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第10話

 次の日には無事に退院ができた。圭吾はトーマと入れ替わらず、悲しそうに眉を寄せている。もう三日ほど入れ替わっていないらしい。  「力が弱まってるみたいだな」  「どうしたら強くなるの?」  「たぶん月の満ち欠けが関係してるのかも。また月が出るようになればでてくるかもしれないけどーー」  途中で言葉を切った圭吾は細い顎に指にかけて、考え込んでしまった。  「次が最後かもしれない」  「そんな」  「トーマの気配が薄くなっている」  もうトーマに会えなくなってしまう。それは晃にとって友人を失うことと同じだ。  元を辿れば圭吾と同一人物だが、どうしても二人が同じ人間だとは思えない。  「……あいつに会えなくなるのは寂しい?」  「だって友だちだから」  「それ言ったらショックで寝込みそうだな」  冗談とも本気ともつかない言葉になんと返せばいいのかわからなかった。  退院の手続きを済ませて家に帰って来るとほっとする。やっぱり我が家はいい。  丸一日帰っていなかった部屋はどこか空気が淀んでいる。全部の部屋の窓を開けて新鮮な空気を取り入れていると圭吾にぴしゃりと閉められた。  「寒いだろ!」  「掃除機かける間は我慢して」  「それにしても限度があるだろ」  「今日は天気もいいから全部やりたい」  圭吾はしばらくぶうたれていたが最後は折れてくれた。しょうがないなと、自分の部屋から毛布を持って来てぐるぐる巻いている。  入院していたときの部屋着や下着を洗濯機に放り込み、掃除機をかけた。水回りもピカピカにし、大掃除みたいに隅から隅まで磨き上げると気持ちが上がる。  晃が掃除に励んでいる間、圭吾はソファで寝そべっているだけだったが、次第にそわそわとし始めた。  「なにかやろうか」  「じゃあ窓拭きお願いしてもいい?」  「そこまでやるのか」  「いいでしょ。せっかくだから」  空は雲一つない晴天だ。一昨日の雪が嘘のようにどこまでも澄み渡った青空。  「仕方がねぇな」  圭吾はよっこらしょと言って、ベランダに出て窓拭きをしてくれた。  昼ご飯も食べ終わり、午後はのんびりと時間を過ごしていると着信がきた。  「はい、鹿取ですけど」  『私、ABC航空のものですが、先日のギリシャ行きの飛行機に搭乗されなかったようなので確認のためお電話を差し上げました』  「あ!」  そこでようやく卒業式が終わったらすぐギリシャに行く計画を思い出した。階段から落ちて病院に行ったせいで忘れていた。  「すいません。昨日事故に遭って」  『お身体は大丈夫なんですか?』  「はい、なんともありません」  「よかったです」  社交辞令だろうが女性の声に安堵が混じっていた。  『ですが、当日キャンセルになってしまいますので返金はできません。ご了承いただけますか?』  「それはもちろん。こちらの落ち度なので」  『またご旅行される場合は当機をお使いください』  「ご迷惑おかけしました」  本人は目の前にはいないというのに電話口で頭を下げて通話を切った。重苦しい溜息を吐いて、熱くなった携帯を握りしめる。  トーマたちの故郷に近いギリシャに行ってシリウスを探すつもりだった。けれど晃がシリウスと判明したいま、意味がない。  ならいっそ卒業旅行として行ってみたかったなとちらりと浮かぶ。  記憶はないけれど、前世の自分が生まれた国を見てみたい。  「誰と電話?」  部屋の扉が開いていたせいで会話が聞こえてしまったらしい。ひょいと顔を覗かせた圭吾は首を傾げている。  「飛行機のキャンセル忘れててそれの電話」  「は? 飛行機?」  「あ、いや……その」  圭吾の顔はどんどんと険しくなっていく。へらと笑ってみせたが、それが余計に怒りを買ったらしい。圭吾の額に青筋が浮いていた。  「おまえ、ギリシャに行くつもりだったのかよ」  「……うん」  「行かなくていいって言ったのに」  「でもどうしても自分の目で確かめたかったから」  飛行機、という単語に引っかかる。電車、新幹線、旅行……と思い浮かべはっとした。  「そういえば今日から卒業旅行行くんじゃなかった?」  「あ!!」  圭吾は慌てて携帯を探してメッセージを確認すると眉を寄せた。  「死ぬほど電話やメッセージきてた」  「新幹線の時間は?」  「とっくに過ぎてる」  がっくりと肩を落とした圭吾にかける言葉が見当たらない。年明けからサークルメンバーと大阪の遊園地に行くと楽しそうに語ってくれていた。  「指定席で取ってるなら自由席に変更できるよ」  「いや、もういい」  「でも」  「おまえを一人にしたらまたギリシャに行きかねないし」  「そんなことしないよ」  「どうだかな。おまえ、昔っから行動力だけあるじゃん」  ふんと鼻を鳴らす圭吾に言い訳できなかった。  子どものときから後先考えずに行動することが多く、トラブルになるたびに母親によく怒られていた。普段内気なくせに一度決めたら曲げない頑固者だと自覚している。  二人ともお金をドブに捨てた真似をしてしまった。勿体ないと思う反面、意図せず圭吾と二人きりの時間が長く過ごせるのはいい。  なにせ一週間しか猶予はないのだ。  「じゃあさ、二人で卒業旅行しようよ」  「でもおまえ金ないだろ」  「それはどうにかなるよ。箱根とかどう? ロマンスカーならお金かからないし」  ネットでさらりと調べるだけでも色々な情報が出てくる。この時期は学生の卒業旅行シーズンだが、箱根はテーマパークなどの派手さがない分、穴場だ。  「ロープウェイ乗ったり、船乗ったり楽しそうだよ」  「まぁいいよ。別に」  「やった! じゃあ明日行こう。すぐ予約するね」  ウキウキとネット予約を済ませていると圭吾は肩を跳ねさせて笑った。  「本当行動力あるな」  「いいでしょ、別に」  「楽しみにしてるよ」  「うん!」  嬉しい誤算に踊りだしたくなった。  新宿駅から箱根湯本までロマンスカーに乗った。新幹線とは違い時間はかかるものの、ゆったりと景色を楽しめる。  見慣れたビル街がだんだんと緑多くなっていくと非現実感に自然と顔が綻んだ。  「一緒に旅行なんて久しぶりだね。高校の修学旅行以来?」  「二人では初めてだろ」  「確かに! 家族ぐるみでは何回かあるけど」  母親同士で仲が良く、小学生のときから年一で旅行に行っていた。  「そういやおまえ、川で溺れたよな」  「あれは溺れてない! 川の水が冷たくてビックリしてひっくり返っただけ」  「そういうのを溺れるって言うんだよ」  溺れてないもん、と繰り返したが圭吾は意地悪く笑うだけだった。こういう弱味も長い付き合いがある分、たくさん持たれてしまっている。  「それを言うなら圭吾だってホテルでおねしょしたじゃん」  「それ小一のときだろ!」  「でも事実じゃん。あのときのおばさん、怖かったな」  当時のことを振り返ると楽しかった思い出がたくさんある。その隣には必ず圭吾がいてくれた。  自分という人間をブロックに例えたなら、その多くに圭吾と築いてきた記憶がたくさん積み上げられている。  「もう着くね」  お菓子を食べながら話しているとあっという間に箱根湯本に着いた。  「ここからどうすんの?」  「とりあえず逆回りで行こうかな」  「逆回り?」  「箱根は時計回りに観光するのが正規ルートみたいなんだけど、それだと混むから逆回りで行こうかなと」  「よくわかんねぇけど任せるわ」  「うん! ほら、バス停はあっちだよ」  圭吾の腕を引っ張ってバス停へと向かった。  名所を巡る旅は予想以上に楽しい。  また圭吾との思い出が増えていく。  ブロックがどんどん増えていく気配に頬が自然と下がってしまう。  芦ノ湖で海賊船の順番を待っているとき特別船室という看板が目に飛び込んできた。  なんでも船内が豪華な客船をイメージした内装で、ふかふかなソファに座れるらしい。屋上のデッキにも行けて、景色をより肌で感じられるそうだ。  「ねぇ特別船室をでもいい?」  「いいよ」  受付でチケットを買うと深緑色のリボンを手渡された。  「こちらを腕につけて列にお並びください」  「ありがとうございます」  リボンの先には金具がついていて、そこにリボンを通してブレスレットのようにするようだった。周りを見ると特別船室に乗車する人はみんな同じものを付けている。  「こういうのっていいね。チケットとかじゃないんだ」  「……そうだな」  左手首に付けたリボンをじっと見下ろした圭吾は言葉少なくなってしまった。  せっかく船に乗っても圭吾は黙ったままだ。  「もしかして疲れた?」  「いや、昔を思い出してた」  「箱根なんて行ったことあったっけ?」  「……前世のこと」  正面に座る圭吾をじっと見た。居心地悪そうに座り直したり、窓を見たりして絶対にこちらに目を向けようとはしない。  言ってしまったという後悔があるのだろう。  「前世では二人で旅行したの?」  水を差し向ければ圭吾はちらりとこちらを見てから慎重に口を開いた。  「……このリボンがまじないのやつに似ていると思って」  「そう言われると似てるね」  リボンの先をちょんと摘まんだ。リボンだからすぐに取れないだろうが、草で結ぶとなると切れてしまいそうだ。  「悪い。嫌だよな、こんな話」  晃が圭吾に告白したから気にしているのだろう。やはり圭吾はやさしい。  「嫌じゃないよ。圭吾のことを知れて嬉しい。シリウスさんのこともっと教えて。恋敵だし」  「なんだよそれ」  口元に手をやって笑う圭吾が可愛らしかった。  窓枠に肘をついて外を眺めながら圭吾は語ってくれた。  「シリウスは慎重な性格だったな。生まれが違うせいで周りからやっかみを受けることが多くて言動にすごく気を使っていた」  圭吾の表情が柔らかく甘いものに変わる。窓の外に続く山々よりもっと遠くを見ていた。シリウスのことを思い出しているときの顔だ。  この表情は何十回と見たことがある。  「街のはずれで木こりとして働いていたが、力がなくて親方に捨てられそうになってた。そのときに余った木材で動物を彫っては売っていたな」  「手先が器用なんだね」  「おまえと似てるな」  「そうかな。さすがに木彫りはできないよ」  「でも折り紙うまいだろ」  「まぁね」  友だちがいなかった幼少期は一人遊びに精を出していた。あやとり、迷路づくり、漫画を描くなど一通りこなしたが、一番長く続いたのは折り紙だ。  (よく圭吾に手裏剣を作って欲しいと強請られたっけ)  懐かしい思い出に浸っていると、圭吾の琥珀色の瞳に鋭く光が灯る。  その表情はわずかに期待しているのだろう。  シリウスとの思い出を語れば晃が記憶を思い出すかもしれないと。  晃には圭吾と築いてきたブロックがある。それがいまさらシリウスに取り替わるはずないのに、圭吾は期待してしまうのだろう。  圭吾のブロックはシリウスが大半を占めている。そこに晃の場所はないのと同じだ。  「あ、着いた」  船内アナウンスが流れて、目的の桃源台に着いた。温かい船内から降りるとびゅうと一際強い風が吹く。  人気アニメのオブジェやパネルを冷やかし、ホテルへと向かった。  直前に取ったにも関わらず池が見える和室を案内してもらえた。改装されたばかりらしく設備が真新しい。  家族連れやカップル、卒業旅行と思わしき同世代のグループが多く賑わっていた。  だが部屋に入ると外の喧騒は聞こえなくなる。しんと静かになってしまうと途端に緊張してしまった。  「夕飯まで時間あるし、お風呂に行ってこようかな。圭吾はどうする?」  「俺も行く」  備えつけのバスタオルと浴衣を持って大浴場へと向かった。  夕食前の早い時間のせいか、人の数は少ない。  「温泉って聞くとわくわくしちゃうよね。日本人のDNAに太古の昔から刻まれてるのかな」  「なんだそれ。そしたら俺はどうなんだよ」  「中身は外国でも身体は日本人でしょ。ほら、楽しくなってきた?」  「まぁな」  いつもよりはしゃぎながら隣をそっと横目で見ようとしたが、目を瞑った。  以前トーマを風呂に入れたときにチラチラ見てしまったけれど、いまは到底できない。  (圭吾の意識で裸を見るのは久しぶりだ)  一緒に住んでいるが部屋は別々だし、もちろん風呂も一緒に入ることはない。  立派な大人に成長した圭吾の裸体は刺激が強すぎる。  羞恥心が大波のように押し寄せてきて、溺れてしまいそうだ。まだ風呂前だというのに身体が火照り始めている。  「先、入ってるね!」  手早く脱いでタオルを持って大浴場へと走っていった。走ると危ないよ、と小さい子に注意されてさらに恥の上乗りをされられてしまった。  すみのシャワーでざっと頭と身体を洗い、外の露天風呂に向かった。いまは誰もいないし、中から圭吾の身体を見ないで済む。  頭にタオルを置いて肩まで浸かると身体の芯がじわじわと温められる。  (これで顔が赤くても温泉のせいだと言えるよね)  空を見上げると木々の間から橙色と藍色の空が混じ合い、夜になろうとしていた。  ふうと息を吐くと重たい白い息が顔にかかる。顔は冷えて身体は温かいおかげで、段々と冷静さを取り戻してきた。  「こんなところにいたのかよ」  腰にタオルを巻いた圭吾は「寒い、寒い」と言いながら露天風呂にとぼんと飛び込んだ。他に客がいたら怒られるだろうが、いまは晃しかいない。  逃げようにも圭吾が入口側を陣取っているので身動きができそうもなかった。  鼻の下まで湯に浸かるとなにしてんだよ、と笑われてしまった。  「露天風呂っていいな」  「……そうだね」  「まだ雪がちょっとだけ残ってる」  回りを囲うような木々には白い雪が薄っすらと積もっている。寒々とした印象がないのは温泉からでる湯気のお陰だろう。  「一緒に風呂入るの修学旅行以来だな」  「あ、でもトーマのときに一緒に入ったよ」  「はぁ!?」  目を剥いた圭吾はばしゃんと水しぶきをあげて、こちらに寄ってきた。  「いつだよ」  「トーマになって初めての日だから……中間報告会のあとかな。でも僕はちゃんと服着てたし、あまり見ないようにしたよ」  本当はちょっと見たけど、とはとても口にはできない。  「……ありえねぇ。もう少し危機管理持てよ」  「男同士だし、相手はトーマだよ? 大丈夫でしょ」  「あのなぁ」と言いかけたが圭吾は口をパクパクさせるだけで続かなかった。  「毎日鍛えてたもんね。圭吾はすごいな」  サッカー部のエースストライカーとして学生のときは大活躍をしていた。大学生になってもフットサルサークルに入り、毎日トレーニングを続けている。  圭吾は大人の魅力たっぷりに変化しているのに自分はどうだろう。子どものときからなにも変わっていない。  運動をまったくしてこなかった薄い身体はあまりに貧相だ。ひょろりとして骸骨みたい。  これに欲情してくれっていうのが無理だろう。  「見てないって言いながらがっつり見てるじゃん。スケベ」  「なっ、ちが……そんなんじゃ」   「嘘だよ、莫迦」  まどろっこしくなるほどの甘い響きにもう限界だった。  「出る!」  圭吾を押しのけるような形で露天風呂に出て、脱衣所に向かった。身体はホカホカに温まりすぎて眩暈がする。  とりあえずまとうだけ浴衣を羽織り、鏡の前の椅子に座った。ぐるぐるぐるぐる。視界が回っているような感覚で気持ちが悪い。  「大丈夫ですか?」  同い年くらいの男に声をかけられて顔をあげる。後ろに二人いた。  「……大丈夫です」  「顔色悪いですよ。もしかして脱水症状かも。これ飲んでください」  男は備えつけてあるサーバーから水を手渡してくれた。ありがたく頂戴し、一気に飲み干すと冷たい水が体温を急速に冷やしてくれる。  「ありがとうございます。だいぶ楽になりました」  「でもまだ顔色悪いよ。よかったら、俺たちの部屋で休まない?」  「え、それは」  「遠慮しないで。同い年くらいだよね? 気にしないでいいから」  手を取られるとざわりと悪寒が走った。毛むくじゃらの虫に触れてしまったような気持ち悪い感触に手を引っ込めようとすると力を込められた。  「ちょうど美味しいお酒もあるから一緒に飲もうよ」  「へぇ〜それはいいな。もちろん俺も混ぜてくれるんだろ?」  顔を上げると腰にタオルだけ巻いた圭吾が立っていた。掴まれた手を見下ろし、すぐ男の方に視線を向ける。  「部屋何番? あとで一緒に行くよ」  「あ〜やっぱ予定できたからいいや。じゃあな」  男たちは足早に出て行った。その後ろ姿を見た圭吾はちっと舌打ちをして、憎々しげに見下された。  「ちょっと目離した隙に油断も隙もねぇな」  「僕が具合い悪そうにしてたから心配してくれただけだよ」  「どうだかな」  下唇を突き出して機嫌が悪そうだ。さっきまであんなに楽しそうにしていたのにどうしたのだろうか。  着替えて部屋に戻るとちょうど夕ご飯の時間で宴会場に移動してたらふく食べた。  お腹も満たされると圭吾の機嫌も元に戻ったらしい。部屋にはすでに布団が敷いてあり、圭吾はごろりと横になって満足そうに腹を撫でている。  「さすがに食いすぎた」  「どれも美味しかったもんね」  圭吾の瞼は重たそうに開いたり閉じたりを繰り返している。食べてすぐ寝られるのも旅行の醍醐味だ。  今日は皿洗いや洗濯をしなくていいんだという解放感から晃も同じように布団に寝転んだ。  圭吾の方に身体を向けると重そうな瞼が閉じかかっている。目にかかっている前髪を梳いてやるのを黙って受けてくれた。  「おまえ……なんでいつも」  「なに?」  ごにょごにょとなにかを言っていたが聞こえなかった。そばに寄って耳を寄せると湿った吐息が肌にかかり、ぞわりとする。  「……なよ」  すぐに規則的な吐息に変わった。どうやら眠ってしまったらしい。布団をかけてやり部屋の電気を消した。  朝から色んなところに回ったから疲れているのだろう。  カーテンを開けると満月がくっきりと浮かんでいる。雲一つない月光が室内に入り、長い影をつくった。  (トーマはどうしてるだろう)  もう死んでいるトーマを想うと辛い。いまこの瞬間、彼の魂はどうなっているのだろうか。  次が最後だ。もう会えなくなってしまう。  話したいことがたくさんあるはずなのになにも浮かんでこない。圭吾がトーマのふりをしていたことや卒業式のこと、入院したと言ったら驚くだろうか。  窓の外を眺めていると背後から衣擦れの音で振り返ると圭吾が起き上がろうとしていた。  「起きた? 喉でも渇いたの?」  「晃か。久しぶりだな」  「トーマ」  暗がりでもトーマだとわかる。まとう雰囲気や話し方が違う。  室内を見渡したトーマは首を傾げた。  「いつもの部屋ではないな」  「圭吾と箱根旅行に来てるんだ」  「なんと。見たことのない床だ。それに草の匂いか。心が落ち着くな」  「これは畳って言うんだ。い草という草を編んで作ってある」  「なるほど。かなり精巧な作りだな」  トーマは畳に這いつくばるように凝視していておかしかった。  「圭吾のこと聞いたよ。トーマの生まれ変わりなんだってね」  「そうらしいな。実感はないが、フロント文字を書けていたし事実なのだろう」  トーマは起こっている事実を飲み込むように二回頷いた。やはりトーマ自身も予想していなかったらしい。  「ごめんね」  「どうして謝る?」  「僕がシリウスさんの記憶がないから」  もし晃に記憶が会ったらトーマとシリウスは再会できたことになる。そしたら二人はまた幸せな時間を過ごせるのだ。  それを自分が邪魔をしているという負い目がどうしても重くのしかかる。  「晃がシリウスの生まれ変わりだと言われてもピンとこないな」  「そうなの?」  「私から見れば晃は晃でシリウスとは別物だ」  「……でも圭吾は僕のことをシリウスさんだと思っているよ。僕自身のことは好きじゃないって」  「男を見る目がないな」  「それ自分でしょ」  「いいや、違う。私はシリウスを揺るぎなく一番に愛しているが晃のことも好いている。それは晃だからだ」  ぴしゃりと言ってのけるトーマは自信に満ち溢れている。そういえば初めて会ったときもそうだった。のちにそれは虚勢だとわかったが、いまは太い芯が通った強さを感じる。  トーマにーー過去の圭吾にそう言ってもらえて嬉しい。でも空洞な心はトーマの言葉では満たせないのだ。  「どうやったらシリウスさんになれる? 髪色は? 仕草は? 好きな食べものは? 全部シリウスさんに似せたら圭吾は好きになってくれるかな」  「晃」  「圭吾がシリウスさんの話をするのが辛い。聞きたくない。でもどうしても気になっちゃうんだ」  「それだけ圭吾を愛している証拠だろ」  「好きだよ、大好きだ。好きにさせてみせるって言ったけど本当は勝算なんてないんだ。不安で苦しくて……気を抜いたら泣いちゃう」  堪えていたはずの涙が頬を伝った。一度瓦解した洪水は止まることなく流れていき、畳に丸い染みを作る。  圭吾の前ではいままで通りにいようと決めた。人を愛する気持ちはとても尊く素敵なものだと圭吾から教えてもらったから。  「これほど愛されているのに圭吾は嫌な奴だな」  「そんなことない。僕が勝手に好きになってるだけだから」  「いいや、そこは否定させてもらうぞ。見る目がない! いつまで後ろばかり見ているんだ。我ながら腹がたってきた」  トーマは眉をつりあげて自分の顔を殴り始めた。弱い力だったけれど顔に傷でも残ったらと思うとひやひやする。  「もうそいつは諦めろ。晃なら他にもいい人がいるだろう」  「トーマはシリウスさんを諦められるの?」  「無理だな」  「自分にできないことを人に押しつけないでよ」  「それもそうだ」  元気づけようとしてくれるトーマのやさしさは春のひだまりのように温かい。空洞だった心が少しずつ温められ前を向く力をくれる。  満月が傾き、星が沈んだ。東の空が明るくなろうとしている。  別れの時間が迫っていた。  「ねぇ、本当にいなくなっちゃうの? ここにいてよ。また僕の愚痴を聞いてよ」  「晃……」  「トーマがいなくなったら、僕は誰に自分の気持ちを打ち明ければいいの? 友だちもいない僕は孤独に耐えるしかないの?」  子どもみたいにみっともなく泣いた。泣きすぎて目が痛い。それでも涙は止まってくれない。  圭吾への想いだけを抱いて一人で生きていくなんて無理だ。愛されたい。抱きしめられたい。  「大丈夫だ、晃」  肩を撫でてくれるトーマの手は温かい。ぐっと強く掴まれて、顔を上げた。  そこには琥珀色の瞳を潤ませているトーマの姿があった。  「晃はたくさんのいいところがある。きっとそれは圭吾自身も気づいている。いまはただ過去にしがみついて、思い出に浸っているだけだ。前を向けるようになれば圭吾も応えてくれる」  「応えてくれなかったら?」  「絶対に大丈夫だ。前世の私が言うんだから間違いない」  胸を張るトーマがおかしい。  (この人は最後まで太陽のように明るい人だ)  あまりの眩しさに目を細めたくなるときもあるけど、晃の進む先を照らしてくれる唯一の光だ。  「トーマに出会えてよかった。たくさん話を聞いてくれてありがとう」  「私こそ晃に出会えて本当によかった。これで死後の世界も怖くない」  「シリウスさんに会えるといいね」  「あぁ、いい土産話ができた」  どちらともなく固い握手を交わした。  最後にトーマは口角を上げた。  「圭吾のことをよろしく頼む」  「うん」  目を瞑ったトーマは力なく布団の上に横たわった。規則的な寝息が聞こえてくる。  窓の外を見ると朝日が昇り始めていた。    三時間ほど仮眠をして、朝風呂に入った。早朝のお陰か誰もいないので泣きはらした顔を見られずに済む  眠気も吹っ飛び、ほかほかと温まった身体で部屋に戻ると圭吾が腕を組んで上がり框の前に立っていた。その顔は険しく機嫌が悪い。  「どこ行ってたんだよ」  「大浴場」  「はぁ? おまえ、なんで危機感ないわけ」  「危機感ってそんな子どもじゃないんだから」  「誰か風呂にいたか?」  「誰もいなかったよ。貸し切りだったし圭吾も行って来れば?」  「いや、いい」  いつも朝起きてシャワーをする習慣があるくせに珍しい。それに危機感だなんて心配性すぎる。もう成人した男なんだから誘拐される心配もないのに。  「じゃあ食堂行こう。お腹減っちゃった」  「あれだけ食ったのにもう腹減ったのかよ」  「圭吾も同じでしょ」  圭吾からぐうと腹の虫の音がして頬を真っ赤にさせていた。  朝食を食べ終わり、身支度を整えてチェックアウトをすると今日も晴天だった。  最高の旅行日和だ。  「最初にロープウェイで大涌谷に行こう」  「いいな」  ロープウェイ乗り場に行くとすぐに乗車することができた。  ぐんぐんと山を登っていくにつれて硫黄の匂いがしてくる。麓は緑が多かったのに頂上が近づくにつれ岩肌が見え、周りを覆いつくしそうな湯気が空に伸びていた。  「昨日トーマに会ったよ」  「……そうか」  「ちゃんと別れの挨拶もできた」  「なんか変なこと言ってなかったか?」  「圭吾のことを頼むって言われた」  「なんだそれ」  窓の外を見ていた圭吾がこちらを見た。感情のない人形のような表情は色んな風に捉えることができる。悦び、怒り、悲しみ、絶望。  圭吾はいま、なにを考えているのだろう。  「ゆで卵の匂いだ!」  ロープウェイを降りると匂いが一層濃くなる。標高も高いせいか空気が薄く感じた。ここで走ったりしたらすぐ酸欠になりそうだ。  ガイドマップを見た圭吾は奥にある大きな建物を指さした。  「あっちに温泉卵があるっぽいな」  「行ってみよう!」  温泉で茹でた卵の殻は墨のように真っ黒だった。けれど殻を割ると見慣れたゆで卵で、その差に驚いてしまう。  「思ったより味に変化ないね」  「そりゃゆで卵はゆで卵だからだろ」  「殻が黒いから期待してたのに」  「まぁ普段は滅多に食えるもんじゃないし、いい記念だろ」  そう言った圭吾は二個もぺろりと食べていた。  小休憩として外にあるベンチに座り、ぼんやりと景色を眺めた。灰色の岩肌の間に煙が舞う。風に乗って硫黄の匂いが混じるが慣れてしまえば気にならない。  「フロント国に似てるな」  なにげない言葉だった。圭吾にしてみればポロリとこぼれたに過ぎない。  けれどそのたった一言が刃になって胸を抉る。  なにがフロント国に似ているだ。  なにがシリウスを愛しているだ。  トーマの言う通り圭吾は嫌な奴だ。こっちの気持ちを知っているくせにやさしくして。だけど時折無邪気な笑顔で刃を突き立ててくる。  立ち上がって岸壁にある柵に身を乗り出した。金網を掴むと手に食い込んで痛い。でも心の方がもっと痛い。  すぅと大きく息を吸った。  「いつまで昔の男引きずってんだよ!」  だよーだよー、と声が岩に反響していく。時間が止まったように周りの人たちが動きを止めた。  「僕がいるだろ! バカ野郎!!」  「晃!」  肩を掴まれ柵から引き剥がされた。ずるずると引っ張られ、人の少ない駐車場の方へ連れて行かれる。  「なにしてんだよ」  「それはこっちの台詞だ。いつまで死んだ人を追いかけてるのさ」  口を開きかけた圭吾だったが言葉が見つからなかったらしく、きつく結ばれた。  「僕も圭吾もいまこの時代を生きてる。もっとよく僕を見てよ」  最愛の人を残して死んでしまったことを圭吾は、いまも悔いている。だから忘れられない。  生まれ変わって違う時代にきたからこそ、他にいい方法があったのかもしれない、と考えてしまうのだろう。  だからシリウスへの想いを晃に重ねた。そうすれば後悔が軽くなるのだろう。そうやって問題を置き換えてずっと生きてきたのだ。  でももういい。圭吾は充分苦しんだ。  シリウスはこんなトーマを望んでいない。   (きっとこれが僕の記憶がない理由なんだ)  記憶を持たないからこそ言える言葉がある。当事者ではない第三者として広い視野を持って圭吾を導いて欲しいとシリウスは願ったのかもしれない。  天国に近いこの場所の空はどこまでも青く澄んでいた。  柔らかい風が頰を撫でて過ぎていく。そのなかに花の香りが混じっているような気がした。  「言いたいこと言ったらスッキリした。お昼ご飯どこで食べようか」  「は?」  目を点とさせた圭吾の頭上には「?」マークが無数に飛んでいる。  「すぐにシリウスさんのこと忘れるのは無理でしょ? そんな簡単な想いじゃないことはよくわかる」  僕もそうだし、と付け加えると圭吾は気まずそうに俯いてしまった。  「だからもうこの話はおしまい。残りの観光もしっかり楽しもう!」  笑顔を貼りつけて圭吾の背中を押した。  泣くのを堪えるのは何度経験しても辛い。  「疲れた」  一日中歩き回り、お土産もたくさん買い込んで脚も腕もパンパンに浮腫んでいる。日頃の運動不足のせいだろう。  同じように座り込んだ圭吾からも疲労の色が滲んでいる。  「カップラーメンでも用意しとくよ。圭吾は先にお風呂入っちゃって」  「いや、晃が先に入れよ」  「え?」  まさかそんなこと言われるとは思わず、聞き返してしまった。  「いつもいの一番に風呂に入る圭吾がどうしたの」  「別に。たまにはいいだろ」  「もしかして僕に気を使ってるの?」  圭吾は視線を彷徨わせて動揺していた。やはりと納得して、胸に芽生えたのは孤独に喘ぐ寂しさだ。  「そんな気を持たせるようなことしないでよ。諦められなくなるじゃん」  「……俺を好きなのを辞めるのか」  「そうだよ。だって報われないってわかってるのに想い続けられるほど僕は強くない」  圭吾を好きになったとき、友だちでいようと決めた。  この安心する距離感を手放したくない。  でもそれじゃ足りなくなってしまった。  シリウスを想うように自分も想われたいと欲が出た。  その身体に触れたい。  熱い抱擁をして欲しい。  欲望は果てしなくどんどん増えていくのに一つも叶えられない残酷な現実にやすりで削られていくように心が摩耗していった。  薄く細くなった「好き」という気持ちを守れるほどの体力がない。いっそ全部手放して楽になりたいとすら思う。  「じゃあお言葉に甘えて風呂入ってくるよ」  熱いシャワーを頭から浴びると段々と冷静になってくる。とても情けないことを言ってしまった。結局は自分が切り替えられないせいなのにその責任を圭吾に押しつけてしまっている。  滝行をする僧侶のようにシャワーを浴びてから出ると身体はほくほくと温かい。すぐにパジャマを着る気になれずパンツ一丁で台所に行くと圭吾がやかんでお湯を沸かしてくれていた。  「ラーメンと焼きそばどっちがいい?」  「焼きそばかな」  「てかおい! 服着ろよ」  「だって暑いんだもん」  タオルで拭いてもまだ水滴が身体に残っているような気がしてすぐに服を着る気になれない。完全に乾いた状態じゃないと気持ち悪いのだ。  そんなこと昔から知っているだろうに圭吾は目元を手で覆っている。  「無防備すぎんだろ」  「減るもんじゃないし別にいいじゃん」  「おまえ、本当に俺のこと好きなんだよな」  「……そうだけど」  また傷口に塩でも塗られるのだろうかと身構えると圭吾は唇を噛みしめている。  「俺だってなおまえの裸見て、どうも思わないわけじゃないんだからな!」  「どうしたの、急に?」  「俺は男だ。スケベなことがしたい健全な男なんだよ。それなのにいっつも風呂出たら裸でウロウロされて落ち着くわけないだろ」  「だって圭吾はシリウスさんが好きなら僕の裸なんてどうでもいいでしょ」  「おまえな」  圭吾は呆れたように口をあんぐりさせていた。なにか間違ったことを言ったのだろうか。  ごほん、とわざとらしい咳払いを一つして圭吾は目元の手をどけた。目の縁が赤く染まっている。  「じゃあ俺が裸でウロウロしてたらどうだ」  「それは」  昨日のことを思い出し、ぼんと頭から湯気が出た。湯船に一緒に浸かることすら無理だったのに圭吾の裸体を目の前にして平静でいられる自信がない。  「でもそれは圭吾のことを好きだからだよ。別に僕のことなんてどうでもいいんでしょ」  一気にまくしたてると圭吾は「あ?」と凄んできた。琥珀色の瞳が猛獣のような鋭さを秘めている。  あまりの気迫に頭を下げた。  「えっと、ごめんなさい。すぐ服を着ます」  「わかればいいんだよ」  慌てて洗面所に戻りパジャマを着た。  夕飯も食べ終わり、ポストに溜まっていたエアメールを整理していると退去のお願いというハガキが目についた。  「そっか、もうすぐここを出なきゃね。圭吾は部屋見つけた?」  「は? なんで」  「卒業したら一緒に住まないって言ってたじゃん。だから更新しないことにしたんだよ」  「……そうだったな」  「もしかして忘れてたの?」  問い詰めてはっとした。圭吾はトーマと入れ替わったりして大変な想いをしていたのだ。その間に部屋を探す余裕なんてなかっただろう。  「晃は部屋もう決めてんの?」  「一応ね。会社から近いとこ」  「だからこの前大掃除してたのか」  「圭吾も早めに探さないと困るよ」  できるだけ冷たい言い方にならないように気をつけた。言外に圭吾のせいだと思わせたくない。  それもこれも自分の意志が弱くてちゃんと向き合えなかったからだ。  友だちでいいなんて臆病を塗り固めてできたような思想に頭のなかを占拠させ、一歩踏み出すのが遅すぎた。  でももっと早くても結果は同じだったのだろう。  結局は過去の幻影に勝てっこないのだ。  命をかけて恋をしたことがない晃には無謀な恋だったのだ。  「……そうだよな」  一人ごちる圭吾の言葉は雪のように儚くて、手で触れたら消えてしまいそうだった。

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