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EP15.魔女の系譜
羽瑠矢を産んだ時、母・ミチルはまだ十八だった。
実家を追われ、自分を孕ませた男のもとに身を寄せた母だったが、そこに「幸せな家庭」の光景が宿ることは一度もなかった。父親は救いようのない放蕩者で、酒に酔っては母に拳を振るった。貞淑とは無縁だった母は、赤ん坊の羽瑠矢を抱き、早々にその家を捨てた。
以来、羽瑠矢は母と二人きりで生きてきた。だが、母が家にいた記憶は乏しい。女手一つで生き抜くため、彼女は夜の世界へと身を投じ、その強かさと美貌で瞬く間に頭角を現していったからだ。
自立心の塊のような母にとって、羽瑠矢はけっして望まれた子ではなかっただろう。それでも彼女は義務を放棄せず、地元の小学校に馴染めなかった羽瑠矢に惜しみなく金をかけ、名門私立中学へと押し上げた。
やがてパトロンを得て独立し、界隈で名の知れたクラブのオーナーママとなった母は、古いアパートを脱して繁華街に近い贅を尽くしたマンションへ居を移した。快適な室温に保たれた広い部屋。けれど、ほとんど帰宅しない母を待つ独りの空間で、羽瑠矢は常に言いようのない居心地の悪さを感じていた。
羽瑠矢が十歳の時だ。突然帰宅した母は、自分よりずっと小さな少女を背後に連れていた。痩せ細り、薄汚く、子供には似つかわしくない昏い瞳をした少女。
母は羽瑠矢に言い聞かせた。「この子は親に捨てられた、可哀想な子なのよ」と。
母はその子を甲斐甲斐しく風呂に入れ、食事を与えた。隣に座り、慈愛に満ちた微笑みを浮かべながら、染み渡るような低音で絵本を読み聞かせる。羽瑠矢は、自分に向けられたことのないその「母」の顔を、凝視せずにはいられなかった。
その時、羽瑠矢の胸に宿ったのは、嫉妬でも悲しみでもなく「希望」だった。
何も持たない、空っぽの子供。それを自らの懐に招き入れ、愛という名の熱で満たしていく時、一体どんな全能感に包まれるのだろう。
それから二年ほど、母は行き場のない子供たちを次々と連れてきては世話を焼いた。羽瑠矢もまた、彼らに食事を与え、共に遊び、積極的に構った。だが、どれほど尽くしても、羽瑠矢の内側に巣食う得体の知れない渇望が癒えることはなかった。
答えの出ないまま迎えた、桜の舞う中学校の入学式。
その日、羽瑠矢はついに「それ」を見つけた。
浮き足立つクラスメイトたちが別の生き物に見えるほど、羽瑠矢の心は冷めていた。
そこへ、一人の少年が入ってきた。教室の空気が一変するほどの圧倒的な存在感。
瞬く間に人だかりの中心となった少年は、全方位に完璧な笑顔を振りまいていた。整った顔立ち、聡明な受け答え。非の打ち所がない優等生。けれど、羽瑠矢の目には、彼が精巧に作られた「ゼンマイ仕掛けの空っぽの人形」にしか見えなかった。
――求めていた。自分の中から溢れ出す情動を、余すことなく受け止めてくれる「器」を。
羽瑠矢はあえて、刺すような冷たい声を投げかけた。
「そこ、うるせー」
輪の中心にいた少年が、こちらを振り返る。その瞳は、予想以上に何も映していなかった。深い、深い、空洞。
だが、その空虚が羽瑠矢を捉えた瞬間、彼の瞳に小さな、けれど確かな灯が点った。羽瑠矢は全身が泡立つような戦慄を覚えた。
近寄ってきた少年は、羽瑠矢より背が高かった。造り物のような美貌に見下ろされながら、羽瑠矢は体温が急激に上昇するのを感じていた。
この男だ。この男こそが、俺の渇きを癒やしてくれる。
(……ああ。やっと、見つけた)
◇
遠くから響くシャワーの音をBGMに、羽瑠矢は母と向かい合い、ワイングラスを傾けていた。
母が手ずから注いだ赤ワインは、彼女の唇によく似た、濁りのない鮮血の色をしていた。
「久しぶりに智紘に会ったけど、あの子はもう大丈夫そうね」
ミチルが確信を突く。羽瑠矢は不遜に口角を上げた。
「まあ、見ての通り。じっくり手間と時間をかけたからなあ」
ミチルは満足そうに目を細める。
「初めて会った時は、長くは生きられない種だと思ったけれど。今日は、生身の人間の顔をしていたわ。……最期まで、ちゃんと面倒を見るのよ?」
「わかってるよ」
羽瑠矢は吹き出しながら頷いた。目の前の女は、成人した息子がいるとは思えないほど、咲き誇る薔薇のような色香を放っている。自分とこの母が、同じ「支配的な慈愛」を血に宿した親子であることを、今の羽瑠矢は痛いほど理解していた。
笑い合う二人の顔には、男を惑わす魔女の毒と、全てを許す聖母の光が混在していた。
リビングの扉が開き、濡れた髪を拭きながら智紘が顔を出した。
「あ、俺も飲みたい」
「智紘、こっちにいらっしゃい」
ミチルが隣を指すと、智紘は素直にそこへ収まった。「ミチルさんのワインはおいしいから」と、毒気の抜けた顔で笑う。歪な三人は、本心を決して見せぬまま和やかな時間を紡いだ。
「――そうだ。あたし、この家を出るから」
ワインが気持ちよく回ってきた頃、ミチルが唐突に告げた。
「引っ越すの?」
「そう。結婚することにしたから。松村さん、会ったことあるでしょ?」
羽瑠矢は目を剥いた。家庭という枠組みに最も不向きなこの女が、支援団体の出資者である温厚な男と籍を入れるという。
「というわけで、このマンションは羽瑠矢にあげる。あなたの好きに使いなさい」
転がり込んできた不動産。それは、一人の「ヒモ」を飼い慣らすための完璧な檻だ。呆れと共に、昏い歓びが羽瑠矢の胸に兆した。
向かいに座る智紘は、優雅にワインを嗜みながら、ミチルと楽しげに言葉を交わしている。有象無象の女を相手にする時よりも、ずっとリラックスした、子供のような横顔。
(……母親に嫉妬するなんて、馬鹿げてる)
羽瑠矢は自嘲し、自分によく似た性質を持つ母の姿を眺めながら、静かにため息をついた。
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