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EP10.揺籃の共犯
二人の間に物理的な境界線が消失したあの夜から、数日が過ぎた。
智紘と羽瑠矢の関係は、表面上、何一つ変わっていないように見えた。昼間は並んで期末試験を受け、夜になれば示し合わせたように繁華街へ繰り出し、行きずりの女を侍らせては、毒のような酒を煽る。
ただ、一点だけ、決定的な違和感があった。
羽瑠矢が気に入った女の腰を抱き、ネオンの渦へと消えていく。その背中を、智紘が言いようのない焦燥を抱えて見送っていることだ。
――行ってほしくない。
胸の奥で言葉が形を成そうとするが、智紘には彼を引き留める術がない。伸ばしかけた手は、派手なネイルを施した女の指先に遮られる。
「智紘くん? どうしたの、ぼーっとして」
上目遣いで覗き込んでくる女の瞳は、期待に潤んでいる。今までの智紘なら、自分に無防備な好意を向けてくる個体を拒む理由などなかった。けれど今は、その体温すらも酷く疎ましかった。
「……帰る」
智紘はまとわりつく腕を振り切り、踵を返す。背後で女たちが上げる不満げな声も、今の彼には雑音にすらならなかった。
去り際、羽瑠矢は一度だけ振り返り、智紘の顔を見た。
その瞳は、どんな言葉よりも饒舌に何かを語っているようだった。けれど、そこに宿る光が何なのか、今の智紘にはまだ理解できない。
ただ、遠ざかる背中を見つめながら、智紘は、自分たちが「少年」と「青年」の残酷な境目に立っていた頃を思い出していた。
◇
中学二年から三年にかけて、智紘と羽瑠矢の背は競い合うように伸びた。それに比例して、彼らに秋波を送る女子の数は爆発的に増えていく。
大人と子供の狭間にいる者だけが放つ、危うく、鋭利な空気。それが周囲の少女たちの視線を惹きつけ、離さなかった。
五月の連休明け。久しぶりに登校した智紘が目にしたのは、決定的に「変貌」してしまった羽瑠矢の姿だった。
造形が変わったわけではない。ただ、纏う気配が以前とは明らかに違っていた。些細な手の動き、目線の配り方ひとつひとつに、それまでには存在しなかった湿り気のある色気が宿っている。
それは、たまに帰宅する父や母が纏っている、あの特有の「夜の匂い」によく似ていた。
放課後、いつものように羽瑠矢の部屋に溜まり、とりとめもない会話に興じていた時。けたたましい着信音が、静かな空間を切り裂いた。
スマホを手に取った羽瑠矢の目が、智紘の知らない仄暗い光を宿す。
「……今? 今は無理。明日ならいいけど」
電話口から漏れ聞こえる、甘えた女の声。羽瑠矢は、その一つ一つの言葉に、酷く優しく相槌を打っていた。
通話が終わり、振り返った羽瑠矢の顔は、いつもと同じに見えた。けれど、智紘の口からは押し殺したような声が漏れる。
「だれ、今の」
羽瑠矢は一瞬だけ視線を泳がせた後、唇の端を吊り上げて言った。
「拓実先輩っていただろ、バスケ部の。その、姉ちゃん」
智紘は畳み掛ける。確信などなかった。ただ、目の前の親友を何かに奪われたような、そんな予感だけが胸を支配していた。
「付き合ってんの」
「付き合ってるっていうか……遊んでもらった感じ。わかるだろ?」
羽瑠矢は目元を和らげて笑った。その笑みには、心臓が凍りつくほど壮絶な色香が滲んでいる。
呆然として言葉が出ない智紘に、羽瑠矢はふっと笑みを引っ込めて続けた。
「まあさ。欲の発散と、本気の恋愛は別ってこと。いつか俺もおまえも、たった一人を好きになって、その人だけを選ぶ時が来るんだよ」
それまでは、色んな経験しとこうと思って、と肩をすくめて笑う羽瑠矢。
智紘は何も返せなかった。大切に、誰にも触れられないように愛でてきた自分たちの箱庭が、泥靴でぐちゃぐちゃに踏みにじられたような気分だった。
その日から、智紘の生活は一変した。
寄せては返す女たちの手を、智紘は一つとして拒まなかった。
初めて女を抱いた時、智紘の身体は「空っぽの人形」に成り果てた。生温かく柔らかい肢体を絡ませ、体液を交換する時間は、ただ無味無臭で、心は一ミリも動かなかった。
けれど、父も母も、そして羽瑠矢もこれをやっている。だから、これで正しいのだ。自分は間違っていない。そう自分に言い聞かせ続けた。
名も知らぬ女と夜を過ごした後は、智紘は必ず羽瑠矢の元へと向かった。
自分と同じように夜の気配を纏っているはずの羽瑠矢は、けれど智紘にとっては、この世界で唯一の「清浄な空気」を放っているように感じられた。
羽瑠矢は、死んだ魚のような昏い瞳で現れる智紘を、何も聞かずに受け入れた。
そうしてそんな夜は、一つのベッドで幼い子供のように身を寄せ合って眠る。
二人はそんな、出口のない夜を、幾度となく繰り返してきたのだ。
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