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第三夜 奪われていた名、覚悟の服従
十五年前、鬼禪町――。
夜に降る雨が怪異の訪れを報せる。
生まれ来る弟を救わんとした長男が、雨の中倒れていた……。
東雲家当主・燈利は、出産を終えたばかりの妻・焔香 に家を託す。
怪異に呪われた息子を抱きながら、町の中心にある屋敷へと走った。
「鬼禪さま!」
ことの深刻さを演出するかのように、雷鳴が轟く。
屋敷の中へ入ると雨は敷地に入ってこない。
燈利は抱いた息子を祠の前へ寝かせると、そのまま地面に額をこすりつけた。
「息子を、燈緒 をお助けください! このままでは……」
『悪趣味な変態の嫁にされると』
「ッ、はい……」
火の玉が燈利の背後に人型を作っていく。
赤く長い髪を風になびかせ、彼・鬼禪は一歩ずつ近づいてきた。
鬼禪はまだ幼い燈緒に近づき、着物をめくりながら異変を調べる。
「ずいぶん杜撰な契約だな。綻びが三箇所ある……ひとつは身近なところに隠れたな」
「助かりますか」
「上から塗り替えることはできるだろうが、面倒だ」
鬼禪はそう言い切ると、立ち上がり祠を離れようとする。
その脚に燈利が絡みついた。
「永遠にあなた様へ仕えると約束します! どうか、どうかお助けください!」
「仕えると。この俺に」
「はい……!」
「陰陽師も廃れたものだな。鬼に服従か。面白い」
燈利の必死さが、一筋の救いの糸を指し示す。
鬼禪は顎に手を当てて考え、契約の品はどれにするかを考えた。
――屈辱的で愉快なものがいいだろう。
「は、はうえ……」
すると燈緒が声を漏らす。
燈利はうなされる息子の額を撫で、心配そうに見つめていた。
――嫁に送り出したくない息子か。ならば。
「良いだろう。この俺が救ってやる」
「――! 鬼禪さま、感謝しま……」
「ただし」
安堵に浮かぶ光を潰すように、冷たく鬼禪が続ける。
「その息子が二十歳になる夜。この俺に服従の証として差し出せ」
「……そ、それは……」
「今、変態の嫁にするか、この先で鬼の嫁にするかの違いだろう」
燈利は眉根を寄せ、険しい顔で息子へと視線を落とした。
燈緒の顔色が先ほどより青白くなっている。
「十五年待ってやる分、俺は優しすぎるくらいだとは思わないか?」
「それは……しかし……」
鬼禪の手が燈利の顎を掬い、頬を寄せた。
燈利の耳元に吐息がかかる。
「燈利。貴様に迷っている時間があるのか?」
将来、息子が受ける屈辱を理解し、燈利は瞼をきつく閉ざす。
唇を噛みしめ、拳を握ると、鬼禪の手を離れる。
額を地面に重くこすりつけながら、震える唇を開いた。
「息子を……燈緒を、お願いいたします」
鬼禪は燈緒の着物を整える。
そして燈利の唇から誓いの言葉が出るのを待った。
「……鬼禪さまの元に嫁がせるまで、この子の無垢も守り抜きます」
「ふ。それは良い心がけだ。その純潔、十五年後に余すことなく頂こう」
燈利の言葉を聞くと、鬼禪は自身の鼻先に指を当てて愉快そうに鼻息を漏らした。
「さて。記憶を多少改変する必要はあるが……。母と弟を守ったという事実の面影はなぞってやる」
「……はい」
「呪いは無かったと思わせよう」
「ありがとうございます……」
「名は燈緒といったな。仮契約の証として、“灯”の字を与える。今日からこの子供は、俺と契りを交わす誓いを立てた“灯緒 ”だ」
代々、東雲家に引き継がれた燈の字を奪われ、燈利の目頭が熱くなる。
「少しばかり質素にはなるが、俺はこの字の方が愛着を持てるのでな」
――名など、大して証としては役に立たないがな。
鬼禪はいたずら心で東雲家の名の一部をかすめ取り、満足げに笑った。
「言っただろう。三度、俺を扱わせることを許してやると」
鬼禪の言葉に意識が現実に引き戻される。
『一度目は母と弟を救わんとした日、二度目は今夜、その変態から――三度目だけは、お前に選ばせてやる』
頭に痛みが走り、昨晩の記憶がよみがえった。
「兄様……」
弟に手を取られ、灯緒はようやく顔を上げた。
「――!」
鬼禪の目が見開かれる。
灯緒の瞳がまっすぐと彼を見つめていたから。
それは覚悟を宿した色。
諦めとは違い、力がこもっていた。
「二度も……助けていただき、感謝します」
灯緒は燈赫から離した手を畳みに添えて頭を下げた。
「……鬼禪さまの元で尽くします」
「兄様!」
燈赫が声を張り上げる。
覚悟の奥で、灯緒の涙が揺れた。
――屈辱か。それもそうか。
頭の奥で鬼禪の声が響く。
かつては聞こえ切らなかった声が。
恐る恐る目線を上げると、鬼禪が唇を尖らせ不満の息を吐いた。
――彼は、いったい何が不満なんだ。契約を押し付けてきたのは、彼なのに。
再び目線を落とし、灯緒は続ける。
「僕にできることがあれば、おっしゃってください」
「兄様ダメだ! こんな鬼の言葉に惑わされないで!」
弟は兄を助けようと、両手で印を組む。
――足止めして逃げてやる!
弟が霊力を高め始めると、鬼禪の眉根に影ができる。
鬼禪は指先に風を集め、それをはじくと燈赫の霊力を吹き飛ばした。
「燈赫!」
「な、に……」
――この子供、ただの陰陽師ではないな。
一気に霊力が吹き飛ばされたせいで、燈赫の意識が遠のいていく。
燈赫へと戻ろうとしている霊力の残滓が、まるで未練がましく灯緒の指先に絡みつくのを、鬼禪は不快そうに払いのけた。
一方で、弟を抱きとめた灯緒は、きつく鬼禪を睨んだ。
「ふ。良い目だ」
それなのに、まるで鬼禪の前では赤子の微笑みかのようにとらえられているようにすら感じた。
「契約は守る。だからお前も俺から離れるな」
立ち上がりながらそう言いきると、鬼禪の周りに火の玉が浮かぶ。
「部屋は母屋の中心にある。弟は離れで寝かせろ。それがおまえのためになる」
わずかな恐れが表に出て、弟を抱きしめる手に力がこもる。
鬼禪は射抜くような冷たい目で燈赫を見下ろし、言いきった。
そして、火の玉が散るころには姿を消していた。
両親を失い、かつての真実を聞かされ、知らぬ間に契約し、鬼を主としなければならない。
灯緒の頭の中でじりじりと現実が刻まれていく。
離れに寝かせた燈赫の額を、灯緒は優しく撫でた。
自分より霊力の強い弟さえも、あの鬼には敵わない。
「燈赫だけは、守り抜く……」
灯緒の頬を、やっと一筋の涙が伝った。
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