5 / 23

EP5.福音の指先

 新緑が爆発するように芽吹き、独特の青臭い匂いが鼻をつく季節。  羽瑠矢が遅めのランチを取ろうと学食へ足を運ぶと、カフェテラスのパラソルの下、不自然なほど静止している人影を見つけた。路央だった。  五月とは思えないほど気温が上がり、アスファルトからは陽炎が立ち上っている。それなのに、彼は流れる汗を拭おうともせず、ただ一点を見つめて凍りついたように動かない。  羽瑠矢は足音を殺して近づき、つとめて穏やかな声を掛けた。 「路央。大丈夫か?」  路央が、錆びついた機械のような動作でゆっくりと顔を上げる。先日会った時の、あの虚勢を張ったような輝きは消え失せ、大きな瞳は泥を沈めたように濁っていた。 「園、くん」 「羽瑠矢でいいよ」  羽瑠矢は路央の隣に腰を下ろし、結露したアイスコーヒーをその冷え切った手に押し付けた。  黙って受け取った路央の横顔は、やはりどこか鬼気迫っている。それはまるで、見えない誰かにこめかみへ拳銃を突きつけられているような、絶望的な緊張感だった。  羽瑠矢は逃げ場を塞ぐように、あえて直球を投げた。 「最近さ。智紘と一緒にいるところ、見ないね」  飾り気のない、けれど核心を突く言葉。路央は自嘲気味に、力なくはにかんだ。 「……もう、俺に興味なくなっちゃったのかな」  そう語る路央の瞳には、失恋の悲しみよりも、もっと切実な「焦燥」が滲んでいた。 「路央さ。……おまえ、本当に智紘のこと好きなの?」  路央の表情が、初めて劇的に変わった。弾かれたように目を見開き、羽瑠矢を凝視する。 「なんで、そんなこと」 「俺、わかるんだよねー。そういうの」  わざと軽薄な調子で言ってみせると、路央は糸が切れたように視線を落とし、何かに絶望したように瞼を閉じた。  長い沈黙が、熱を帯びた空気の中に満ちる。  やがて、路央は覚悟を決めたように顔を上げ、震える唇を開いた。 「……俺、ゲイなんだ」  いっそ清々しいほどの告白に、羽瑠矢は拍子抜けしたように息を吐いた。 「お、おう。……そうか」 「眞壁建設って、知ってる?」  唐突に投げかけられた社名。羽瑠矢は水を差さず、ただ静かに相槌を打った。 「うん。超大手のゼネコンだよな」 「うち、あそこの経営者一族なんだ」  路央の口から語られた真実は、あまりに重く、湿っていた。  眞壁グループの頂点に君臨する女傑――路央の祖母。その長男の息子として生まれた彼は、幼少期から「未来の社長」という役割を完遂すべく、己を殺して期待に応え続けてきた。自分が男を好む性質であることは、一生墓まで持っていく覚悟だったという。 「俺が甘かったんだ。ちょっといいなと思っていた人とデートしているところを、興信所に撮られた。……祖母にバレたんだ」  一族の動向を冷徹に監視する祖母の眼。ただ手を繋ぎ、少し身体を寄せただけ。けれど、それだけで路央の「価値」は地に落ちた。  祖母は言った。一族を追放されるか、それとも玖我智紘に近づいてコネクションを作ってくるか、どちらか選べと。男が好きなんだから、お前にとっては簡単な仕事だろう、と。  玖我家は旧財閥の傍系。政財界に張り巡らされたその根は、眞壁のような新興勢力にとっては喉から手が出るほど欲しい「盾」だ。  祖母からの恐喝まがいの命に従い、路央は自分という人間を封じ込めて、智紘に近づいた。 「はじめから、俺を選んでもらえるなんて思ってなかった。ただ、将来的にうちの会社との繋がりになれば、それで……」  そこで、路央は言葉を詰まらせた。その顔には、未知の深淵を覗き込んでしまった時のような、薄い恐怖が張り付いている。 「でも、智紘くんは……何を考えているのか、全くわからなかった。全員に興味があるような顔をして、その実、誰のことも見ていない。……あんなに綺麗な目をしてるのに、中身が、何も……」  羽瑠矢は、路央の震える告白を黙って受け止めた。 「ごめん。羽瑠矢くんはあいつの友達なのに。こんな話、不愉快だよな」  今すぐ智紘に告げ口しても構わない。そう言って首を落とされるのを待つ罪人のように、路央は悲痛に顔を歪めた。  羽瑠矢は、あえて硬い口調で口を開く。 「正直に言うけどさ」  路央が、きゅっと強く目を瞑る。 「智紘は、真性のクズだよ。あいつのことなんて、どれだけ考えてもわかるわけないから、気にしなくていい」  路央が、驚いたように目を開けて羽瑠矢を見た。  羽瑠矢はそのまま、壊れ物を扱うような優しい声音で続けた。 「おまえの家の事情、部外者がとやかく言えることじゃないのはわかってる。けど、これだけは言わせて。……お前のばあちゃん、クソだよ」  路央は一瞬、呆然と固まった。やがて、我慢しきれないというように吹き出す。 「……ははっ、めっちゃ言うじゃん」  声を上げて笑う路央に、羽瑠矢もつられて口角を上げる。  ひとしきり笑い、空気が少しだけ軽くなった後、羽瑠矢は真っ直ぐに路央を見つめた。 「路央がこれからどんな選択をするかは、俺にはわからない。けど、一つだけ確かなことがある」  羽瑠矢は、祈るような真剣さで言葉を紡ぐ。 「家族の誰もがおまえを突き放しても、いつか必ず、路央だけを、そのままの路央を受け入れて一緒に歩んでくれる奴が見つかる。絶対だ」  路央が、息を呑んで羽瑠矢を見つめ返す。その大きな瞳には、今にも溢れ出しそうな水の膜が張っていた。 「……そんな奴、本当に、見つかるかな」 「絶対に見つかる。だって、路央はいい奴だもん。いい奴には、いい奴が寄ってくる。そういう法則なんだよ」  そして「クズには、俺みたいなクズが寄ってくるんだ」と、羽瑠矢は軽く笑ってみせた。  路央の顔に、再び笑みが咲いた。  それは、張り詰めていた糸がふっと解けたような、生身の人間らしい、やわらかな笑みだった。

ともだちにシェアしよう!