6 / 7

第六夜 残り香が誘う劣情、よみがえる恐怖

 息を切らせ、うるさく足音を鳴らしながら、燈赫が母屋を駆ける。 「兄様! 兄様ーッ!」  鬼禪は用心深く、灯緒の気配が感じられなくなるまで燈赫の身体を風で拘束していた。 「くそ、何が主だ……そもそも……と、どど、と……も。もも……グ……っクッソ! 兄様を見つけたのはおれだぞ!」  ――禁じているとは、そもそも……“したくともできぬ”ということだ。  ――兄の名も呼べぬことに、気づいていない。  鬼の言葉に、燈赫のみぞおちの奥が、じりじり熱くなってくる。  しかし、憎い相手と愛しい兄をどれだけ探し回っても、隠された場所は見つからぬまま、夜が明けていった。 「兄様のすべては、おれが手に入れるはずだったんだ……十五年前のあの夜に、邪魔が入らなければ……!」  爪を噛みながら、忌々しい男の顔が頭に浮かんでくる。  呪いの邪魔をしてきた男――狐のせいで、綻びから呪いを上書きされたのだ。  糸のように細い目。  呪欲を見つめるその目は、いやらしく纏わりついた。  口角は常にヘラヘラと上がっているのに、その霊力の大きさには圧倒される。  あの眩しい金の髪まで記憶に張り付いて離れない。 「変態狐が……」 『年増のアイツがどうかしたか』 「――ッ!」  燈赫の背後に、いつの間にか火の玉が浮かんでいる。  咄嗟に離れると、鬼禪の姿が現れた。 「クッ、兄様をどこへやった!」 「身なりが整えば戻るだろう」  ――乱れさせたということか……!?  鬼禪の言葉に燈赫の顔が熱くなる。  頭の中では、昨日の兄のあられもない姿が浮かんでいた。  兄のすべてが、ひとつひとつ確実に奪われている。  その事実に、嫉妬心と怒りの両方をぐちゃりと混ぜ合わされていく。  感情の高ぶりから、燈赫の眼球が変化し始めたそのとき。 「鬼禪さま?」  灯緒が掠れた声で鬼の名を呼んだ。 「兄様!」 「燈赫。ここにいたんだな。探したよ」  探していたのは自分の方だ。  鬼禪を押しのけ、兄に駆け寄る。  力強く灯緒を抱きしめると、鬼の強い残り香が燈赫の鼻を掠める。  一瞬身を離すと、首筋と鎖骨下に鬼による赤い印が浮かんでいるのが見えた。  再びみぞおちで怒りと嫉妬が暴れる。  その中で同時に、得体のしれない欲情が湧き上がり出していた。  ――汚された兄様の、内から湧くこの匂い……今すぐ喰らい尽くしてしまいたい。  その劣情をなんとか押し込めながら、燈赫は固く目を閉じ、もう一度兄を強く抱きしめた。  そうでもしないと、とても人でいられそうにない。  今すぐにでもこの印を嚙みちぎって、灯緒のすべてを喰らい、所有権を上書きしたい。  燈赫の瞳が、また変化しかけている。  しかしその時、ふわりと舞った風が燈赫の鼻に嫌な記憶を運んできた。 「鬼禪~ここにおったんや~」  ゾワァッ――。  この声、この喋り方。  あの、狐だ。  燈赫の背筋を虫が這いまわるような気持ち悪さと、冷たい汗の流れる感覚が走る。 「きーてやぁ。ほんまにな、ちょおっとな。昼寝しててん」 「長くなるならば毛皮を剥ぐぞ」 「やめてえや~! また禿げてしまう!」  親し気に話す鬼と男。  しかし、その男の影が、鬼禪の影を明らかに超えているのが、灯緒にも分かった。 「え、あ。鬼禪、さま? その方は……」 「ただの変態年増だ」 「そんなことないて。鬼禪クンより三百年ほどおじいちゃんではあるけどな」  自信が人ではないことを簡単に明かす男が、灯緒に馴れ馴れしく近づいて来る。  しかしそれを鬼禪が遮った。 「安心しろ。おまえには干渉させない」 「そぉそう~! オレが愛でてんのは執着心そのものやから。人に興味はないねん」  首を傾げる灯緒に笑みを向けたままでいる男。  明るい調子にこの表情だというのに、鬼禪の隣に立つよりも、近づくことに恐れがある。 「……用件を言え」 「ああ、そーそう。目が覚めたら怪異ちゃんいなくなっててん。でも無事でよかったわぁ」 「え? あ。は、はい……」  灯緒の方を見た男は、紅潮していく頬を片手で隠しながら視線を転がした。 「ちがう、ちがう。お兄さんやのーて、そっちの怪異ちゃん」  男の指が伸び、燈赫の背に優しく刺さる。 「探したんやで~。オレの可愛い~怪・異・ちゃ・ん♡」 「……ッ!」  燈赫の身体が震えて、カチカチと歯を鳴らしている。  ――燈赫を、こんなにも怯えさせるほどの霊力!  灯緒は弟の背を力強く抱き、狐を睨んだ。 「燈赫はおとうと――っ」  しかしその瞬間、灯緒の眼前に火の玉が浮かぶと、狐の方から口笛が鳴った。  灯緒の膝の力が抜けていき、燈赫と一緒に縁側へと倒れていく。 「さすがやねえ、鮮やかな鬼火玉(おにひぎょく)! でもなんで気絶させてんのん?」 「樂狐(がっき)」  鬼禪が狐の名を呼び、目線を向ける。 「あれ? もしかしてぇ、まだ教えてないのん?」 「貴様は余計なことを言うか、するかだな」  ため息を吐き、鬼禪が樂狐の頭を掴んだ。 「ンハハ~! そらどぉもお。って、あ。ちょっと待ってや。やめてや鬼禪クン、頭イヤ、まっ! 鬼禪サマァァァ!」  髪の毛が引きちぎれ、もがれる音が屋敷に響く。  燈赫は灯緒の腕の中で、小さく隠れていた。 「貴様、いつまで灯緒に触れている」  ついさっき毟ったばかりの無数の金の糸を握りしめた鬼禪が、燈赫から灯緒を引き離し、灯緒の乱れた毛流れを整える。  燈赫の温度が灯緒に移っていること感じ取った鬼禪が、その温度を塗り替えるように灯緒の頬を撫で、唇を耳元に寄せている。  しかし、鬼禪の視線は燈赫の中の怪異に向けられていた。 「貴様はそのまま、そこで怯え、指をくわえて見ていろ」  挑発してくるような言葉を投げられても、怪異はうずくまったままだ。  樂狐が現れる前より、幾分身体が縮こまっている。 「未熟な怪異らしい、無様な変化だな」 「なんとでも言え……」 「貴様の執着心も、たかが知れていたな」  唇を固く結ぶ怪異。  今までの挑戦的な態度がまるで嘘のようだ。 「燈赫」  鬼禪の低く冷たい声が、灯緒の弟の名を呼ぶ。 「己の秘密は己で守れ」  まるで刺されているかのような重たい声。 「貴様が灯緒を傷つけたいわけではないこと、見ていれば簡単に分かる」  しかし、言っていることは敵に対してのそれではなかった。 「弟さえもすでにこの世にいないと知れば、灯緒の心は持たぬだろう」  抱き上げた灯緒の額に頬を寄せ、少しの間、瞼を閉じた鬼禪。  一呼吸置き、瞼を持ち上げると、鬼禪は燈赫に背を向けた。 「触れることも、所有することも許しはしない。だが、貴様が弟で居続けることだけは許している。そのために昨晩、契約し直したのだ」  燈赫の目頭に熱が集まってくると、恐る恐る怪異は顔を上げた。  鬼禪は灯緒を抱いて離れていく。  すると樂狐が空気を壊すような声音で近づいてきた。   「悪かったってぇ~けどそんな怖がることないやん~! な? 怪異ちゃん」 「……」 「あれ。あれれぇ? その目、その色……! 執着のそれやん!」 「うるさい。おれは、兄を守りたいだけだっ」  燈赫はそう声を張ると、握っていた拳の力を緩める。  そしてもう一度小さく言った。 「そうだ。俺は……兄を……」 「ええなぁ、その目。もっと見せてや」 「……」  怪異はこれからも、弟として、この関係を守りながら灯緒を手に入れようと決意し直す。  しかしその弟が、生まれて間もなく怪異によって奪われていることを、灯緒はまだ、知らない。

ともだちにシェアしよう!