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EP6.驟雨の産声
梅雨入りを告げるしっとりとした空気が、重く肌にまとわりつく季節。
講義の合間、智紘と羽瑠矢は連れ立って構内を歩いていた。二人が並べば、摩法をかけたように人波が割れ、羨望と好奇のまなざしが突き刺さる。それは智紘にとって、呼吸と同じくらい無価値な日常だった。誰に何を思われても、彼の心は凪いだままで、微塵も動くことはない。
「あ」
不意に、隣を歩く羽瑠矢が声を上げ、迷いのない足取りで方向を変えた。その先には、路央がいた。
智紘には「別れた」という明確な記憶はない。ただ、路央からの連絡が途絶え、自分もそれを追わなかった。それだけのことだ。
羽瑠矢が路央の肩に親しげに触れ、何かを囁く。路央が顔を上げ、花が綻ぶような、はにかんだ笑みを見せた。
(あの表情、見たことないな)
智紘の胸の奥を、冷たい針がかすめる。
「路央、これあげる。おまえ、食べたいって言ってただろ」
羽瑠矢がポケットから取り出した菓子を差し出すと、路央の瞳が子供のように輝いた。
「え。これどこも売り切れだったのに。どうしたんだよ」
「今日、水瓶座一位だから、買えた」
「それ言ってる人、久々に見た」
笑い合う二人。羽瑠矢がつられて零した笑い声は、智紘がよく知っている、けれど自分にしか向けられないはずの「熱」を帯びていた。
「きみたち、そんなに仲良かったっけ?」
ぽろりと零れ落ちた智紘の疑問に、二人は顔を見合わせ、楽しそうににやりと笑ってみせた。
「まあ、ね?」
「俺たち『いい奴』同士だからさ。自然と、な」
二人にしか通じない符牒で会話をしているような、猛烈な疎外感。
智紘の胸のあたりが、ざわざわと落ち着かなく波打った。喉の奥がじりじりと焼けるような、正体のわからない、じれったい感覚。
(なんだこれ。羽瑠矢に友達ができたのが、嫌なのか)
そんなはずはない。羽瑠矢には昔から友人が多く、智紘はそれをずっと傍観してきた。今更、他人が増えたところで何も思わないはずだ。
智紘は、脳内に沸き起こるまとまらない思考を「雑音」だと切り捨て、いまだに親密そうに囁き合う二人を置き去りにして、足早に歩き出した。
◇
ある夜。ベランダで煙草を燻らす羽瑠矢のスマホに、路央からの着信が入った。
「相談て、どしたん?」
「最近、智紘くんが急に距離を詰めてくるんだよ。あんなに俺に興味なさそうだったのに」
路央の声は困惑に震えていた。すっかり縁が切れたと思っていた智紘が、近頃、校内で声をかけてきたり、頻繁に連絡を寄越したりしているらしい。
「今日なんて、急にいい雰囲気になって、キスされそうになったんだよ。いくら中身がクズでも、あの顔で迫られると、悪い気はしないだろ」
路央の調子の良いボヤキを聞きながら、羽瑠矢はここ数週間の出来事を苦く反芻した。
繁華街のホテルに、智紘が羽瑠矢と「良い仲」だった女を連れ込む姿。別の夜には、羽瑠矢の馴染みの女が、智紘の背中と思わしき写真をSNSに上げ、すぐに消した。
(好き勝手やるのも、いい加減にしろよ)
羽瑠矢は奥歯を噛み締め、冷たい夜気に目を細めた。
◇
その日は、叩きつけるような土砂降りだった。
羽瑠矢は、古びた安普請のサークル棟に足を踏み入れた。最上階の突き当たり。建付けの悪い扉の先にある「花札愛好会」という名の、二人だけのたまり場。
扉を開けると、智紘がソファに寝そべり、退屈そうに本を開いていた。
「おー」
「お疲れ」
羽瑠矢は向かいの椅子に腰を下ろし、適当にスマホを弄る。重苦しい沈黙が、雨音と共に室内を支配していく。
唐突に、羽瑠矢が口を開いた。
「智紘、おまえ。何がしたいんだよ」
智紘が本から視線を上げ、心底わからないという顔をする。
「何って、なに?」
「とぼけんな。ミクちゃんにエミ……おまえと寝たって、俺に自慢してきた」
智紘は女たちの名前を反芻するように目を泳がせたが、結局、思い出せなかったようだ。
「……まあ、俺とおまえが穴兄弟なのは、今に始まったことじゃないから、いいけどさ。路央は、違うだろ」
路央の名が出た瞬間、智紘の顔色が変わった。
「路央がなんだよ。俺たち、恋人同士なんだから普通だろ」
「路央はそう思ってない。その気もないのに、中途半端に近づくのやめろ」
智紘が弾かれたように身を起こした。
「……はあ? おまえ、何なの。路央のこと好きなの?」
「そういうことじゃないって。……路央はいい奴なんだから。俺たちみたいなクズの側に、あいつを引きずり込んじゃダメだろ」
智紘の頬が、カッと赤く染まった。眉を吊り上げ、剥き出しの感情を顔に乗せる。羽瑠矢は、智紘のそんな「人間らしい」顔を、出会ってから一度も見たことがなかった。
「おまえも同類な癖に、何言ってんの?今までずっと傍観してきただろ!」
放たれた智紘の言葉は、鋭い礫となって羽瑠矢の胸を正確に貫いた。
羽瑠矢の顔から、みるみる血の気が引いていく。
そうだ。俺はずっと、こいつを見守っているふりをして、ただ「傍観」していただけだ。一番近くに居ながら、こいつが壊れていくのを、歪んでいくのを、何一つ止めようとしなかった。
真っ青になった羽瑠矢の顔を見て、智紘の胸の奥が、今までで一番激しく、嫌な音を立ててざわついた。
(まただ。羽瑠矢を見ると、俺の……中身が、おかしくなる)
智紘は耐えきれなくなったように立ち上がると、一言も発さず部屋を飛び出した。
開いたままの扉から、激しい雨音に混じって、規則的な足音が遠ざかっていく。
古びた部室の中。屋根を打つどしゃ降りの音だけが、耳を潰さんばかりに響き渡る。
羽瑠矢は雨の檻に閉じ込められたように、しばらくそこから一歩も動くことができなかった。
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