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小話1 カリナンの所有権
羽瑠矢は、美容院で金を払ったことがない。
母が昔から通いつめている、裏通りの高級サロン。髪が伸びたと思えばオーナーに連絡を入れ、身一つで向かう。トップスタイリストに丁重に迎えられ、椅子に身を預けていれば、何も言わずとも完璧に整う。最後に数本、宣伝用の動画と写真を撮らせれば、それで会計は終わりだ。
「羽瑠矢くん、今回も顔出しオッケー?」
「好きにしていいよ」
そう言ってにっこりと笑えば、その場にいるスタッフ全員が膝をつく勢いで感謝を捧げてくる。「うち以外、絶対に行かないでね!」と毎度熱烈な念押しをされ、見送られるのが常だった。
◇
「髪、伸びてきたな」
風呂上がり、無防備に水滴を撒き散らしながらうろつく智紘を捕まえ、膝の間に座らせる。ドライヤーの風を当てながら指を差し入れると、ふと気づいた。
常にミリ単位で清潔に整えられていたはずの智紘の襟足やもみあげが、少しばかり形を崩し、ざんばらに伸びている。
智紘が自分の前髪を指先でつまみ、他人事のように言った。
「最近切ってない。前は、決まった周期で美容師が家に来てたからさ」
さすが、元お坊ちゃまともなると、サロンに足を運ぶという概念すら希薄らしい。羽瑠矢は呆れて笑いながら、スマホを手に取り馴染みのオーナーへメッセージを送った。
数日後、休みを合わせて繁華街へ繰り出す。
声をかけてくるスカウトや有象無象の女たちを、二人は慣れた動きで払い退け、目的地へ到着する。店内に足を踏み入れた瞬間、スタイリスト一同から悲鳴に近い歓迎を受けた。
全員が、羽瑠矢の隣に立つ智紘を見て、感極まったように口を押さえている。
「ちょっと、羽瑠矢くん……! こんな十カラットの大粒ダイヤみたいな子、今までどこに隠していたのよ!」
担当スタイリストの男が、裏返った声で叫ぶ。
あれよあれよという間に智紘は連行され、頭を濡らされ、薬液を塗られ、乾かされ、好き勝手に弄り回された。羽瑠矢は自身の毛先も整えてもらいつつ、鏡の前で人形のようにおとなしく座っている智紘の姿を、茶を飲みながら愉快に眺めていた。
出来上がった智紘は、一言の文句もつけようのない仕上がりだった。
栗色の髪はつやつやと気高く輝き、薄く馴染ませたジェルが、育ちの良さに危うい色気を上書きしている。その辺の芸能人が束になっても敵わない、生まれ持った資質の暴力。
羽瑠矢が「いいじゃん」と短く声をかけると、智紘は顎を少し上げて、傲慢に笑った。当然の結果だと言わんばかりの態度だ。
最後に智紘は動画や写真を執拗に撮られ、ようやく解放されたが、その美しいかんばせに疲労の色は微塵もなかった。
一週間後、例の担当スタイリストから突然、心臓に悪いほど通知が荒ぶるDMが届いた。『やばい!!!』という悲鳴とともに送られてきたのは、先日撮影した智紘のスタイリング動画。
再生数を確認した羽瑠矢は、思わず目を剥いた。投稿から数日しか経っていないというのに、カウンターは100万回をゆうに超え、今もなお爆増し続けている。
『このイケメンは誰なんだって問い合わせが殺到して、店のDMがパンク状態よ! 予約も半年以上先まで埋まりそうだし、スタッフの手が足りないわ!』
羽瑠矢は、何とも言えない苦いものが胸に込み上げてくるのを感じた。今まで自分が出演した動画もそれなりに回っていたと聞いているが、ポッと出の智紘に全てを塗り替えられた気分だ。
当の嵐の中心人物は、羽瑠矢の足元で暢気に寝転び、タブレットを弄っている。その画面は、日本語ではない難解な文字列でびっしりと埋め尽くされていた。
追い打ちをかけるように、再びDMが届く。
『大手の芸能事務所からも連絡が来てるんだけど、繋いであげようか?』
羽瑠矢は言いようのない苛立ちに突き動かされ、足元で無防備に転がっている智紘の尻を、一発思い切り蹴り飛ばした。
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