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EP11.泥の楼閣
智紘は数日ぶりに実家に足を踏み入れていた。広大で作法通りに整えられた邸宅は、いつ訪れても人気がなく、墓標のように無機質だ。
必要な荷物だけを掴み、早々にこの冷え切った空間を去ろうとした時、背後から声をかけられた。
「あら、智紘。お帰りなさい」
振り返ると、そこに実母が立っていた。
父の正妻として迎えられながら、数年の間、子に恵まれず、夫の放蕩に耐え忍んできた女。智紘という「跡継ぎ」を産み落とした瞬間、彼女の中で何かが決壊したのだろう。それからの母は、箍が外れたように男を呼び寄せ、享楽の泥に身を投じた。
真っ白なキャンバスだったはずの女が、どす黒い絵の具で塗り潰されるのは、あまりにも容易いことだった。智紘は知っている。母がベッドの上でどんな風に肢体をよじらせ、どんな声で愛をねだるのかを。
「ちょうどよかったわ。お客様がいらしてるの。ご挨拶なさい」
母は無垢な聖女の仮面を被り、慈愛に満ちた笑みを浮かべる。智紘は何も言わず、その背を追った。
向かう先は、屋敷の最奥。客間という名の、淫靡な「享楽部屋」。湿度は高くないはずなのに、智紘の背中には嫌な汗が伝った。
重厚な扉が開かれる。
部屋の中央には、不自然なほど白いシーツが広げられた大きなベッド。その傍らに、少女と見紛うほど幼い女が座っていた。
先日、祖父から突きつけられた釣り書の女だ。罪深いほどに「汚れ」を知らぬ、空っぽな瞳。
母が笛のように細く、澄んだ声で告げる。
「こちらのお嬢さまが、あなたの妻になるのよ。今夜は二人で、ゆっくり仲を深めなさい」
智紘の全身の産毛が逆立った。母を見つめるが、彼女は心底不思議そうに首をかしげ、智紘の頬に手を添えた。
「どうしたの? 何も怖いことなんてないわ。正妻さえ正しく娶れば、あとはどこの女を孕ませようが、あなたの自由なのですから」
その言葉は、深淵から響く呪いだった。
目の前の女は人形だ。意思を持たず、ただ血筋を繋ぐためだけに用意された空洞。そして自分もまた、そうなることを期待されている。
「大丈夫よ、智紘。あなたは誰のことも平等に愛せるわ。だって、玖我の血を引いているんですもの」
平等な愛。それは、誰一人として特別に思わないという絶望だ。自分は博愛主義なのだと、父や母と同じ高潔な生き物なのだと信じ込もうとしてきた。けれど、その足元に広がるのは、泥で固めただけの脆い楼閣に過ぎなかったのではないか。
――考えろ、おまえの頭で。
脳裏に、あの夜の羽瑠矢の声が響く。
その瞬間、智紘を縛り付けていた呪詛が、濁流に洗われるように消え去った。視界が急速に色を取り戻す。目の前に立つ二つの泥人形を見据え、智紘は、自分の「人間の手」を固く握りしめた。
「……俺は、違う」
喉の奥から、初めて自分の意思を絞り出す。
「あんたたちとは違う。俺が欲しいものは……ずっと前から、たった一つだけだ」
母の驚愕に満ちた金切り声を背中で聞き流し、智紘は一度も振り返らずに屋敷を飛び出した。後悔も恐怖もなかった。ただ、一刻も早く、あの男に触れたかった。
◇
深夜、繁華街を貫く公園のベンチ。
智紘は数年前の自分を思い出していた。モノクロだった世界に、彗星のように現れて色を付けた少年。あの日から、羽瑠矢の周囲だけが、智紘には鮮やかに見えていたのだ。
自嘲気味な笑みを浮かべた時、膝に置いた手に、別の手の温もりが重なった。
「何してんだよ。このクソ暑い中」
顔を上げれば、そこに焦がれ続けた男がいた。
羽瑠矢は智紘の隣に腰を下ろすと、当然のように肩を預けてきた。亜麻のようにさらりとして、けれど芯にスパイシーな熱を秘めた、いつもの香水の匂い。
「……また家でなんかあったろ」
射抜くような上目遣い。この男の直情的な鋭さが、今の智紘には救いだった。
視界が熱く、潤んでいくのを自覚する。言葉が勝手に零れた。
「おまえは……おまえだけは、俺を選ぶよな? 他の誰でもない、俺を」
羽瑠矢は、すべてを飲み込む大海のように深い瞳で、智紘をじっと見つめた。
「だからさ、言っただろ。考えろって」
羽瑠矢の囁きは、天使の誘惑か、あるいは慈悲深い聖母の宣告か。
「おまえは俺に、どうしてほしいんだよ。……言ってみろ」
智紘は、酸素を求めるように、何度も口を震わせた。理論もプライドも、もう機能していない。ただ、剥き出しの心が叫ぶべき言葉を知っていた。
「お、れは。おまえに、選ばれたい。俺だけを、選んで……羽瑠矢」
最後は、祈りだった。
愛を乞う囚人のように目を閉じた智紘の唇に、ふわりと柔らかな熱が触れた。
掠めるだけの、けれど決定的な拒絶のないキス。
目を開ければ、指一本の距離で羽瑠矢が、残酷なほど美しく笑っていた。
「……ちゃんと言えたじゃん」
羽瑠矢が智紘の手を引き、立ち上がらせる。
「あー、喉乾いた。帰ってキンキンのビール飲もうぜ」
二人は手を取り合い、歩き出す。かつて少年として駆け抜けた、あの夜道を。
ただ一つ、決定的に違うのは。
二人の手が、もう二度と離れないほど固く結ばれていることだった。
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