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番外編 お礼SS ほんの少しの不安と優しさに包まれて
土曜の夕方。いつものように、拓海くんの母さんが営む下町の食堂を手伝っていた。
ガラス戸を開けるたび、外の商店街の匂いが入り込む。油と出汁の混ざった匂い。家庭料理の湯気。ここにいると、不思議と自分が“ただの大人の男”に戻れる気がした。
「友則さん、注文票これお願いね」
「あ、はい」
「息子だけじゃなく、私も世話になっちゃって悪いわねぇ」
からかうような声に微笑み返す。拓海くんのお母さんは、どこか人の心を見透かしたような優しさを持っている。
……それなのに。
ドン、と店の戸が乱暴に開いた。
「たーくみぃ! 来てあげたよ!」
甲高い声が店の空気を揺らす。視線を向けた瞬間、胸の奥にざらついた感覚が走った。
見るからに若い女の子。派手めの化粧と大きなバッグ。ひと目で、拓海くんと“同じ年代の世界”の子だと分かる。
「私、就職決まったんだよ? 前に言ったでしょ、お祝いぐらいしてよ~」
馴れ馴れしく笑う声に、胸の底がずきりと痛んだ。
(彼はこんな子と、同じ時間を過ごしていたんだ)
無意識に皿を持つ手が止まる。
「そんな約束、僕はしてない」
拓海くんの声は、あくまで淡々としていた。だが彼女は勝手に続ける。
「一年も付き合ってたのに、薄情じゃない?」
“付き合っていた”。その言葉が、想像していた以上に重かった。
僕は皿洗いの手を動かしながら、無意識に二人の声を追ってしまう。
「拓海に別れた理由、言ってなかったよね?」
「……今さら何?」
「拓海ってば、男女どっちともいけるタイプだったからさ。私、二股されてたの実際ショックだったんだけど」
息が止まった。
(……男女どっちも?)
胸の奥のどこかが、一気にざわめく。
拓海くんが、同年代の“男”と親しくなる姿を、ありありと想像してしまう。
簡単に距離を詰められる相手。俺にはない若さと軽さ。そして彼の持つ無邪気さ。
それらが胸の奥でひどい音を立てた。
(やっぱり……俺なんかじゃ太刀打ちできない)
拓海くんの母さんが横に来て、皿を受け取りながらぽつりと言った。
「友則さん、気にすることないわよ」
それは、心の内を自然に見抜くような声だった。
「……いえ、別に俺は──」
「拓海は男の子と付き合ったことなんて、一度もないから。女の子の勘違いよ」
世界が一瞬、静かになった。
「だってほら、あの子、見栄張りだからねぇ。年上の友則さんにバレる嘘なんかついたら、すぐ剥がれるわよ」
軽く笑って皿を積む拓海くんの母さんを見て、肩の力が抜けていくのを感じた。
(本当によかった――)
自分がどれだけ安堵しているのか、その時はじめて気づいた。
来店客が途切れ、ようやく元カノが帰った頃。拓海くんに声をかけた。
「さっきの話……本当はどうなの?」
彼は少し驚いたあと、すぐ首を横に振る。
「誤解です。僕じゃありません。“男の子”の浮気相手は、元カノのほうですよ。僕は巻き込まれただけなんです」
「そっか……」
胸の奥につかえていた塊が、すうっと溶けていった。同時に、自分がどれだけ彼に依存しているのかがはっきりわかって、逆に怖くなった。
「心配するんですね、友則さん」
やわらかく笑うその顔が、反則みたいに優しい。
「……するよ。君のことだから」
思わず、正直な言葉が漏れた。その瞬間、彼はカウンター越しに俺の手をそっと握ってきた。
「だったら……僕が裏切らないって信じてください」
信じたいと思った。疑わないでいたいと思った。だけどそれ以上に──。
「……ありがとう。そんなふうに言われたの久しぶりで……泣きそうだ」
「泣いていいですよ。うちの店、泣いてる大人けっこう見ますし」
軽口を叩くのが、ずるい。俺は笑いながら目頭を押さえた。そして、心の奥でそっと言った。
(――拓海くんが俺を選んでくれる限り、俺も君を裏切らない)
***
暖簾を降ろし、最後のテーブルを拭き終えたところで、厨房から「できたよー」という拓海くんの母さんの声が響いた。
振り返ると湯気の立つ大皿がカウンターに置かれていて、出汁の香りが疲れた体にじんわり染みてくる。
「友則さんも食べてって。さっきは災難だったでしょ」
そう言う拓海くんの母さんの声は明るいのに、俺自身はどこか心配を隠せていない。
「いえ……俺よりも、拓海くんの方が大変だったんじゃ」
「んー? あの子は平気よ。見てたでしょ。あんなにすぱっと断るなんて、逆に気持ちいいくらいだったわ」
冗談めかした声に笑い返そうとしたのに、胸の奥にまだざらついた影が残っている。
――“二股”。
その言葉が、どうしても頭を離れてくれなかった。あの場で拓海くんが否定してくれたとはいえ、完全に拭い切れない不安がまだ熱を持って胸に残っている。
「じゃ、私は先に上がるから。ふたりで食べちゃっていいからね。……友則さん」
拓海くんの母さんは、少しだけ声を落とす。
「さっきの、気にすることないわよ。拓海が男の子とそんな――ねえ? そんな嘘が通じると思う?」
意味深ににやりと笑い、
「年上の友則さんにバレる嘘ついたらダメだよ、まったく」
とわざわざ言い置いて、暖簾の向こうへ消えていった。ぽつんと残された店内に、くつくつと煮物の鍋が冷めていく音だけが響く。
「……友則さん、座ってて。まかない、運ぶから」
気遣うような声がして顔を上げると、拓海くんがいつものように皿を二つ手にしていた。さっきまでの騒ぎが嘘のように表情は静かで、どこか照明の光を柔らかく返している。
「その……さっきの話だけど」
思わず切り出すと、拓海くんは苦笑して皿を置いた。
「友則さん気にしてるよね。……ごめん。あんな言われ方されたら、そりゃ不安にもなる」
「不安っていうか……君の過去に口を出す資格なんてないのは、わかってるんだけど」
俺が言い淀むと、拓海くんはスプーンを指で弾いて「資格とかじゃないよ」と呟く。
「だって、僕……友則さんと一緒にいるんだよ。隠し事してたら、それって嘘ついてるのと同じだと思う」
ふっと頬が熱くなる。こんなふうに真正面から気持ちを向けられるたび、年上なのに、心のどこかが頼りなく揺れる。
「僕、二股なんてしてないよ。あの子とは……ちゃんと終わってた。もう一年も前に」
「でも、あの子は“就職祝いしてくれるって言ったのに”って……」
「あれは、僕が“何かあったらまた来てもいいよ”って言ったのを、勝手に都合よく覚えてるだけ。あの頃は――誰が来ても嬉しかったんだ」
かすかな、寂しさを滲ませた笑み。それが店の蛍光灯よりも柔らかく、夜風みたいに胸に沁みる。
「でも、今は違う。誰にでも優しくしたいなんて思わない。……友則さんがいてくれるから」
その言葉が、まるで熱いスープの湯気のように胸の奥を温め、少しだけ痛くする。
「友則さん……そんな顔しないで」
拓海くんが小さく笑って、僕の茶碗に味噌汁を注いだ。
「ちゃんと見てるよ。友則さんだけに、ちゃんと向いてる。これ熱いから気をつけて」
差し出された湯気の向こうで、彼のまっすぐな眼差しとぶつかる。その確かさに、ようやく胸の奥のざらつきがゆっくり溶けていく。
拓海くんの母さんが階段を上がる前に口にした言葉が、まだ耳に残っていた。
“年上の友則さんにバレる嘘、ついたらダメよ”
冗談めかした声なのに、なぜか胸の奥が温かくなる。あのときの元カノの言い分なんて、もうどうでもよかった。いまは――拓海くんがこんな近くにいる、それだけで。
「……隣、座っていい?」
拓海くんが僕の顔色を伺いながら、いつもの距離より一歩踏み込んできた。
「もちろん」
言った途端、彼は嬉しそうに笑い、僕の横に腰を下ろす。肩と肩のあいだに、わずか一握りほどの空気。ふとした拍子に触れてしまいそうな距離に、喉が鳴りそうになる。
「友則さん、不安になる?」
声が驚くほど優しくて、胸の奥に触れられたようだった。
「年下の君に、こんなこと言うのは情けないんだけど……うん。少しだけ」
正直に言うと拓海くんはふっと笑って、僕の味噌汁の蓋を取った。
「いいよ、そうやって言ってくれて。嘘よりずっと嬉しい」
置かれた蓋の音が小さく響き、静かな店内に溶けていく。次の瞬間、拓海くんの指先が僕の手の甲に触れた――ほんの、かすかな接触。
それだけで心臓が跳ねる。しかも、拓海くんの指が離れない。
「友則さんが不安になるような過去なんて、僕にはないよ」
囁く声が、すぐ耳のそばに落ちてくる。
「だって……いま見てほしいのは、あの頃の僕じゃなくて、今の僕だから」
顔を上げるとさっきまでよりずっと近い距離で、拓海くんが微笑んでいた。
「友則さんの隣に座って、ご飯を一緒に食べて……こうして触れるの、全部いまの僕」
絡められた指が少し力を込めてくるだけで、呼吸が浅くなる。こんなに自然に距離を詰められると、年上の余裕なんて簡単に崩れてしまう。
「……拓海くん」
「ねえ、もっとちゃんと信じてもらえるまで、こうしててもいい?」
囁き方がずるい。否定できるわけがなかった。
「……うん。俺の傍にいてほしい」
願いを口にしたら、拓海くんはほっと息をこぼして、指を深く絡めてきた。
店の時計の針の音さえ聞こえるほど静かな空間で、ふたりのつないだ手だけが、熱を持って確かに存在していた。
「いただきます」
「はい。一緒にね」
そして、同じ湯気を吸い込みながら箸を動かす。
店内にはもう誰もいない。外の通りから聞こえる遠い車の音まで、まるでふたりの時間を邪魔しないように、静かに遠のいていった。
――こんな夜が続けばいい。
そう思ったのは、きっと俺だけじゃない。横顔の穏やかな表情が、それをそっと物語っていた。
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