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小話3 極上の紫煙

 暦が秋へと移ろい、街を吹き抜ける風は指先を冷やすほどに鋭くなってきた。街路樹が赤や黄に燃え上がり、石畳を色鮮やかに染め上げている。  室内には、色事の後の重だるい空気が、澱のように沈殿していた。  混じり合った体温の名残と、微かな汗の匂い。智紘は、鼻をくすぐる焦げたような芳香で目を覚ました。震える身体を毛布の奥へと沈め、薄く目を開けると、ベッドの縁に腰掛けた羽瑠矢の背中が見えた。  完璧に整った横顔。形の良い唇が、細く、長く、紫煙を吐き出す。その煙がカーテンの隙間から差し込む月光に透け、生き物のようにうねるのを、智紘は無言で見つめていた。  羽瑠矢がふいと肩越しにこちらを振り返り、目が合った。 「起きてたんだ」  低く、掠れた声で小さく笑う。羽瑠矢は指に挟んだ煙草を、智紘の唇へと運んできた。  智紘は吸い殻の熱を感じながら、素直にその毒を吸い込む。肺の深部まで、乾いた苦味が満ちていく。  煙を吐き出すと同時に、智紘はふとした違和感を覚え、羽瑠矢に尋ねた。 「……これ、何?いつものじゃない」  羽瑠矢は無言で、枕元に置かれたレトロな配色の箱を指し示した。 「え、キャメル?なんで。おまえ、メビウス以外は認めないって豪語してただろ」  羽瑠矢という男は、煙草に対して偏執的なまでの拘りを持っていた。常にメビウスの最も重い銘柄を選び、それを「マイセン」と呼ぶことを粋とする。今時そんな呼び方をするのは、よほど年季の入った愛煙家か、あるいは年上の女の影響かの二択である。 「マイセンが至高なのは変わらないけどさ。……なんか、知り合いのお姉さんにもらったんだよね。コスパも高いし、ナッツみたいなコクがあって悪くないよって」  また、女か。智紘は内心で毒づきながらも、ニコチンを求める身体には勝てなかった。  差し出された箱から一本抜き取ると、羽瑠矢が既にライターを構えている。  ジリ、と火石が鳴る小さな音。青い暗闇の中で、灯った火を頼りに、二人は互いの顔を最高の肴にして、ゆっくりと煙を分かち合った。  ◇  本格的に厚手のコートが必要なほど冷え込んできた、秋深い夜。  ほろ酔い加減の二人は、寒さを凌ぐ口実を求めて、路地裏のバーへと足を踏み入れた。  壁一面に並ぶウイスキーのボトルに、二人の体温が上がる。バーテンダーが勧める芳醇なバーボンを注文し、琥珀色の液体の中で丸い氷が鳴る音を楽しんだ。  酒と煙草は、同時に味わうことで完成される。  智紘がいつもの箱を懐から取り出そうとした時、羽瑠矢が取り出したのは、使い古された革のポーチだった。  慣れた手つきでポーチが開かれる。そこには、湿り気を帯びた焦茶の縮れ葉と、透き通るほど薄い紙、そして小さなフィルターが収まっていた。 「え、違法?」 「んなわけあるか。手巻きだよ」  羽瑠矢は器用に薄紙を広げ、その上に葉を均等に敷き詰めていく。 「刻み葉(シャグ)の銘柄も、巻紙もフィルターも自分好みにカスタマイズできる。手間はかかるけど、その分、香りの純度が全然違うし、葉が本来持つ新鮮な味を楽しめるんだよ」  この前行った飲み屋で会ったお姉さんからもらったんだ、と羽瑠矢が笑う。  出来上がった一本に火が点ると、途端に辺りの空気が一変した。  立ち上るのは、焦がしたキャラメルと燻製を混ぜ合わせたような、濃厚で官能的な香り。智紘がその一本を奪うようにして吸い込むと、肺に届く衝撃(キック)の重厚さに目を見開いた。  紙の燃える雑味が一切ない。ただ、植物の生命力が凝縮されたような、力強くも優しい煙が全身を駆け巡る。 「……旨いのは認めるけど。二十歳そこそこで手巻きなんて、渋すぎない?」  智紘が煙を吐き出しながら言うと、羽瑠矢は二本目を巻きながら、視線を落としたまま呟いた。 「智紘と一緒にやったら、楽しそうだと思って」  その一言で、背後に透けて見えていた女たちの影が、跡形もなく霧散する。  二人が見つめ合い、紫煙の向こう側で溶け合っていると、隣の席から勇気ある女性客の声が掛かった。 「ねえ。それ、すごい良い香り。ヤバい葉っぱ?」  羽瑠矢は睫毛の影を強調するように妖しく目を細め、智紘の肩を抱き寄せて微笑んだ。 「……試してみる?」  極上の酒と、手作りの煙。そして、誘ってきた女を「観客」に仕立て上げる、少しの悪意(スパイス)。  二人は今夜も、黄金の檻の中で、誰にも真似できない贅沢な時間を謳歌するのだった。

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