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第7話

 泣き腫らしたせいで瞼が重い。頬は涙が乾いてカピカピとして、表情筋がうまく動かせない。  身体中の水分がなくなってしまったように干からびている。喉の渇きを覚えて台所へ向かうと圭吾の姿があった。  「起きたか」  鍋を片手に珍しく料理をしようとしていたらしい。時計を見ると夜中の一時を回っている。夜食のつもりだろうか。  「なにか作ろうか」  「カップ麺食うからいい」  「身体に悪いよ」  「夜中に食うジャンク飯ってなんであんなに美味いんだろうな」  悪びれもせず笑う圭吾に大きく息を吐きだした。泣きすぎたせいで頭がぼんやりする。  笑いたいのにうまく頬が上がらない。不審に思ったのか圭吾は両眉を上げた。  「怖い夢でも見たか」  「どうして」  「変な顔してるし、目元も赤い」  腰を曲げて覗き込まれると琥珀色の瞳に自分の不細工な顔が映る。咄嗟に下を向いた。泣いていたのに気づかれてしまい、罰が悪い。  「なんか悩みでもあんのか? 話してみろ」  「別に大したことじゃないよ」  「じゃあ話せるだろ。それとも葵のこと気にしてるのか? 夕方、茜が迎えに来たぞ。今度礼をするって」  「葵は熱下がったの?」  「だいぶな。薬が効いたんだろ。てか話逸らそうとすんなよ」  やさしい力で脳天にチョップをされた。痛いよ、と抗議をすると圭吾は困ったように笑った  「最近、変な夢を見るんだ」  内容まではっきり憶えているわけではない。だが幸せな気持ちで目覚められるときと陰鬱な気持ちのときとの差が大きい。トーマと圭吾のことで心労が溜まっているせいだとは思うが、嫌な感覚が頭にこびりついている。  そう話すと圭吾は難しい顔をした。  「それでなにか思い出したりしたか?」  「思い出すってなにを?」  「いや……」  圭吾はしょんぼりと肩を落としてしまった。また不用意に傷つけてしまったのだろうか。  「思い出したいんだけど、僕の中の「なにか」がストップをかける感じがするんだ」  夢の内容は、これからの人生を左右するような重要なことだったような気もする。けれど霧を掴むようにそこにあるのに手に触れられない。  もしかして自分に「なにか」を伝えようとしているのだろうか。だからこんなに気持ちが揺さぶられるのだろうか。  「どんな感じとかはあるのか? 例えばゾンビに追いかけられるとか」  「随分気にしてくれるんだね」  「まぁな。夢見が悪いと寝るのが嫌になるだろ」  「そんなことないよ」  怖い夢もあった気がするが同じくらい幸せな夢もあったと思う。ふと頭の中できらりとするものがちらついた。  「満月が出ていたような気がする」  そう言うと圭吾は前のめりになった。  「他には?」  「星が降り注ぎそうなほどきれいだった」  月光を浴びて瞬く金色の髪が脳裏に過る。もしかして圭吾のことだろうか。  目の前にいる圭吾の髪は黄金色に輝いている。  (圭吾と夜のピクニックにでも行ってる夢だったのかな)  夢は心の鏡と言うこともある。自分の深層心理を表しているのだから、夢の中でも圭吾を求めていたのかもしれない。  「湖はなかったか?」  「湖? これ以上はわかんないや」  「そうか」  圭吾は顎に手をかけて難しい顔をしてしまった。もしかして圭吾の夢を見ていたことに気づかれてしまったのだろうかとヒヤヒヤする。  話に一区切りついたので冷蔵庫に入っている水のペットボトルを一気に煽ると冷たさで靄がかっていた思考がクリアになる。  変な時間に寝てしまったせいで意識が覚醒してしまったらしい。  「散歩にでも行こうかな」  「こんな時間に?」  「なんか目冴えちゃって」  「危ねぇだろ」  「大丈夫だよ」  ラックにかけてあるコートを着て、マフラーと手袋をはめた。春はもうすぐそこまで来ているのに朝晩は真冬のように冷え込む。  玄関で靴を履いているとドタドタと圭吾がダウンを引っかけながらやってきた。  「どっか行くの?」  「ちょっとコンビニ」  「代わりに買ってきてあげるよ」  「いいから行くぞ」  圭吾は乱暴にダウンを羽織るとさっさと行ってしまった。  一歩外に出ると身を切るような風が一陣吹く。剥き出しのままの顔が痛い。マフラーに顎を埋めていると圭吾に「雪だるまみてぇ」と笑われた。  しばらく歩くとコンビニが見える。こんな真夜中なのに夜光虫を誘うように煌々と光っていた。住宅街のオアシスといったところだろう。  店先の駐車場には同世代の集団が集まっていて、嫌な予感がした。この辺は大学の寮や単身用のアパートが多い。  「お、圭吾王子じゃん」  やけに大柄な男が圭吾に声をかけた。周りの数人も圭吾の名前を呼び、ニヤニヤと下衆な笑みを浮かべている。顔に見覚えがあった。確か圭吾と同じフットサルサークルのメンバーだ。  風に乗ってアルコールの匂いがしてくる。足元にはビール缶が転がり、よほど飲んでいるのは伺えた。  「なんだよ、王子って」  「聞いたぜ、中間報告会のこと。おまえ相当ヤバかったらしいな」  どうやら噂が広まってしまったらしい。  男は嬉々として報告会のことを話していたが合っている部分とそうでない部分が半々だ。  トーマの言動に尾ひれがついて変な風に広がってしまったのだろう。  それにしても王子様というあだ名は鋭い。  「はっ、だからどうした。単位が取れればそれでいいだろ」  「あと卒論内容もやばいと聞いたぜ。同性婚の歴史、だっけか。そこのクソダサ陰キャと付き合ってんの?」  一斉に笑い声があがる。自分だけ莫迦にされるのは慣れているが圭吾も一緒くたにされるのは許せない。  奥歯を噛んで睨みつけると男はひゅうと口笛を吹いた。  「いいね、その挑発的な顔。屈服させたくなるわ」  「圭吾は違う」  「一緒に住んでるんだろ? それで毎日ヤりまくってたら穴がガバガバになるよな」  とんだ妄想癖の男だ。酒に酔っているといっても限度がある。  ふつふつと怒りが湧く。酔っ払いに真実を言っても馬の耳に念仏だろう。  それでも我慢なんてできない。  「僕のことをなんと言われても構わない。でも圭吾は違う。僕がただ纏わりついてるだけだ!」  「うわ〜圭吾、変なやつに好かれてんのな。でもヤり捨てるならこれくらいがいいよな」  ケタケタと気持ち悪い笑い声の合唱が響く。一秒でも早くこんな場所から消えたい。  けれど圭吾への誤解はなんとしても解きたかった。  元はと言えば自分のせいだ。  圭吾が嫌がっていたのに後をついて回り、ルームシェアまでした。自分がゲイと噂されているのは知っていたのにそれでもやさしくしてくれた圭吾に縋ってしまったのだ。  (最初から圭吾のそばにいなければよかった)  きっとたくさんの友だちに囲まれて、何不自由ない人生を歩めていただろう。  晃がその道を土足で踏み荒らしているのだ。  こぶしを強く握りすぎて手のひらに爪が食い込む。その痛さがどうにか冷静さを保たせてくれた。  「あれぇ? でもよく見たら陰キャちゃん、可愛い顔してんね」  「はぁ?」  男はフラフラと近づいてきてマフラーを引っ張られた。アルコールの匂いが強くなり、吐き気がする。  「圭吾の噂なかったことにしてやるよ。その代わり、おまえ相手しろ」  いいね、と周りは同調する。不穏な空気に唾を飲み込んだ。  「ちょうどナンパした女に振られちゃったとこなんだよね。だから代わりにさ。わかるだろ?」  水気を帯びたいやらしい視線にぞわりと背筋が震えた。性的な目を向けられて気持ちが悪い。  でも自分さえ我慢すれば圭吾は元の生活に戻れる。あと数週間しかない学生生活だが、最後は笑顔で卒業を迎えて欲しい。  男が手を伸ばしてきた。触られる。嫌だ。圭吾以外の人となんて考えられない。  でも我慢しないと。  身体の震えに気づかれないようにぎゅっと両腕を抱いた。  「やめろ」  圭吾が男の腕を掴んだ。その顔はいままで見たことがないくらい怒気を孕んでいる。  圭吾は目を三角にさせて男を睨みつけた。  案の定、男は眦を吊り上げた。  「なにしてくれちゃってんのよ、圭吾」  「こいつに触るな」  「やっぱおまえら付き合ってるわけ?」  「おまえらに関係ないだろ」  「もっと酷い噂を流しても?」  「好きにしろ。どうせもうすぐ卒業するんだから」  圭吾はふんと鼻を鳴らして男を見下ろした。その小馬鹿にした様子に男は顔を真っ赤にさせて、圭吾に掴みかかる。  「おまえの就職先にも送ってやるよ! そしたら内定取り消しだな」  「はっ、そしたらおまえも一緒だな」  「なにが」  「女ナンパしたと言ってたが襲おうとしたんだろ。この辺の防犯カメラ見ればお前たちの悪行はすぐわかるぜ」  「なっ……」  今度は男の顔色が白く色をなくしていく。図星だったのだろう。  男は反論せずに歯を食いしばった。  「もう俺に関わるなよ」  圭吾に腕を引かれて歩き出した。男たちは追いかけてくる様子もなく、ただその場に立ち尽くしていた。  圭吾はずんずんと先に進む。どこに行くのだろうか。駅前を通り過ぎるときに警察官が数人ウロウロしているのが視界の端に見えた。  「通報されたんだろうな」  「そうだね」  「ま、あんま品のいい連中じゃないし付きまとわれてたから清々するわ」  「圭吾」  腕を引っ張ると圭吾は足を止めた。月明かりを背負った圭吾は少し怒ったように口を尖らせている。  「なんであいつらの挑発に乗るんだよ」  「だって噂が」  「そんなにいまに始まったことじゃねぇだろ」  小学生のときからずっとそうだ。ゲイだと後ろ指さされ、クラスで孤立しているときでも圭吾だけは変わらず友だちでいてくれた。  そのせいで圭吾までゲイだと噂されたことがあったが、片っ端から力でねじ伏せてきた。でも大人になるにつれ、上手く流せるようになっていたのに。  「なんで今回は庇ったの?」  「はぁ?」  圭吾は大きな目をさらに丸くさせて、あんぐりと口を開いた。  「放っておいてくれてよかったのに」  「おまえ、あいつらと……そういうことしたかったわけ?」  「そんなわけないだろ!」  思ったよりも大きな声が出てしまった。巣で寝ていただろう鳥がばさりと羽音をたてる。  慌てて口を押さえた。  「圭吾に迷惑かけたくないんだよ」  「俺が、いつ、迷惑かけられてんだ」  「小学生のときからずっと僕のことを庇ってくれてたでしょ?」  「友だちを悪く言われて怒るのは当たり前だろ」  「……友だち」  自分で望んでいたはずなのに圭吾から言われると殴られたようにダメージが大きい。  「……俺と友だちなのがそんなに嫌かよ」  「そんなわけないよ。ただ」  「ただ?」  涙が湧き上がってきて喉をぎゅっと閉めた。最近泣きすぎている。  圭吾とトーマが入れ替わるようになってから涙腺が弱くなってしまっていた。  「俺のこと恨んでるんだろ」  「どうしてそんなこと思うの?」  圭吾は項垂れたあと、大袈裟なくらい背中を仰け反らせた。月光に晒された金髪が光の粒子をまとい、美しい。  つい見惚れてしまっていたので圭吾の言葉を聞き逃していた。  「ごめん、もう一回言って」  「だから俺がおまえのことゲイだって噂流してるって気づいてるんだろ?」  「ーーえ」  じっと見据える琥珀色の瞳には嘘だと笑い飛ばせるほどの隙がなかった。  思い返せば小学校からゲイだと吹聴されていた。それは大学に入っても同じで、特に心当たりになる言動はなかったはずなのに童顔だからそれっぽく見えるのだろうとあまり気に留めていなかった。  圭吾のそばにいることがなによりも大切だったから。  でもその噂を流していたのが圭吾本人だった。  なんのために?   理由は?   訊きたいことがたくさんあるはずなのに喉が締めつけられてしまったかのように喘ぎ声一つでない。  「そんな人間、友だちでいる資格すらないよな」  自嘲気味に笑う圭吾の表情はいまにでも泣きそうに顔をくしゃくしゃにさせていた。圭吾がなぜそれほど苦しさを滲ませているのかわからない。  「……どうして、そんな」  やっと絞り出せた声はカラカラで掠れている。喉が焼けつくように痛い。  この感覚には憶えがある。どこでだろう。思い出せない。  「おまえを一人にさせたかった」  「僕のこと、ずっと嫌いだったの?」  圭吾はなにも答えてくれない。  半月を見上げて、掴もうとするように手を伸ばしている。  背の高い圭吾でも月には絶対に届かない。宇宙でもいかない限り無理だ。そもそも月は大きすぎて手のなかに収めておくこともできない。  そんなことわかっているはずなのに圭吾は月に助けを求めるように両腕をあげた。  その姿がなぜか泣けてきてしまい、外気に冷やされた涙が頬を伝う。  圭吾はなにも答えてはくれなかった。  家に帰ると圭吾は黙って部屋に行ってしまった。また徹夜をするのかとヒヤヒヤしたが、風呂に入ってから部屋を覗くとベッドに潜っていたので胸を撫で下ろした。  (きっとこういうところも嫌われる原因なんだろうな)  答えない=肯定と同じだ。圭吾にずっと嫌われていたのに付きまとって、これじゃストーカーと一緒じゃないか。  ゲイだと噂を流されていることもちっとも気づかなかった。  どれだけ人の機微に疎いのだろう。  圭吾のことが好きすぎて圭吾自身の気持ちを考える余裕もなかった。  やさしいから、と都合のいいように解釈して現実から目を背け続けた結果がこれだ。   「僕は莫迦だ」  こんなにも愚かでみじめったらしい。  圭吾と出会わなければよかった。好きにならなければよかった。  そうしたら好きな人をこんなにも辛い目に遭わせずに済んだのに。  「おや、食事はまだか?」  リビングで座っているとぬいぐるみを抱いたトーマがやって来た。  重苦しい部屋の空気を浄化するほどの能天気さだ。  でもトーマだとわかっていても顔が圭吾なだけに見るのも辛い。  「なんだ。返事くらいしたらどうなんだ」  「……ごめん、いまはそれどころじゃなくて」  「圭吾の身体が空腹を訴えておるぞ。このままでは餓死してしまう。それでいいのか?」  圭吾を盾に脅されると晃が従うとわかっているのだろう。その認識は正しい。  どれだけ心はズタズタに引き裂かれていても身体はすんなりと動く。  台所の壁には鉄のフライパンが掛かっている。圭吾が買ってくれた宝物に胸がぎゅっと痛む。  油ならしを繰り返しているおかげで傷がついても前と変わらないまま使えている。  (フライパンみたいに修復できたらいいのに)  人との繋がりは目に見えないから厄介だ。相手を傷つけてしまっても、気づきにくい。  いつ、どのタイミングで圭吾に嫌われてしまったのだろう。巻き戻せるなら過去に戻りたい。  そして最初から全部やり直して、友だちとしての今度こそちゃんと演じてみせる    「なんだ、この世の終わりのような顔をして」  ぼうと突っ立ったままだったのでトーマが訝しげに思ったらしい。横から覗き込まれてどきりとしてしまう。  同じ顔なのに違う人。嫌いだと言われたのに、こうして心配してもらえていると脆い心は圭吾を求めようとしてしまう。  甘えるな、と自分を叱咤してこぶしを握った。  「……圭吾に嫌われてたみたい」  「はっきり言われたのか?」  「うん」  「なるほど」  トーマは腕組みをして、目を瞑った。慰めようとしてくれているのかもしれない。  「いいよ。わかってたことだし」  みんなから好かれている圭吾がなんの取り柄もない自分と友だちでいてくれた方がおかしかったのだ。  ゲイだと噂を流して孤立させようとしたのも晃が一番ダメージを負うと思ったからなのだろう。  「だがこのクラゲはどうだ? こんな色、圭吾の趣味ではないだろ」  「そうだけど」  「好きでもないものを捨てないほど懐が広い男なのか?」  圭吾は白黒ハッキリさせるタイプだ。好きなものは好き、嫌いなものは嫌い。だから部屋のなかは圭吾の好きなものだけで溢れている。  「違うかも」  「嫌いな奴と同じものは持ちたくないだろ。捨てないということは嫌われてはなさそうだが」  「でも」  この家を出ていきたいと言っていた。それは変えようもない事実だ。  グズグズしているとトーマはふんと鼻を鳴らした。  「柄にもなく弱っているな。いつもの強気はどうしたんだ」  「……僕だってへこむときはあるよ」  「それだけ圭吾が大切なんだな」  「大好きだよ」  思わず吐露してしまった。首の後ろが熱くなり、頬が赤くなる。  「いつから圭吾のことが好きなのだ?」  「子どものときかな」  「きっかけは?」  「かけっこしたとき」  「ほぅ」  保育園のとき、圭吾とどちらがかけっこで勝つかという勝負をした。運動会が近く、連日のようにかけっこの練習をさせられていて園全体でブームになっていた。  クラスで一番速い圭吾と一番遅い晃では勝負は目に見えている。それでも圭吾に誘われたらやるしかないとスタートの位置に立った。  『まけたら、なんでもいうこときくってのはどうだ』  『どうせけいちゃんのほうがはやいじゃん』  『そんなのしょうぶしてみないとわからないだろ』  不敵に笑う圭吾は大人びて見えて、見下されている感が気に食わなかった。  よーい、スタート! というクラスメイトの声に同時に駆け出した。  だが圭吾の方が二歩も三歩も速い。どんなに足を速く動かしても追いつけない。  こんなもの最初から勝敗はついていたのだ。  スタート前の気持ちがしゅるしゅると抜けてしまい、スピードを緩めて走るのを辞めた。するとゴール直前で圭吾が顔を真っ赤にして戻ってきた。  『おまえ、なめてんのか』  『だってけいちゃんのかちだよ』  『さいごまであきらめるなよ。そんなんだからバカにされるんだろ』  身体が小さく内気な晃は同級生から虐められていた。けれど虐める同級生たちを心の中で莫迦にしていた。子どもっぽい、幼稚だと妄想では何度も殴っている。  それでよかった。  でも圭吾は許せないのだろう。  『ほんきをみせろよ。ちゃんとやるまでなんかいもやるからな』  『そんなぁ』  なんて面倒なことに巻き込まれてしまったのだろうと憂いた。  でも圭吾は一度決めたら曲げないことをよく知っている。  もう一度スタートラインに立って、合図と同時に駆け出した。やはり圭吾の方が速い。またやめそうになると振り返った圭吾に『はしれ!』と怒鳴られた。  足に力を入れて一歩を踏み出す。少し先の大きな背中をめがけて走った。  風が抜け、カラー帽子が脱げる。砂利を踏む感触が足裏に伝わり、速度を上げた。  もう少しで届きそうというところで圭吾が視界から消えた。  足が絡まって転んでしまったらしい。怪我をしているかもしれないと立ち止まろうとすると圭吾が目を吊り上げた。  『とまるな! はしれ!』  その言葉に背中を押されて走った。ゴールして振り返ると圭吾は親指を立てて笑顔を向けてくれた。  両膝が擦りむけ、赤い血が滲んでいても泣きもせず、晃を奮い立たせてくれた。  誰も見向きもしなかった自分という存在を初めて認めてくれたのが圭吾だ。  その瞬間に胸の高鳴りを感じ、少し大きくなってからこれが恋なのだと気づいたのだ。  話終わるとトーマはくすぐったそうに笑った。  「いい男じゃないか」  「そうだよ」  「なおのこと想いを伝えた方がいい」  「できないよ」  「ふん。ならそのままいつまでも毛虫のようにうにょうにょしていろ」  「なんだよ、そんな言い方」  睨みつけるとトーマも鼻息荒く、両頬を膨らませていた。  「この世界は戦争がない。いつ死ぬかとわからない状況じゃないからそんな呑気なこと言えるんだ」  「呑気って」  「フロント国はずっと戦争をしていた。いつ死ぬともわからない毎日で、みな一日一日をとても大切にしていた。だからこそ愛する人には言葉を尽くすようにしている」  明るいトーマの後ろに重たい現実がのしかかっているのが見えた。戦争、という物騒な言葉にぞくりと背筋が凍る。  世界のどこかでは戦争があるが、晃の住んでいる日本にはない。内戦もなく、比較的平和な世の中と言える。  予期せぬ交通事故や病気で死ぬ可能性はあるが、それは戦争で死ぬより確率は低いだろう。  明日も会えるという奇跡が日常と名前を変え、当たり前のように過ごせている。  トーマが生き抜いた時代とは比べものにならないくらい平和で、幸せで、夢みたいな日々なのかもしれない。  「この世界では同性同士の恋愛は神に背く行為ではないのだろ?」  そうだ。  トーマはシリウスと結ばれたことで殺されてしまったのだ。なんて無神経なことを言ってしまったのだろうか。  「ごめん……」  「いや、私も悪い。つい羨ましくてな」  「羨ましい?」  「周りの目を気にせず、愛する人と一緒にいられるから」  トーマとシリウスは立場が違う。二人で外を歩くこともままならなかったのだろう。  死んでもなお、恋人と再会したいと願うトーマの健気さは胸が打たれる。  そんなトーマの前でこんな愚痴は情けない。   「……きっと私のせいだな」  「どうしてトーマのせいになるの?」  「私が二人を引き裂いているから」  「引き裂くってそんな」  「元々私がこの世界にこなければ、晃たちは拗れなくて済んだだろう」  トーマは眉を寄せて項垂れてしまった。圭吾の顔で辛そうな顔はしないで欲しい。胸が苦しくて張り裂けそうだ。  でもトーマの言う通りかも、と思ってしまった。  入れ替わりなんて映画みたいなことが起きなければ、別々に暮らしたまま友だちという関係にいられた。そして徐々に距離をとられてフェードアウトするのだろう。  圭吾のやさしさの上で成り立っていたこの友情はそうやって幕を閉じる。  そして圭吾への想いを抱いて晃の生涯が閉じる。  なんて希望のないエンディングなのだろうか。  なにも返答できないでいるとトーマは寝室に戻ってしまった。

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