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EP9.爆ぜる器、熱の在り処
湿り気を帯びた夜の空気が、肌にまとわりつく。
智紘は仕立ての良いジャケットを羽織り、会員制の懐石料理屋の暖簾をくぐった。女将が智紘の姿を認めると、一言も発さず、奥の意匠を凝らした個室へと案内する。
襖が開かれると、上座には男が一人、不遜に座っていた。老齢に差し掛かりながらも、そのギラギラとした眼光に衰えは微塵も感じられない。若かりし頃はさぞや世の女を狂わせたであろう、整った、けれど冷酷な顔立ち。
「おじい様。ご無沙汰しております」
祖父と呼ばれるその男こそ、玖我家の現当主である。男は入ってきた智紘を見て、満足げに破顔した。手を招き、向かいの席へ座るよう促す。室内には、智紘の腹違いの兄弟たちも数人、所在なげに座っていた。ほとんど言葉を交わしたこともない、血の繋がりだけがある他人。
かくして、歪な一族の食事会が幕を開けた。
祖父は、美しい孫の姿を肴にしながら、終始上機嫌に盃を傾けた。智紘は四男に過ぎないが、その容姿は兄弟たちの誰よりも祖父の若い頃に酷似していた。
「お前は、私に本当によく似ている。これぞ、玖我家の混じり気ない血だ」
兄弟たちを一人一人見比べては、あれは良い、ここは駄目だと品評する祖父。その視線は、自分が金を出して産ませた仔馬の出来栄えを値踏みしているかのようで、智紘は内心、激しい反吐を覚えていた。
宴もたけなわかと思われた頃、祖父が側近に微かな合図を送った。横から恭しく差し出されたのは、一つの釣り書。開けば、旧華族の血を引く名家の名と、一枚の女性の写真。無垢で、穢れなど一切知らなそうな、残酷なほどに清純な面持ち。
「お前もとうに成人を過ぎたのだから、そろそろ一人目の妻を迎え入れよう。なに、形だけで構わない。家同士を繋ぐことに意味があるのだから」
祖父や父のように、正妻は正しい血筋から娶り、脇で誰に何人産ませても構わないというのか。自分も、この終わりのない地獄のような「繁殖」の鎖に繋がれるというのか。
智紘は、本気で吐き気をもよおした。胃の底からせり上がる酸っぱいものを堪え、祖父に断りを入れて席を立つ。小走りで手洗いに駆け込み、便器に顔を寄せた。酒と憎悪の混じった胃液を全て吐き出し、顔を上げる。鏡には、青ざめた、からっぽな男の顔が映っていた。
(……何も持たない、何も映さない。ただの器)
そう言ったのは、誰だったか。
その時、脳裏に一人の男の顔が鮮明に浮かんだ。
羽瑠矢。智紘が中身を得るその時まで、隣にいると言った男。
智紘はやおら立ち上がると、ふらつく足取りで店を飛び出し、タクシーに乗り込んだ。
◇
日付が変わる頃。ベッドで微睡んでいた羽瑠矢は、インターホンの執拗な音で覚醒した。
訪ねてきたのが誰かは、モニターを見るまでもない。この時間にアポイントもなくやって来るのは、世界に一人しかいない。
予想通り、モニターの向こうには智紘が立っていた。黙ってオートロックを解除し、部屋に招き入れる。智紘は厭世的な雰囲気を全身に纏い、何も映さない、生気を失った瞳で羽瑠矢を見た。この顔をしている時は、一族関連で何かがあった時だ。羽瑠矢にはすぐに分かった。
智紘は羽織っていたジャケットを床に脱ぎ捨てると、羽瑠矢の部屋へ向かい、ベッドにダイブした。羽瑠矢は落ちたジャケットを拾い上げ、ぎょっとする。
「うぇ……これ、何十万もするやつじゃん。投げ捨てんなよアホ」
ジャケットを丁寧にハンガーにかける羽瑠矢を、智紘はベッドの中から黙って眺めていたが、不意に、有無を言わさぬ口調で声を上げた。
「羽瑠矢。来て」
羽瑠矢は何も言わずに従い、智紘が寝転ぶベッドの縁に腰掛けた。とたん、腕を強く引かれ、智紘の身体の上に倒れ込む。
額を智紘の硬い胸板に軽く打ち付け、さすりながら顔を持ち上げると、至近距離で智紘と目が合った。
智紘の空虚な目は、その時、羽瑠矢の知らない熱を帯びた何かを映していた。
「……女の匂いがする」
智紘が小さく、けれど鋭く呟いた。羽瑠矢はその言葉に、心臓が一瞬跳ねるのを自覚しながら、ああ、と短く返した。
「……さっきまで、お客サン。来てたから」
ベッドのシーツに、女の甘い残り香が染み付いていたのだろうか。だからなんだと羽瑠矢が声を上げようとした、その時。
「おまえは……」
智紘が、絞り出すような、呻くような声を上げた。それ以上、己の内に渦巻く感情を表現する言葉を持たないかのように、彼は沈黙した。羽瑠矢は黙って、次の言葉を待った。
けれど、返ってきたのは言葉ではなかった。
智紘がおもむろに羽瑠矢の後頭部を大きな手で鷲掴みにし、強引に顔を寄せた。
あ、と思った時には、二人の距離はゼロになっていた。
柔らかく触れ合う唇。智紘はその感触を確かめるように、一度、二度と貪欲に食んだ後、裂け目から舌を、暴力的なほど強引に忍ばせてきた。
熱く滑る舌が羽瑠矢の口内を蹂躙する。
抵抗することは、できたはずだ。だが、そうしなかった。
自らの舌を絡ませ、相手の口腔の粘膜とすり合わせる。ざらりとした、けれど甘美な感触が、口内から背髄を伝わって全身に広がる。智紘の口からは、高級な酒の匂いと、彼自身の体温が混ざり合った、濃厚な味がした。
「……ん、っ」
羽瑠矢の唇から、こらえきれない吐息が漏れる。智紘はその音を塞ぐように、さらに深く、溺れるように口付けを繰り返した。
気づけば二人は、身体を激しくすり合わせながら、互いの唾液を、熱を、魂を擦り付け合っていた。テクニックなど存在しない。ただ、相手の存在を、快感を、泥臭く貪り合うだけの行為。
顔を離した時には、二人の息はとっくに上がっていた。
唇が濡れているのを拭いもせず、ただ黙って見つめ合う。
羽瑠矢はその時、自分が何を言うべきか、痛いほど分かっていた。だが、言わなかった。
ただ、目の前の男の瞳の中に宿る、爆発寸前の熱を見ていた。しかし、智紘はそれを言葉にする術を持たない。ただ、唇を震わせ、苦しげに羽瑠矢を見つめるだけだ。
しばらくの、心地よくも緊迫した沈黙の後。羽瑠矢がつぶやくように、けれど冷徹に言った。
「おまえ、俺とどうなりたいんだよ」
智紘が、目を見開いた。
「どうって……」
「考えろよ。……本気で、おまえの頭で」
それだけを告げると、羽瑠矢は智紘の身体を退けて立ち上がった。智紘の視線を背中に感じながら、黙ってシャワーを浴びに浴室に向かう。
一人、部屋に残された智紘は、遠くから聞こえるシャワーの水音を聞きながら、唇に残った羽瑠矢の熱を、そして突きつけられた言葉を、ただひたすらに反芻し続けていた。
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