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EP7.盛夏の残光

 梅雨が明け、街は暴力的なまでの陽光に包まれた。浮き足立った人々が通りに溢れ出す、羽瑠矢にとってはひどく暑苦しい季節の到来だった。  昔から夏が嫌いだ。冷房の壊れた狭い和室で、うだるような熱気に灼かれながら、ただ身体を丸めて耐えていた幼い記憶が、汗と共に滲み出してくるから。  羽瑠矢は、もう一ヶ月近く智紘とまともに言葉を交わしていなかった。  時折、学内で見かける智紘は、常に違う女を傍らに侍らせていた。その佇まいは以前にも増して鋭利で、まるで研ぎ澄まされた刃物が鞘も持たずに歩いているような、危うい静謐さを纏っている。  羽瑠矢は、智紘が隣にいないこと以外は、いつも通りの日常を演じ続けていた。講義を受け、友人たちと中身のない会話で時間を潰し、行きずりの女で渇きを癒やす。  何度か足が向いた部室に、智紘の姿は一度としてなかった。 「冷たいものが、歯に染みるんだよね」  アイスバーを舌先で転がしながら、路央がぼやいた。 「それ、知覚過敏だろ」  羽瑠矢は自分のアイスを豪快に噛み砕き、少し低い位置にある路央の顔を見て笑った。 「そう。だからさ、ドロドロに溶けるまで待ってから食べるのが好きなんだ」 「それはもうアイスである必要なくね?」  智紘が抜けた心の穴を埋めるように、羽瑠矢は路央と過ごす時間が増えていた。路央は真っ直ぐで、眩しいほどに溌剌とした「いい奴」だった。彼といると、淀んだ思考が一時的にせよ晴れるような気がする。 (友人ってのは、本来こういう風に、対等で、明るいものであるはずだよな)  自分に言い聞かせるように、羽瑠矢は路央との他愛ない対話を繋いだ。 「そういえば」  路央が思い出したように言葉を継いだ。羽瑠矢が視線で先を促すと、彼は至極あっさりとした調子で告げた。 「智紘くんに近づくの失敗したっておばあ様にバレてさ。家、追い出された」  羽瑠矢は動きを止め、路央の顔を凝視した。当の本人は、けろりとした顔でアイスを舐めている。 「行く当てもないし、大学も辞めるしかないかなって思ったんだけど。昔から良くしてくれてた分家の親戚が助けてくれてさ。しばらく居候させてもらって、学費も援助してくれることになったんだ」  よかったー、と声を上げて笑う路央の表情に、卑屈な影は微塵もなかった。 「……大変だっただろ。声かけてくれればよかったのに」  路央が羽瑠矢を見上げた。猫のような瞳が、真夏の光を反射して爛々と輝いている。 「ちょっとヤバいかもって思ったけどさ。羽瑠矢くんの言葉を思い出したんだよ。『俺はいい奴だから大丈夫だ』ってさ」  そしたら本当に、いい人が助けてくれた。そう言ってはにかむ路央を見て、羽瑠矢は胸を突くような感動に包まれた。  路央は、強い。たとえ理不尽に叩きつけられても、自らの足で立ち上がり、光の方へ歩き出すことができる。その強さに惹かれ、人々は彼に手を差し伸べるのだ。 「羽瑠矢くんのおかげだよ。……本当に、ありがとう」  純粋で、一点の曇りもない感謝。羽瑠矢はその言葉を、まともに受け止めることができなかった。  ――自分は、こんな澄んだ瞳で見つめられるような、価値のある人間なのか?  刹那、脳裏に智紘が浮かんだ。  空っぽの瞳、空っぽの器。何も持たず、ただそこにあるだけの「欠落」そのものの男。  自分はあいつの穴を塞ごうとしたことがあったか。あいつに、命を吹き込もうと足掻いたことがあったか。  指先が、じんとしびれる感覚に襲われる。それは焦燥か、あるいは今すぐどこかへ走り出したくなるような、暴力的な衝動だった。  ◇  講義が終わり、路央と共に席を立った時だった。  教室の扉が勢いよく開き、羽瑠矢の友人が肩を震わせて飛び込んできた。 「羽瑠矢! 玖我がヤバい!」  息を呑む羽瑠矢の腕を掴み、友人がまくしたてる。  智紘の新しい彼女の元カレだという大男が突然現れ、いきり立ったまま智紘の頭を殴りつけたらしい。通りかかった友人たちが騒ぎを収め、ふらつく智紘を救護室へ運んだのだという。 「相手、格闘技やってるらしくてさ。救急車と警察呼ぼうとしたんだけど、本人が絶対やめろって聞かなくて」  そばにいてやってくれ、という友人の声が、水に潜った時のように遠のいていく。  ずっと、隣で見てきたはずだった。  いくつものきっかけを見過ごし、あいつを「人間」に引き戻す努力を怠ってきた。これ以上あいつに関われば、智紘は、そして自分は、もう二度と戻れない場所へ墜ちてしまうのではないか。  まとまらない思考が渦巻き、指先が微かに震える。  その時、肩にひんやりとした感触があった。  振り返ると、路央がそこに立っていた。その瞳には、射抜くような強い意志が宿っている。 「早く、行って」  路央の静かな声が、無音だった羽瑠矢の世界に色彩を連れ戻した。  慌てふためく友人、好奇の目を向ける野次馬たち。それら全てを置き去りにして、羽瑠矢は顔を上げた。  路央の頭を一度だけ乱暴に撫で、笑う。 「ありがと。……おまえ、本当にいい奴」  それだけを残し、羽瑠矢は風のように教室を飛び出した。  路央は、遠ざかる背中をじっと見送りながら、眩しそうに目を細めた。 「あーあ。いい奴止まりか」  独り言は、真夏の空気に溶けて、誰にも届かずに消えた。

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