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EP14.完璧な一対

 路央にとって羽瑠矢は、生まれて初めて「欲しい言葉」を与えてくれた人だった。  あの五月の刺すような夏日の下、パラソルの日陰で。ほとんど話したこともなかった羽瑠矢に、路央は気づけば心の奥底を全て打ち明けていた。  羽瑠矢は柔らかく目尻を緩め、何も言わず、ただ前を見つめて路央の話を聞いた。その沈黙は、路央の醜さも弱さも全て飲み込んでくれる海のように思えた。  あの瞳がいけないのだ。光をなみなみと湛えた、大海原のように深い眼差し。その目が一体どこを見ているのか、気づけば路央は、彼の視線の先を追い続けてしまう。  羽瑠矢の前では、常に全身に力を入れて生きてきた路央も自然体でいられた。彼と一緒に生きていけたら、どんなにいいだろう――。  一瞬だけよぎったその願いは、すぐに霧散した。  羽瑠矢と智紘。二人の間には、彼らにしかわからない秘密の合図がある。一部の隙間もないほどに完成された一対。路央はその聖域を汚す愚か者にはなれなかった。ただ、彼からもらった宝物のような言葉を、一生大切に守り抜くと決めたのだ。  ◇  八月の夕暮れ。肌を焼く西日を避けるように、人々が足早に通り過ぎるターミナル駅。  改札を出ると、目当ての人物はすぐに見つかった。  羽瑠矢。頭ひとつ抜けた長身に、均整の取れた人形のような肢体。ゆるくウェーブした髪を結い、惜しげもなく晒されたその美しい顔は、無自覚な色香を振り撒き、通行人の視線を吸い寄せている。  駆け寄ろうとした路央は、その隣にいる「招かれざる影」に気づいて足を止めた。智紘だ。  智紘は羽瑠矢の背中にもたれ、顔を伏せてスマホを弄っていた。羽瑠矢よりさらに背が高く、男らしい体躯。だがその上に乗る顔は、少女が夢見る王子様のように甘い。中身がどれほど腐れ切っていようと、蜜に寄る蜂のように人を惹きつける暴力的なまでの美貌。  智紘がふと顔を上げ、羽瑠矢に何かを囁いた。羽瑠矢が耳を寄せ、二人は視線を合わせて表情を緩める。 (……あ)  路央の胸に、小さな針が刺さったような痛みが走った。いつも通りの光景。なのに、決定的に何かが違う。  美しい二人の周りを群衆が遠巻きに伺っていたが、やがて一人の勇気ある男が近づき、名刺を差し出した。それを合図に、周囲の女たちが執拗に声をかけ始める。  智紘の眉が鬱陶しそうに跳ねた。彼が毒を吐いて場を凍り付かせる前に、路央は「世界の主人公」のような二人の間に割って入った。  駅前の、安さと早さが売りの居酒屋。  路央は羽瑠矢と向かい合い、夏休みの空白を埋めるように近況を語り合った。  羽瑠矢の隣では、智紘がハイボールを片手に砂肝を食らっている。羽瑠矢は時折、智紘の様子を見ては、皿にだし巻き卵を取り分けてやっていた。  正反対の二人。だが、誰よりも強い鎖で繋がれていると、路央は知っている。 「きみたち、うまいこと収まったんだね」  路央の言葉に、羽瑠矢が全てを見透かすような目を向けた。一瞬の沈黙の後、彼は口角を上げる。 「なんだ、すぐバレたか」 「智紘くんの様子を見たらわかる。なんか、前より人間っぽくなった」  智紘は一切の反応を見せず、漬物を摘んでいたが、テーブルの皿が空になると路央を見てにっこりと笑った。 「路央、満足した?」 「え……」 「羽瑠矢連れて帰っていい?」  あからさまな「お払い箱」宣告に、路央はげんなりした。王子様の皮を被ったワガママは、以前より悪化している。 「帰りたいなら一人で帰れよ。俺と路央の逢瀬を邪魔すんな」  羽瑠矢に小突かれ、智紘は不満げに眉を寄せながらも、大人しく氷で薄まったハイボールを啜り始めた。 (……なるほどな)  路央は色々と悟った。  この場の真の支配者である羽瑠矢は、蛸の唐揚げを口に放り込み、満足げに咀嚼していた。  ◇  路央と別れ、自宅に入るなり、智紘が羽瑠矢を寝室へと引き摺り込んだ。  首筋に顔を埋められ、シャツの裾から熱い手が忍び寄る。下着まで引き摺り下ろされ、羽瑠矢は抗議の声を上げた。 「ほんと、待てできないの?シャワーくらい……」 「おまえ、うざい」  顔を上げた智紘が、子供のような不機嫌さを剥き出しにする。 「うざいって何だよ」 「路央といる時のおまえ、なんかうざったいんだよ」  語彙の足りない子供のような言葉。羽瑠矢が言い返そうとする口は、黙れとばかりに智紘の唇で塞がれた。深い口付けに押し流され、結局、羽瑠矢は何も考えられなくなるまで貪り尽くされた。  目を覚ますと、部屋は青い暗闇に沈んでいた。  重い腰をさすりながら、散らばった服を適当に羽織ってリビングへ向かう。猛烈に水が飲みたかった。  扉を開けた瞬間、瑞々しい女の声が響く。 「おはよう。随分と楽しそうだったじゃない」  羽瑠矢の身体が凍りついた。  ダイニングテーブルで優雅に椅子に腰掛け、ナッツを摘みながら赤ワインを楽しんでいる女。頭の先から爪先まで完璧に計算され、男を唆る色香を隠そうともしない、圧倒的な「女」の気配。  羽瑠矢の母、ミチルだった。 「……母さん。帰ってたんだ」 「なあに、その言い方。私の家なんだから、帰ってきて当たり前でしょ」  ミチルは少女のように頬を膨らませて笑う。その時、後ろから寝ぼけた声がした。 「ねえ羽瑠矢、俺のパンツ履いてない?」  振り返ると、上半身裸の智紘が立っていた。纏う情事の気配を隠しもせず、平然と肩越しにミチルを見やる。 「ミチルさん。お邪魔してます」 「智紘、元気そうね」  にっこりと笑い合う二人。智紘はキッチンで水を飲むと、そのまま浴室へと消えていった。  再び沈黙が降りる。羽瑠矢は観念して切り出した。 「……何か、言いたいことはある?」  母は楽しげに目を彷徨わせた後、最高に意地の悪い笑みを浮かべた。 「お盛んなのは結構だけど。――ゴムはちゃんと着けなさいよ」

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