23 / 23
小話5 漆黒の輪廻【R18】
智紘が物心ついた頃、広大で冷え切った屋敷には一匹の猫がいた。夜の闇を溶かし込んだような黒いロングコートを纏った、高貴で孤独な雄猫。おそらく、父母のどちらかの愛人がねだり、飽きられ、そのまま放り出された置物のような存在だったのだろう。
幼い智紘は、使用人の手つきを盗み見るようにして、その猫を手ずから世話した。食事を運び、排泄を整え、陽の当たる窓辺で一日中毛並みを梳いた。猫は驚くほど人懐っこく、智紘がどこへ行くにも影のように付き従った。当時の智紘は、猫という生き物は全て、このように慈しみ深く、忠実なものだと思い込んでいた。
だが、智紘が心血を注いだ黒猫は、彼が十一歳の時に呆気なく逝った。病が発覚してからは、坂道を転げ落ちるような幕引きだった。
火葬の日に立ち会ったのは、智紘と、共に猫を慈しんだ年配の使用人だけだった。彼女が智紘の肩を抱き、嗚咽を漏らす傍らで、智紘の瞳から一滴の雫も零れはしなかった。ただ、戻ってきた小さな骨をじっと見つめながら、彼は静かに思考を巡らせていた。
――俺が死ぬ時、たった一人、愛する人が傍に居てくれるだろうか。
その時、彼の心には、決して埋まることのない「温もりの欠落」が刻まれたのだ。
◇
羽瑠矢と初めて出会った時、彼は智紘が悠々と見下ろせるほどに小柄だった。背の順に並べば常に前方の集団に紛れる。第二次性徴を迎える前のその顔立ちは、少女のような無垢な透明感を湛えており、他クラスの男子や先輩たちがわざわざ教室まで「拝み」に来るほど、その美貌は校内の噂の的だった。
智紘は、隣を歩く羽瑠矢の頭頂部を見下ろすのが好きだった。緩やかにウェーブした黒髪が陽光を浴びて揺れるたび、かつて慈しんだあの黒猫の面影が重なった。指先でその髪に触れれば、思いがけないほど柔らかく、微かにくすぐったそうに肩を竦める羽瑠矢の反応。それだけで、智紘の乾いた胸には形容しがたい充足感が満ちた。
中学二年生の後半、羽瑠矢の背は爆発的に伸びた。関節の成長痛に顔を歪める彼を、智紘が甲斐甲斐しく世話してやった日々。そうして羽瑠矢は、瞬く間に智紘と同じ高さの視線を手に入れた。
二人の周囲に、蜂の群れのように女たちが群がるようになっても、二人の均衡が崩れることはなかった。並んで歩き、ふとした瞬間に目を合わせ、理由もなく笑い合う。羽瑠矢の黒髪を指先で遊べば、彼はかつてと変わらず、少し照れたように首を竦める。その変わらない「質感」に、智紘は執着にも似た安らぎを覚えていた。
◇
高校一年生の、湿った雨の日だった。試験期間が明け、校内には張り詰めた糸が切れたような開放感が漂っていた。
雨音に包まれた渡り廊下の自動販売機前。ベンチに腰を下ろした二人は、各々の飲み物を手に、試験の出来栄えや教師の毒口を淡々と交わしていた。羽瑠矢は前日の追い込みで一睡もしていないらしく、その目は据わっている。
ふと会話が途切れた瞬間、智紘の肩に温かく、確かな重みが預けられた。
羽瑠矢が目を閉じ、穏やかな寝息を立てていた。
目前にあるその寝顔は、眠りの淵に沈んでいる間だけ、出会った頃のような幼い無垢さを取り戻していた。それでいて、成熟し始めた少年の肌には、純潔な少女には持ち得ない、毒を含んだ色香が滲み出している。
目元のほくろ、口元のほくろ。視線でなぞり、最後に辿り着いたのは、体温で赤く上気した唇だった。
キスしやすい。そう思った時には、磁石に惹かれるように顔が吸い寄せられていた。
重なる、柔らかな粘膜の感触。羽瑠矢の規則正しい呼気が、智紘の頬を優しく撫でる。
顔を離した時、智紘は自分でも驚くほど動揺していた。彼は本来、他者との性的な接触に価値を感じない。求められればこなすが、自らの意志で踏み込んだことは一度もなかったのだ。
思考の渦に呑み込まれそうになりながら、羽瑠矢の顔を凝視していると、長い睫毛が微かに震え、深い海のような瞳が顔を覗かせた。
その底知れない瞳と視線がぶつかった瞬間、智紘の悩みは霧散した。
彼は平然と口を開く。
「おはよう。鼻毛出てるよ」
「マジ? 取って」
羽瑠矢は疑うこともなく目を閉じ、無防備に顔を差し出した。そこに、先ほどよりも深い、明確な意思を込めたキスを叩き込んでやると、羽瑠矢は「ふざけんな」と声を上げて、心底楽しそうに笑ったのだった。
◇
夜の帳が下りた寝室。馴染んだ香りが染み付いたベッドの上で、智紘は羽瑠矢の白い背を見下ろしていた。
智紘が腰を沈めるたび、眼下の筋肉質な背が震え、首筋を汗の滴が滑り落ちる。
胎内の最も脆い箇所を容赦なく穿つと、羽瑠矢は弓なりに身体を反らせ、そのまま絶頂へと突き落とされた。盛り上がった僧帽筋に強く噛み付き、締まった腰を両手で万力のように固定して腰を振ると、羽瑠矢は喉の奥で、甘い猫のような鳴き声を漏らした。
果てた身体を重ね合わせ、心地よい脱力感に身を委ねる。智紘は目の前にある黒い塊に顔を埋めた。
慈しむように、壊れ物を扱うようにその髪を撫で回すと、羽瑠矢がくすくすと喉を鳴らした。
「おまえ、本当に俺の髪好きだよな」
智紘は、一分の冗談も交えない声音で返した。
「好きだよ。おまえの髪を集めて、人形を作りたいくらいには」
「キモ。本当おまえ、たまに怖いわ」
羽瑠矢は呆れたように笑い声を上げたが、その身体は智紘の腕の中に深く沈み込んでいる。
指先に絡みつく柔らかな髪としなやかな肢体。その確かな重みを感じながら、智紘は、かつて一度だけ失ったあの至高の温もりが、今、永遠に自分の支配下に戻ってきたことを、静かに確信していた。
ともだちにシェアしよう!

