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EP8.地獄の特等席
友人の背を追って駆け込んだ救護室。
勢いよく扉を開けると、そこには湿った沈黙と、ベッドに腰掛けた智紘がいた。側頭部に大きな氷嚢をあてがい、場違いなほど静かに座っている。
その表情は、いつもの通りだった。痛みも、苦しみも、驚きも介在しない、ひたすらに平坦な「無」。
羽瑠矢の姿を認めると、智紘がゆっくりと顔を上げた。何も映さない、光を吸い込むだけのような空虚な瞳。
その瞳を見た瞬間、羽瑠矢の胸の内で何かが爆発した。全身の血が沸騰し、心臓が肋骨を突き破らんばかりに跳ねる。居ても立っても居られない、どうしようもない衝動。
「智紘。頭、大丈夫なのかよ」
声を絞り出すのが精一杯だった。智紘は無表情のままわずかに首を傾げ、薄く口角を上げる。
「そんな大事じゃないよ。てか、その言い方だと、俺が頭おかしくなったみたいじゃん」
「間違ってないだろ」
「確かに」
智紘が小さく笑う。今までと、何一つ変わらないやり取り。
けれど、智紘はふっと笑みを収めると、奈落の底から響くような声で言った。
「……『おまえも』、俺から離れていったと思っていたんだけど」
違うのか?と、射抜くような、試すような視線。
その刹那、羽瑠矢は自分の中に猛烈な「怒り」が燃え広がるのを自覚した。考えるより先に、熱を帯びた言葉が溢れ出す。
「……そんなわけねーだろ! おまえがそばにいない間、毎日毎日、おまえのことばっか考えてたわ!」
クソが、と汚く吐き捨て、荒い息を吐く。感情を剥き出しにした羽瑠矢の姿に、智紘が初めて、子供のように目を丸くした。
「……俺のこと、もうどうでもいいんじゃないの?」
呟く声は、迷子になった子供のように弱々しい。
(……こいつ、自分が『捨てられたくない』って顔してること、気づいてないのか)
羽瑠矢は喉の奥で呪詛を吐き、ずかずかと智紘に詰め寄ると、その隣に乱暴に腰を下ろした。額が触れ合うほどの至近距離。互いの呼吸が混じり合う。
「俺はさ、決めたんだよ。おまえが、からっぽじゃなくなるまで。本当の愛を知るまで。……ずっと隣で、おまえを見ててやる」
羽瑠矢の瞳には、逃れられない呪いのような決意が宿っていた。
その瞬間、智紘は未体験の感覚に全身を支配された。めぐる血液の温度がほのかに上がり、瞳が温かな水分で潤んでいく。この不快なはずの「煩わしさ」を、不思議と拒絶したくない自分に驚きを覚えていた。
ただ、この男から、ひと時も離れてはいけない。本能がそう告げていた。
二人は静かに目を閉じ、寄り添う。
冷房の効いた救護室。触れ合う肌だけが、真夏の白昼のように熱を孕んでいた。
◇
「えーっと。これ、どういう状況?」
陽光が燦々と降り注ぐ、昼下がりの学食。
トレーに乗ったおろし蕎麦を抱え、路央は「礼儀として」この不可思議な光景にツッコミを入れた。
目の前では、羽瑠矢が蕎麦を啜り、その隣に智紘が座っている。配置こそ以前と同じだが、距離感が致命的に狂っていた。
少しの隙間も許さないと言わんばかりに、智紘は羽瑠矢の左腕に自分の身体をべったりと密着させている。羽瑠矢は羽瑠矢で、当たり前のような顔で智紘の口に漬物を放り込み、智紘もまた、スマホをいじりながら雛鳥のようにそれを受け入れている。
「お、路央。お疲れ」
顔を上げた羽瑠矢が、ほんのりと笑みを浮かべる。食べているのは安い蕎麦だというのに、相変わらず暴力的なほどの色気の塊だ。
路央は、自分の心臓が性懲りもなく跳ねるのを感じながら、向かいの席に腰を下ろした。
「……仲直り、できたみたいで良かったね?」
一応、元恋人にも声をかける。智紘は「おまえ、いたの?」と言いたげな顔で路央を一瞥した。そして、今となっては精巧な作り物だとわかる『王子様スマイル』を浮かべる。
「ありがとう、羽瑠矢から聞いてるよ。路央のおかげだ。……本当に、『いい奴』だね」
(……悪意だ。これ、100%悪意がある)
路央が宝物のように大切にしている「羽瑠矢からの言葉」を、わざと引用して突き刺してくる。この人間らしさの欠片もない男を前にすると、路央は冷静ではいられなかった。
言い返そうと身を乗り出した瞬間、「智紘くん」と細い声が響いた。
小柄な女子と、その取り巻き数人。先頭の女子が、涙で目を潤ませて詰め寄る。
「なんで連絡返してくれないの? 今日、デートの約束してたじゃん!」
智紘は一瞬、記憶のディレクトリを探るような顔をしたが、すぐに晴れやかな笑顔で言い放った。
「うん、ごめん。きみに興味なくなっちゃったから、別れよ?」
沈黙。直後、学食は阿鼻叫喚の地獄と化した。泣き喚く女子、罵声を浴びせる取り巻き、ニヤニヤと集まる野次馬。
路央はげんなりとして頭を抱えた。
「……別れるの下手くそかよ」
「だって、今まで別れ話なんてしたことないし」
今までの智紘なら、来る者いっさい拒まず、去る者いっさい追わず。こんな「清算」という手間のかかる真似は絶対にしなかったはずだ。
(今日、地球が終わるのか?)
路央が震える手で蕎麦を啜り、羽瑠矢に目を向けると、彼は首を傾げつつも平然としていた。
「……よくわかんねーけど、下手くそな女遊びは辞めたらしい」
羽瑠矢は蕎麦を平らげると、スマホを取り出して智紘と覗き込み始めた。周囲の騒動など、彼らの網膜には映っていないらしい。
「智紘、見てこれ。ウケる」「意味わかんねー」一つの画面を共有し、顔を寄せ合ってクスクスと笑い合う二人。
路央は地獄から逃げ出すべく立ち上がり、確信を持って思った。
(いちゃついてるようにしか見えねー)
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