28 / 39

三章『第九話 珈琲と相談と②』

 人気のない廊下に、二人分の足音が響く。  夕刻のこの時間帯、この治療区間は、人がいないことが多い。駆り出される人員が多いから、自然とそうなる。  ……まぁ、都合がいい。  一応周囲に人の気配がないことを確認してから、視線を前へと戻す。  少し先を歩く、広い背中。 「良かったね、てっちゃんに話を聞けて」  そう声を掛けると、前を行く彼――瑠璃くんの足が、ほんの一瞬だけ止まった。  けれどすぐに、小さく息を吐いて。何事もなかったかのように、歩き出す。 「……何度も言いますが、あの人をそう呼ぶのは控えてください」  ああ、うん。予想通り。  思わず、くすりと笑みが零れる。 「誰もいないことは確認済みだよ」 「そういう問題ではないです」  ぴしゃり、と返されるその声音に、ますます頬が緩む。  本当、分かりやすい。 「……相変わらず、君は優しいね」  ぽつりと零したそれは、冗談でもなんでもなくて。僕なりの本音だったんだけど。  その言葉を聞いた瞬間、今度こそ彼は足を止めた。 「…………面倒なだけだ」  吐き捨てるような、そんな声。  いつもの堅い敬語が、少しだけ剝がれている。  多分、これもまた、彼の本音。  ……でも、それだけじゃないくせに。 「うん、素直じゃないのも相変わらずだ」  そう返せば、案の定。  じとり、と振り返ってくる視線。あからさまに、不機嫌そのものといった表情に、くすりと笑ってしまう。  ……うんうん、その顔。  つい最近、似たようなのを見た気がするな、なんて。  瞬間、ふと頭に浮かぶ。  やっぱり、血の繋がりってすごいな、なんてどうでもいいことを思ってしまう。  もちろん、口には出さないけど。 「……貴方にだけは言われたくない」  瞬間、ぴしゃりと言い切られてしまう。  そのまま、こっちの返事なんて待たず、前へと向き直り歩き出す背中。  その姿に、思わず苦笑が零れた。 「んー……察しが良いのも相変わらず、か」  一人、ぽつりと呟く。  ……性分が悪いのは、自覚してる。それでも、止める気はないけど。  軽く肩の力を抜いて、懐に手を入れる。  ――――さて、と。  取り出したのは、小さな筒。  ころり、と掌に転がしたそれの中には、見慣れた錠剤が一粒。  てっちゃんに調合してもらっている、僕専用の薬。  もう、かれこれ七、八年だろうか。定期的に、こうして人目を避けて、処方してもらっている。  ――――本当は、こんな使い方、怒られるんだけどね。  蓋を開けて、一粒だけ取り出す。  少しの間、指先で転がしてから。そのまま口へ放り込んで、飲み下す。 「…………うん、これで暫くは保つかな」  小さく呟いて、息を吐く。  本来は、月に一度でいい、強い薬。それを、週に一度。……そりゃあ、いい顔はされないよね。  親友としても、医者としても。  でも。 「……それでもね、てっちゃん」  ちょっと口煩くて、面倒くさい親友。きっとまた、怒られるって分かってる。  それでも、止める気はない。  ――――だって。 「――――少しでも長く、太陽を見ていたいんだ」    そう零して、ふと視線を上げる。  廊下の先、もうずいぶん遠くに行ったと思った背中が、案外まだ近くにいた。  待ってくれてる。気付いた上で。  その背から滲む想いに、胸の奥が軋む。  ――――ああ、眩しいなぁ。  そう思いながら、ゆっくりと歩き出す。  その背に追いつきたいような、追いつきたくないような。……そんな、どうしようもない気持ちのまま。

ともだちにシェアしよう!