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第4話
目を覚ます寸前の微睡みのなかにいる時間が好きだ。起きなきゃいけないとわかっているけど、この眠気をまだ味わっていたい。
布団の温かさを手放すのが惜しく、ぐいっと引っ張ると引っ張り返されてしまう。
瞼を開けると世界一大好きな人の寝顔があり、驚いてベッドから落ちてしまった。
どしんという音に反応してトーマが起き上がる。
「……トーマ?」
名前を呼ぶと眉間の皺を深くさせた。
「また入れ替わってたんだな」
「圭吾……」
圭吾は下唇を突き出して不満そうに鼻を鳴らした。寝起きのせいでいつもより機嫌が悪い。
「はぁ〜もうどうなってんだよ」
寝転がったまま腕を伸ばした圭吾はベッドサイドにぶつかり「いってぇな、もう!」とさらに苛立っていた。
そんな短気な姿を見て、圭吾が帰ってきたのだとほろりとしてしまう。
「でも寝たら入れ替わるってことがわかったね」
「確かにそうかもしれないな。俺は意識ないからよくわからねぇけど」
「圭吾の感覚的にはどうなってるの?」
「普通。寝て起きたら一日経ってる」
「そっか」
トーマと違って暗い闇のなかに閉じ込められているわけではないらしい。そのことに安堵の溜息がこぼれた。
「てかこれどういう状況?」
圭吾の隣を指さされ、かぁと頭に熱がのぼる。
「こ、これはトーマが寒いっていうから」
「暖房つければいいだろ」
「そうなんだけど」
恋人探しが難航しているせいで寂しいトーマを置いていくことなんてできない。
手がかりもなにもない状況で探すのも限界がある。
でもそんな事情があったことなど圭吾は知らない。だから晃が勝手にベッドに入ったと思って怒っているのだろう。
「ごめん……圭吾の許可なく勝手にベッド使って。嫌だよね」
「そうじゃねぇよ」
はぁと盛大に溜息を吐いた圭吾は乱暴に前髪をかきあげた。
どうにも不満らしい。
やっぱり許可なく圭吾のものには触らない方がいいのだと肝に銘じた。
「昨日……てか俺にとったら今日なんだけどなにしたの?」
「動物園と水族館に行って、観覧車に乗ったよ」
トーマと回ったところを説明すると圭吾の顔がどんどん険しくなる。
サイドテーブルに置いてあるクラゲのぬいぐるみを指さすと「うわぁ」と声を漏らした。
モノクロを基調とした圭吾のインテリアのなかではショッキングピンクのクラゲの存在感は強い。
話し終わるころには梅干しのように顔の中心に皺が寄っていた。
「あいつ……」
「お金は全部僕が払ったから大丈夫だよ。あ、でもICカード勝手に借りちゃったから交通費は払ってないや。あとで清算するね」
「いい。そんなものは」
「でも」
「いいから!」
「……ごめんね」
謝罪を口にするが圭吾は無言のままだ。
(こんな勝手なことされたら怒るよね)
圭吾からしてみれば全部が寝耳に水な状態だ。それなのに晃だけが楽しんでいたように聞こえたかもしれない。
クラゲのぬいぐるみが所在なさそうにテーブルに鎮座している。
圭吾の顔のトーマは終始嬉しそうにしていた。だからつい圭吾も楽しんでくれる、と錯覚してしまっていたのだ。
圭吾とトーマは別人であるというのに。
「とりあえずご飯作るね」
慌ててキッチンに行くと重曹につけ置きしたままのフライパンがシンクの上にあった。帰ってからやるつもりだったが、昨日はトーマに誘われるまま寝てしまったことを思い出す。
中の水を流しスポンジでやさしく擦ると以前のようにピカピカに戻った。でも目を凝らすと細かな傷がある。
手で持って角度を変えながら見ると思っていたより傷は浅いかもしれない。
また油ならしをして使えば問題ないだろう。
「それ焦げつかせたんだ」
「あ、これはトーマが」
トーマの名前を出すと圭吾の片眉が跳ねた。トーマのことを毛嫌いしているらしい。
(それもそうだよな)
自分の身体で勝手に外に出て、部屋には趣味じゃないクラゲのぬいぐるみがあったら面白くない。
圭吾とトーマは直接話すことはできない。
だからこそ二人を知っている自分が間を取り持てばいいのではないか。
トーマのことを知れば圭吾の怒りも鎮まるかもしれない。
「トーマってね、やさしいところもあるんだよ。朝食を作ってくれようとしたんだけど焦げつけさせちゃって……お詫びに洗ってくれたんだ」
「だからこんなに傷ついてんのか」
「つけ置きするのを知らなかったみたいで」
「そのフライパン大切にしてくれてると思ったのに」
「大切にしてるよ」
「他人に触らせてるんだろ。おまえにとってその程度なんだな」
「その程度って」
宝物といっても過言ではないくらい大切にしている。だって圭吾がくれたものだから。圭吾からくれたものなら石ころだって価値のあるものになる。
そう言いたいのに喉につっかえて言葉がでない。
友だちとしての範疇を越えないだろうかと理性が働き、なにも言えなくなってしまう。
俯くと圭吾の気配がなくなり、シャワーの音がした。いつも通りに朝シャンをしているのだろう。
なら自分もいつも通り朝食を用意してあげよう。圭吾が好きな半熟の目玉焼きを作れば機嫌を直してくれるかもしれない。
(でもそこまで怒ることかな)
故意にフライパンを傷つけたわけではない。もっとちゃんと説明すべきだったのか。でもあれ以上なんと言えばいいのだろう。
圭吾が怒る理由がどうしてもわからなかった。
「出かけるぞ」と声をかけられて、洗濯物を干す手を止めて振り返った。
「買い出し?」
「水族館と動物園と……観覧車だっけか。全部行く」
どうして、なんて言わなかった。圭吾と出かけられるというだけで、さっきまで陰鬱だった気持ちが雨上がりのように晴れやかになる。
「ちょっと待ってて。洗濯物干してから準備する」
「早くしろよ」
「うん!」
パタパタと慌てて準備をしている間、圭吾はリビングのソファに座り携帯を弄っていた。
「お待たせ。行こう!」
「おまえ、髪ボサボサじゃん」
「別にいいよ」
どこにも出かける予定がなかったのでくしすら通していない髪は寝癖だらけだ。
跳ねた毛先をつんと突つかれた。
「直してやる。こいよ」
「え、でも」
「いいから」
無理やり洗面所に連れて行かれスプレーで髪を濡らされた。ドライヤーをあてられながら手櫛で髪を整えてもらうと心なしかいつもより艶を帯びているような気がする。
ヘアセットをしてもらう間、鏡に映る圭吾の顔を見ていた。仏頂面で不機嫌そうなのに目元が少しだけ赤い。
圭吾なりの贖罪なのだ。長い付き合いなのでわかる。
後悔するなら言わなきゃいいのにということでも圭吾は我慢できずに口にして問題を起こすことも多かった。
でもあとになって後悔して、謝る代わりにこうやって手を尽くしてくれるのを知っているからどうしたって好きが加算されるのだ。
動物園は昨日と同様にカップルや家族連れだらけだ。
このなかに二日連続来る人はどれくらいいるのだろうか。
昨日も来たはずなのに隣に圭吾がいるというだけで新鮮な気持ちになる。
「あいつと回ったところ連れて行け」
「うん!」
トーマのことを知ろうとしてくれているのだと嬉しくなって、昨日話したことを中心に話題にだした。けれど圭吾の機嫌があからさまに悪くなっていく。
「あいつの話は聞きたいわけじゃない」
「でもトーマのことを知ったら嫌いじゃなくなるよ」
「そんなのどうでもいいんだよ」
吐き捨てる圭吾の表情は暗かった。
二人の溝を縮めるのは難しい。
パンダを見る前に昼食を取ろうとレストランに寄ったが、生憎店内は混み合っていて外のベンチも埋まっていた。ちょうど卒業旅行の団体客と時間が被ってしまったらしい。
ポテトやハンバーガーなど手持ちで持てるものを買い、座れる場所を探してウロウロしているとふれあいコーナーにまで来てしまった。
大きなフェンスに囲われた中にはうさぎやモルモットが自由に走り回っている。小さな子どもが膝の上にタオルを敷いて、モルモットを愛おしそうに撫でていた。
「地元の動物園に似たようなのあったよね」
「晃がやぎに追いかけられたところな」
「圭吾がうさぎに噛まれたところね」
声がハモり二人で笑った。
小学生のとき、遠足は地元の動物園と決まっていた。
レッサーパンダばかりで像やキリン、ライオンなど子どもに人気のある動物はいない寂れたところだった。
だがふれあいコーナーにはカメとやぎが放し飼いされ、うさぎとモルモットを自由に触ることができた。
六年間も同じ動物園で飽きていたが、ふれあいコーナーだけは何度来ても楽しかった。温かくてふわふわなうさぎを触るとやさしい気持ちになれる。
だが小四のとき、圭吾がうさぎを触ろうとしたら鋭い牙で噛まれたのだ。圭吾の叫び声を聞いて走るとやぎの大群に追いかけられ、先生たちにこっぴどく怒られた。
「あれは絶対圭吾が悪い」
「なんでだよ」
「圭吾が騒がなきゃ、やぎに追いかけられなかったのに」
「は? おまえが変な奴にちょっかいかけられてるから」
「ちょっかい?」
顔にしまった、と書かれた圭吾は唇を真一文字に伸ばした。
「ちょっかいってなんのこと?」
訊いても知らん顔をされてしまった。こうなってしまったら圭吾は絶対に教えてくれない。
あのときなにがあったっけ、とわずかな記憶を辿る。
確か班のメンバーの一人と話していたような気がする。晃がホモだと噂を流され孤立していて圭吾しか友だちがいなかったが、たまに同情からか声をかけてくれる子がいた。
名前も顔も思い出せないけれどその子がそばにいたような気がする。
いかんせん圭吾との思い出を脳内に詰め込んでいるせいで他の人のことまでいちいち憶えていない。
「あそこ空いたぞ」
湖の近くのベンチが空き、圭吾はさっさと歩きだしてしまった。
それきりその話はうやむやになってしまい、昼食のあとも動物園を見て回った。
水族館の土産店でショッピングピンクのクラゲを見つけると圭吾がげんなりするので面白かった。
「もう一個買う?」
「いらねぇ」
ふんと鼻を鳴らして圭吾は別のところを見に行ってしまった。
昨日は気づかなかったが、ピンクの他に真っ青のクラゲのぬいぐるみも売っている。
二体は対になるように手足が磁石でくっつくらしい。ぱちん、ぱちんと小気味よい音をさせながらつけたり離したりを繰り返していると圭吾の部屋に置いてあるクラゲが浮かんだ。
あのクラゲは一人部屋に残されて寂しい思いをしているかもしれない。
見ていると段々愛着が湧いてきて、くすみのない黒い目もにょろにょろとした手足も可愛く思える。気がつけばレジへ持って行っていた。
「それ買うのか?」
「見てたら欲しくなっちゃった」
「買ってやる」
「え、いいよ」
「いいから」
圭吾はさらっと支払いを済ませてくれ、ぬいぐるみの入った袋を手渡してくれた。
「ほらよ」
「ありがとう。大切にする」
袋をぎゅっと抱きしめると圭吾は鼻白んでさっさと歩きだしてしまった。その耳が少し赤い。照れているのだろう。
(こういうところが可愛いんだよな)
また好きが増えてしまう。
圭吾への想いが日に日に積もり、瓶の中はぎゅうぎゅうに押し込められている。それでも溢れてしまうので瓶の回りにも好きの欠片が散らばってしまっていた。
(大切にしなきゃ)
圭吾と過ごした時間、交わした言葉を忘れないように胸に刻んだ。
水族館を出ると空は群青色とオレンジが美しいコントラストを描いていた。太陽が沈み、東の空には欠け始めた月が登っている。
まだ冬の気配が残る風がびゅっと吹く。海から近いせいか風が強い。
身を縮こませていると圭吾が溜息を吐いた。
「寒い」
「帰る?」
「まだあれ乗ってないだろ」
電飾で輝いている観覧車を指さした。
「本当に乗るの?」
「そう。あいつと行ったところ全部行くって言っただろ」
圭吾はぶつぶつと文句を言いながらも先に言ってしまい、仕方がなく後に続いた。
今日もすんなりと乗れることができそうだ、と並んで待っていると受付のお兄さんが目を瞠っていた。
「お客さん、昨日も来てくれましたよね?」
「そうですけど」
「やっぱり。一回目、うまく乗れなかったからリベンジですか?」
「まあ、そんなところです」
曖昧に濁すがお兄さんはニコニコと笑顔を絶やさない。たぶんカップルだと誤解しているのだろう。
案の定圭吾は眉間の皺を深くさせて不満そうだ。
ゲイだなんだと噂される自分は慣れているが、圭吾はそうやってからかってくる子を一人残らず殴ってきた経歴がある。
さすがにもう大人なのでやらないだろうが、貧乏ゆすりの音が気になってしまう。
「次に乗ってくださいね。これ一台しかないレアなんですよ」
「ありがとうございます」
「楽しんでくださいね」
促された乗ったゴンドラは足元まで透明なものだった。全体が透けているので景色は見やすいが怖い。
椅子に座ると足元がよく見えてしまうので腹の底がきゅっとする。
ゆっくりと上がっていくと車やビルが小さくなっていく。
二回目で慣れているお陰か四分の一くらいまでくると楽しむ余裕が出てきた。
確かに透明なお陰で昨日より全体が見渡せてきれいだ。
「景色いいでしょ」
「そうだな」
「東京タワーがあっちに見えるんだよ。こうしてみると小さいよね」
「……そうだな」
「圭吾?」
同じ返答しかないことに疑問を持ち、正面を見ると圭吾は長い足を抱えていた。膝の間に顔を埋めて景色を見ないようにしている。
その身体が小刻みに震えていた。
「怖いの?」
「別に怖くねぇよ」
「じゃあなんでそんな恰好してるのさ」
「寒いんだよ」
確かに風が強いせいかすきま風が入ってきて、中はひんやりとしている。暖房なんてついてないから当たり前だ。
圭吾の怖がる様子はレアなので笑みがこぼれた。
「そういえばトーマも昨日怖がってたよ」
「あいつと一緒にするな」
「手を握ってくれって頼まれてね。すごく震えてた」
「握ったのか?」
顔をあげた圭吾は目をぱちくりとさせている。なんでそんな勝手なことするんだよ、と言われているような気がして肩を落とした。
「ごめん、圭吾の許可なく勝手に触って」
「握ったのか?」
もう一度同じ質問をされたのでぎこちなく頷いた。
「ん」
「なに?」
圭吾が手を差し出してきて首を傾げた。問いかけても睨まれるだけで意図を汲み取るしかない。
(手を握れってことかな)
そんなお恐れたことをしていいのだろうか。昨日はトーマだったから意識せずにできたけど、いまは圭吾だ。大好きな人の手を触れるのは緊張してしまう。
触ってもいいの?本当に?という疑問は無言の圧力の前では消されてしまう。
大きな手のひらは相変わらずこちらに向けられている。それが小刻みに震えているのが見えた。
恐る恐る手を伸ばして触れると強い力で引っ張られ、身体ごと圭吾の胸に飛び込む形になってしまった。
「な、なに?」
「このまま」
圭吾の匂いや体温を全身に浴びせられて心臓に悪い。寿命がどんどん縮まっていくように感じる。
(ここで死ねるなら本望かもしれない)
遠慮がちにコートを握ると圭吾に腰を抱かれた。こんなに密着したのはいつ以来だろうか。頭が混乱して目が回ってしまう。
「あのさ……」
圭吾が言いかけたと同時にばんとゴンドラが激しく音をたてた。ひゅーひゅーと突風が吹き、ゴンドラが左右に煽られる。
激しく揺さぶられたせいでバランスを崩してしまいガラス窓が眼前に迫る。
ぶつかりそうになった寸前で圭吾が覆いかぶさってきて頭を守られた。
だががんという音に顔をあげると圭吾がガラス窓に頭をぶつけてしまっている。
「圭吾!?」
「このくらい平気だ。おまえは?」
「僕は大丈夫だけど」
「……ならいい」
見たこともないやさしい圭吾の表情にまた心臓が騒ぎ始めた。
(あれ? この顔はトーマもしていたような)
確か観覧車に乗っていたときだ。このきれいな夜景をシリウスに見せたいと言っていたときと同じ表情をしている。
容姿は圭吾だから当たり前だ。でも中身がトーマか圭吾かによって意味が全然違う。
(もしかして僕のこと、大切だって思ってくれてるの?)
でもきっと友だちとしてだろう。物心ついたときから一緒にいるのだ。
それでもいい、と前なら思えていたのに。
欲張りを知ってしまった心はそれだけでは足りなくなろうとしている。
(友だちとしているって決めただろ)
そうやって心を縛りつけると痛みで胸が苦しい。息苦しくて喘ぐように息を吐いてなんとか痛みをやり過ごした。
そのあとは元の席に座り、なんとなく会話ができないまま一周して終わった。
「頭、本当に平気?」
「問題ない」
「コブできてない?」
「おまえは心配性だな」
「だって……」
圭吾になにかあったらと思うと心臓が竦みあがってしまう。
ただでさえ、トーマと意識が入れ替わるという非日常が続いているのだから神経質にもなる。
「おまえがなんともなければいい」
ぽんと頭に手を置かれて顔を上げた。夜のなかでも圭吾の金髪は眩しい。形の整った眉も鋭い眼光も玉のように白い肌も美しすぎる。
ぼぅと惚けていると圭吾はすぐに仏頂面に戻ってしまった。
「腹減った」
「じゃあご飯食べて帰ろうか」
「おまえの飯がいい」
「でも帰ってから作ったら遅くなっちゃうよ?」
「いいよ」
「わかった」
「遊んで帰って来るのに飯作れって言われて嫌じゃねぇの?」
「別に、あ、でも自分一人だったら面倒かな。圭吾が食べてくれるなら平気だよ」
このくらいなら友だちとしてもアリだよなとちらりと様子を伺う。圭吾は特に気にした様子もなくふーんと携帯を弄っていた。
夕飯と風呂が終わり、ホッとしていると携帯が震えた。バイト先の塾からだ。
「もしもし、鹿取です」
『休みのとこ悪いね。急なんだけど明日朝から来れる?』
「えっ」
『小山田さんがインフルになっちゃってしばらく来れなくなったんだよ。卒論やばい?』
「明日は」
ちらりと圭吾を見る。もしまたトーマに入れ替わっていたら一人にしておけない。会話を聞いていた圭吾は小さく丸を作った。
「予定確認して折り返します」
『わかった。なるべく早くね』
通話を切って頭を抱えてしまった。これはさすがに予定外だ。
「行ってこいよ。人、いないんだろ?」
「でももしトーマになってて、起きたら一人だったら不安だと思う」
「……そんなにあいつがいいのかよ」
「え、なに?」
圭吾の声は小さすぎてよく聞こえなかった。
繁忙期ではないにせよまだ受験が終わっていない生徒もいる。受験でナーバスになっているなか、講師がいなかったら不安に拍車をかけてしまうかもしれない。
「わかった。たぶん僕がいなくても外には出ないだろうし。一応書き置きしておくよ」
「そうしてやれ」
もうこの話は終わりだとばかりに圭吾は部屋に戻ってしまった。
トーマは日本語が読めない。けれど念のため手紙を書き残し、朝ごはんの支度をしておいた。
予定より時間が押して、残業をするはめになってしまった。夕日が沈んだ空を背に受け、晃は家路へと急いでいた。
(こんなことがあるなら携帯の使い方教えておけばよかった)
それより先に日本語か、とあれこれ考えながら鍵をねじ込んだ。
「トーマ? ごめんね、一人にして」
玄関を開けるとすぐダイニングキッチンがある。奥にリビングと続いているが明かりはついていない。
「トーマ?」
風呂場、洗面所、トイレと自分の部屋を探すが姿はない。あとは圭吾の部屋のみだ。
まだ寝ているのだろうか。
圭吾の部屋の前にたつとカタカタと聞き慣れた音がする。まさかと思って扉を開けると圭吾がパソコンに向かっていた。晃に気がつくと画面から顔を上げる。
「あ、おかえり」
「圭吾?」
「そうだよ」
「トーマは?」
「ならなかったっぽい」
「そうなの?」
「うん」
圭吾は淡々とした様子でパソコン画面に視線を戻した。長い前髪をちょんまげのように結んでいる。気合いを入れるときの髪型だ。
トーマに代わっていなくて拍子抜けした。いや、安心したというべきだろう。
まだ恋人を見つけていないのにもう入れ替わり期間は終わったのだろうか。
それとも寝たら入れ替わるという前提自体が間違っていたのか。
様々な疑問は浮かぶが答えを知る人は誰もいない。味のないガムを噛み続けているような違和感だけが残る。
「まだ恋人見つけてなかったのに終わっちゃうなんて変じゃない?」
「別にいいんじゃね。見つけなくて」
「でもトーマは会いたがってたよ」
「向こうの世界で会えるだろ」
「……会えてないみたい」
「はぁ?」
やっとこちらを向いた圭吾の目元には濃いくまがあった。鋭い眼光と合わさり、ガラの悪さが増している。
よく見ると机の周りには見慣れない栄養ドリンクやコーヒー缶がたくさん並んでいた。
「入れ替わってないときは暗い闇のなかにいるって言ってて」
そう言うと圭吾は罰が悪そうに顔を歪めた。さすがに同情したのかもしれない。
「でもおまえには関係ないだろ」
「トーマのことを知っちゃったから他人事とは思えないよ」
だって圭吾の顔で寂しいと言っていたのだ。
顔が圭吾なだけで中身が違うとはわかっている。
トーマと圭吾は別人だ。
晃にとって二番目の友だちだ。尚更蔑ろになんてできない。
いままで散々悩みを打ち明けた仲である。それにシリウスを深く愛するトーマをよく知っている。
入れ替わりが終了して「これでよかったね」とエンドマークはつけれるはずがない。
「でも俺たちにはどうすることもできないだろ」
「そうだけど」
「この話はもう終わり。風呂入ってくる」
圭吾はふらふらとした足取りで風呂場に向かい、話は打ち切られてしまった。
布団に入ってもなかなか寝つけず寝返りを繰り返した。ようやく安定した位置を見つけ、カーテンの隙間から差し込む月光が天井に映っているのを眺めた。
もうトーマは現れないのだろうか。
大切なフライパンを焦がされたり、質問攻めしてきたり、人間関係をめちゃくちゃにしたりとめちゃくちゃな言動で精神も肉体も疲弊させられてきた。
でもだからこそトーマとの思い出は力強く描いたクレヨンのように色鮮やかに残っている。
こんな感情を圭吾以外に持つのは初めてだ。
いままで友人らしい人はおらず、圭吾以外の過去に思い入れもない。隣に圭吾さえいてくれればあとはどうでもよかったはずなのにーー
どうしてもトーマのことが頭から離れられない。
寝返りを打って目を瞑るとリビングから人の気配がする。もしかして、と布団から飛び出した。
キッチンから光が漏れている。見慣れたシルエットに期待と不安が振り子のように揺れていた。
「……トーマ?」
振り返った顔はゲンナリとしていて、間違えたと瞬時に悟った。
「悪いな、俺で」
「……ごめん」
なにを期待していたのだろうか。
トーマのときはあれほど圭吾に会いたかったはずなのに、逆になるとトーマが恋しくなってしまう。
罰が悪くて視線を彷徨わせていると圭吾の手には栄養ドリンクが握られているのが見えた。
「まだ卒論終わらないの?」
「もう終わった」
「じゃあ寝た方がいいんじゃない?」
「寝るよ」
瓶をシンクに投げ入れた圭吾は覚束ない足取りでふらふらとしている。危なっかしくて手を差し出すと振り払われた。
「ベッドまで運ぶよ」
「そんなやわじゃねぇ」
「でも」
顔は土気色をしていてくまも酷い。重そうな瞼が閉じそうになると圭吾はぱんと頰を叩いた。
それでもうとうとと船を漕ぎ始めて、慌てて左右に頭を振っている。
まさか、と思い圭吾を見返した。
「もしかして昨日から寝てないの?」
机の上にあった栄養ドリンクやコーヒー缶の山が気になっていた。
卒論で追い込んでいるからだろうと思っていたが、提出期限までまだ余裕があるからそこまで追い込む必要もない。
トーマと入れ替わる条件は寝ること。
だから圭吾は寝ないようにしているのだとようやく気づいた。
「だめだよ。そんなことしたら身体保たない」
「こんくらい余裕だ」
圭吾の声に覇気はない。顔色がさら悪くなっている。辛そうな姿に心が締めつけられた。
「いつまで寝ないつもりなの? まさかこのままずっと?」
「そうでもしねぇとあいつと入れ替わるだろ」
「そうだけど」
「嫌なんだよ。自分の身体を好き勝手に使われるのは」
圭吾は苛立たしげに前髪をくしゃりと掴んだ。ぶちぶちと毛が抜ける音がする。痛みすら厭わないほど余裕がないのだ。
(どうしてもっと圭吾の気持ちに寄り添えてあげなかったのだろう)
友だちと仲違いしたこと、中間報告会がめちゃくちゃだったこと、勝手に動物園や水族館に行ったこと。
そのどれもが圭吾にとって許せるものではなかったのだ。
誰かもわからない人に意識を乗っ取られ、自分の面を被って生活を壊される。
プライドの高い圭吾では屈辱の連続だったのだろう。
最初から晃がトーマを制御できたらよかった。
外に出ないこと、人と関わらないことを強く言い聞かせて家のなかに引きこもっていれば圭吾の生活は脅かされずに済んだ。
でも恋人を求めるトーマの姿を見ないふりなんてできなかった。
「ごめんね」
「おまえが悪いわけじゃねぇだろ」
「僕のせいだよ」
「……どうしてそこまでしてあいつを庇うんだ?」
「だって顔が圭吾なんだもん。中身は違うってわかってるけど、重なって見えちゃうんだよ」
シリウスを語るときのやさしい表情を思い出し、胸が痛んだ。圭吾を通してみているからこそ自分は彼にとって友人の一人としか想われていないのだと気づいた。
友だちでいい、と最初から諦めていた恋なのに圭吾の顔で励まされると欲が出てしまう。
その身体に触れ、甘い熱を知ってしまった細胞たちが圭吾を求める。それはダメだと意志の力でねじ伏せることが日に日に辛くなってきた。
一度欲を憶えたら二度、三度と人間は欲張りになってしまうのだ。
涙が込み上げてくる。喉に力を入れてどうにか堪えるが目の粘膜に水分が溜まるのは抑えられない。
「昔から俺が言うこと逆らったことないもんな」
「当たり前じゃん。だって圭吾だよ」
「どういう理屈だよ」
「だって圭吾なんだもん」
しゃくりあげながら泣くなんていつぶりだろうか。子どものときですらこんなに泣いたことなかった気がするのに。
涙の止め方がわからずにいるとトレーナーの裾で無理やり拭われた。力が強すぎて皮膚が引っ張られて痛い。
「いたっ、ちょ、痛い」
「おまえが不細工な顔で泣くからだよ」
「不細工なのは生まれつきなんだからしょうがないじゃん」
「変な顔」
両頬を横に引っ張られる。歪んだ視界のなかでも圭吾が笑ってくれている。
「わかった。寝る。でもその代わりおまえも一緒に寝ろ」
「え!?」
「あいつと同じ布団で寝てただろ」
「そうだけど……でも嫌なんじゃないの?」
問いかけると圭吾の耳が赤く染まっているのが見えた。照れている?どうして、と問いかけようとすると有無を言わせない強さで部屋に引き入れられた。
ベッドに入った圭吾に乱暴に布団をかけられる。狭いシングルベッドでは自然と抱きつくような体勢になるしかない。
心臓が早鐘を打つ。体温がどんどんと上がり、額が汗ばんできた。
「すげぇ心臓の音」
「わかるの?」
「わかるよ。俺も」
圭吾の手に導かれながら胸元に耳をつけた。とくとくとくと小動物みたいな心音が聞こえてくる。
顔をあげると圭吾は眩しそうに目を細めた。
「おまえがいればいい」
「本当?」
「全部、俺が悪い……から」
「圭吾?」
うとうととしていた圭吾はすぐに寝息を立てた。かなり無理していたのだろう。
「おやすみ」
どうかいい夢が見れますように。願いを込めて圭吾の胸に頭を預けて目を瞑った。
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