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EP4.琥珀の檻、藍の聖域

 繁華街の地下に潜むクラブには、安っぽい酒と重たい紫煙、そして誰かの体温を掠め取ったような香水の匂いが、(おり)のように沈殿している。  友人に請われ、気乗りしないままその場に身を置いていた羽瑠矢は、重低音に身体を揺らす男女の群れを遠目に、グラスの中の琥珀色の液体を静かに揺らしていた。  時折、誘うように身体を寄せてくる女を適当にいなし、壁際の隅にあるテーブルで独り、煙草と酒の苦味を反芻する。  今までなら、こんな退屈に耐えきれなくなる前に智紘を呼び出していただろう。智紘はたとえ女と睦み合っている最中であっても、羽瑠矢の招きを拒んだことは一度としてない。  けれど、今はその気になれなかった。脳裏を掠めるのは、寄り添い合う智紘と路央の姿。これまでの「人形遊び」とは違う、どこか平穏な二人の光景。あいつは、今度こそ変わろうとしているのではないか。そんな、期待にも似た淡い予感が羽瑠矢の胸を支配していた。  その時、入り口の喧騒を割って一人の男が姿を見せた。遠目からでも目立つ長身、人を惹きつけてやまない不遜な存在感。――智紘だ。  智紘は、当然のように脇に女を連れていた。絡み合うように身体を寄せ、手にした酒を口に含むと、そのまま女と唇を重ねる。  羽瑠矢は、肺の底からせり上がる溜息を必死にこらえた。  しばらくして、隅に陣取る羽瑠矢に気づいた智紘が、ぱあっと顔を輝かせて寄ってくる。その傍らには、先ほどとはまた別の女が寄り添っていた。 「羽瑠矢!気づいてたなら声かけてよ」 「……いや、今気づいた。おまえ、なにしてんの」 「なにって、遊びに来たに決まってるじゃん」  智紘が当然の権利を行使するように、連れの女を従えて同じテーブルに腰を下ろす。その瞬間、羽瑠矢の口に含んでいた酒は、急激に泥水のような不味さに変わった。  羽瑠矢が冷ややかな視線を女へ向けると、すべてを察した彼女は「飲み物持ってくるね」と席を立った。  二人の空間になった途端、羽瑠矢は声を抑えて問い詰める。 「……路央はどうしたんだよ」  智紘は、心底不思議そうに首を傾げた。 「路央? 順調だよ。大学でもよく会ってるし。そろそろヤらせてくれるかも」  暢気な、どこまでも他人事のような顔で宣う男。  羽瑠矢は忘れていた。智紘という男は、人間が持って生まれるべき倫理観や情緒が決定的に欠落しているのだ。どれほどの愛を注がれても、その器の底には巨大な穴が空いていて、何一つ満ちることはない。  羽瑠矢の視界が、ぐらぐらと眩暈に支配される。  助けを求めるようにフロアへ目を向けると、以前何度か遊んだことのある女の姿が見えた。羽瑠矢は椅子を蹴るようにして立ち上がる。 「俺、行くわ」 「え、もう? 俺まだ一口も飲んでないのに」  不満げな、赤子のように無垢な瞳がこちらを見上げている。出会ったあの日から、何一つ変わることのない、透明で残酷な光。  羽瑠矢は感情を押し殺した声で、突き放すように告げた。 「お互い、楽しもう」  行き遭った女の肩を抱き、逃げるように夜の繁華街を抜ける。晩春の湿り気を帯びた夜気は、火照った肺の中をしんと冷やした。  自宅マンションに入り、部屋に女を招き入れる。  女がシャワーを浴びに行き、静まり返った部屋でどうしようもない焦燥に駆られた羽瑠矢は、窓を開けて煙草を一本取り出し、火を点けた。  紫煙の向こう、無言で自室を見渡す。  窓から、やわらかく、少しひんやりとした風が吹き込んできた。  ――あの日も、こんな風が吹いていた。  ◇  その夜、羽瑠矢は母に届け物をするため、独り夜の繁華街を歩いていた。  母は高級クラブの名物ママであり、ホステス上がりから身を立てた、界隈でも名の知れたやり手の経営者だった。  用件を済ませ、足早に喧騒を抜ける。街の中心を縦断する公園へ、近道のために足を踏み入れた。  誰とも目を合わせないよう、小走りで通り過ぎる。夜の公園は、客を求める女たちと、彼女らを品定めする男たちの醜悪な取引場だ。母からは「夜はここを通ってはいけない」ときつく釘を刺されていた。  ふと、視界の端に既視感のある影を捉えた。  自分と同じ、名門中学の制服。子供ながらに完成された、端正な横顔。  クラスメイトの玖我智紘が、独りベンチに腰掛け、無表情にスマホを弄っていた。  こんな時間に、何をしているのか。  首を突っ込まない方が身のためだと踵を返そうとした、その時。  中肉中背の、脂ぎった男が智紘に声をかけた。指を二本立て、下卑た笑みを浮かべて何かを囁いている。  羽瑠矢の身体は、思考よりも先に動いていた。  智紘の細い腕を掴み、渾身の力で引っ張る。 「走れ!」  彗星のように現れた少年に、智紘は一瞬だけ目を丸くしたが、拒むことなく羽瑠矢の足並みに合わせて駆け出した。  そのまま駅の反対側まで一気に走り抜け、羽瑠矢の自宅マンションへ滑り込む。  玄関の鍵を閉め、ようやく一息ついた。 「あー……疲れた。おまえ、あんなところで何してたんだよ」  当の智紘は、平然としていた。乱れ一つない呼吸が、どこか憎たらしい。 「今日泊めてくれる人を探してた。……邪魔が入っちゃったけど」  何の起伏もないその言葉に、羽瑠矢は愕然とした。とんでもない面倒に首を突っ込んでしまったのだと、冷や汗が流れる。 「あー……ああいうこと、よくやってんの?」 「いや。今日が初めて」  羽瑠矢は改めて、智紘の顔をまじまじと見つめた。  智紘の端正な面形(おもて)には、何の感情も、何の意志も乗っていない。羽瑠矢には、それが精巧に作られた「空っぽの人形」のように見えて、一瞬、背筋が凍るような戦慄を覚えた。  智紘をソファに促し、野暮を承知で問いかける。 「……親が心配するだろ。帰んなくていいのかよ」  智紘は少しだけ首を傾げて考えた後、明日の天気でも予報するように淡々と言った。 「それはないと思う。父親も母親も、それぞれの恋人のところにいるから、家のことは顧みないし」  羽瑠矢は再び絶句した。掘り下げるべきではないと本能が警告するが、問いは止まらなかった。 「え、じゃあ……いつも家に一人なの?」 「一応、兄弟はたくさんいるけど、あまり仲は良くない。みんな、父親や母親がバラバラでさ。腹違い、種違いって言うのかな」  だから家は落ち着かない、と零す智紘に、悲壮感は微塵もなかった。しかし、その口から語られる凄惨なまでの家庭環境は、幼い羽瑠矢にもわかるほど異常だった。  羽瑠矢は、唐突に激しい悲しみに襲われた。  この少年は、その異常を「おかしい」と思うことすら許されないまま、それを日常として飲み込んできたのだ。自分が当たり前に享受している親からの愛情を、こいつは知らないまま生きてきたのか。  智紘の横顔を見つめていると、正体不明の熱い感情が胸を突き上げてきた。それは単なる同情か、あるいは弱者を放っておけないという幼稚な正義感か。  どちらでも構わなかった。ただ――。 「ねえ。……うちにいなよ」  気づけば、言葉が溢れていた。  智紘の表情が、初めて劇的に変わった。予想だにしない一打を食らったような、戸惑いの顔。 「うち、母親と二人なんだけど。母さん、夜は働いてるからいつも俺一人なんだ。……だからさ、家にいたくない時は、ここに来てよ」  キモいおっさんの家に行くよりはマシだろ、とおどけて見せると、智紘は初めてその仮面を崩した。  はにかんだような、無垢な花が綻ぶような、柔らかな笑顔。  それ以来、智紘は家を飛び出すたびに羽瑠矢の元を訪れるようになった。  二人で夜の街へ繰り出すこともあれば、青い暗闇が満ちる部屋で、言葉もなくただ身体を寄せ合って過ごすこともあった。  そうして二人は、世界中の誰にも侵されない、二人だけの歪で聖なる「檻」を築き上げていったのだ。

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