な寝息を聞いているとほっとする。
シリウスの夢でも見ているのだろうか。その顔が穏やかで愛おしい。
トーマの手を握り、晃も釣られるように目を瞑った。
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