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三章『第九話 珈琲と相談と②』
人気のない廊下に、二人分の足音が響く。
夕刻のこの時間帯、この治療区間は、人がいないことが多い。駆り出される人員が多いから、自然とそうなる。
……まぁ、都合がいい。
一応周囲に人の気配がないことを確認してから、視線を前へと戻す。
少し先を歩く、広い背中。
「良かったね、てっちゃんに話を聞けて」
そう声を掛けると、前を行く彼――瑠璃くんの足が、ほんの一瞬だけ止まった。
けれどすぐに、小さく息を吐いて。何事もなかったかのように、歩き出す。
「……何度も言いますが、あの人をそう呼ぶのは控えてください」
ああ、うん。予想通り。
思わず、くすりと笑みが零れる。
「誰もいないことは確認済みだよ」
「そういう問題ではないです」
ぴしゃり、と返されるその声音に、ますます頬が緩む。
本当、分かりやすい。
「……相変わらず、君は優しいね」
ぽつりと零したそれは、冗談でもなんでもなくて。僕なりの本音だったんだけど。
その言葉を聞いた瞬間、今度こそ彼は足を止めた。
「…………面倒なだけだ」
吐き捨てるような、そんな声。
いつもの堅い敬語が、少しだけ剝がれている。
多分、これもまた、彼の本音。
……でも、それだけじゃないくせに。
「うん、素直じゃないのも相変わらずだ」
そう返せば、案の定。
じとり、と振り返ってくる視線。あからさまに、不機嫌そのものといった表情に、くすりと笑ってしまう。
……うんうん、その顔。
つい最近、似たようなのを見た気がするな、なんて。
瞬間、ふと頭に浮かぶ。
やっぱり、血の繋がりってすごいな、なんてどうでもいいことを思ってしまう。
もちろん、口には出さないけど。
「……貴方にだけは言われたくない」
瞬間、ぴしゃりと言い切られてしまう。
そのまま、こっちの返事なんて待たず、前へと向き直り歩き出す背中。
その姿に、思わず苦笑が零れた。
「んー……察しが良いのも相変わらず、か」
一人、ぽつりと呟く。
……性分が悪いのは、自覚してる。それでも、止める気はないけど。
軽く肩の力を抜いて、懐に手を入れる。
――――さて、と。
取り出したのは、小さな筒。
ころり、と掌に転がしたそれの中には、見慣れた錠剤が一粒。
てっちゃんに調合してもらっている、僕専用の薬。
もう、かれこれ七、八年だろうか。定期的に、こうして人目を避けて、処方してもらっている。
――――本当は、こんな使い方、怒られるんだけどね。
蓋を開けて、一粒だけ取り出す。
少しの間、指先で転がしてから。そのまま口へ放り込んで、飲み下す。
「…………うん、これで暫くは保つかな」
小さく呟いて、息を吐く。
本来は、月に一度でいい、強い薬。それを、週に一度。……そりゃあ、いい顔はされないよね。
親友としても、医者としても。
でも。
「……それでもね、てっちゃん」
ちょっと口煩くて、面倒くさい親友。きっとまた、怒られるって分かってる。
それでも、止める気はない。
――――だって。
「――――少しでも長く、太陽を見ていたいんだ」
そう零して、ふと視線を上げる。
廊下の先、もうずいぶん遠くに行ったと思った背中が、案外まだ近くにいた。
待ってくれてる。気付いた上で。
その背から滲む想いに、胸の奥が軋む。
――――ああ、眩しいなぁ。
そう思いながら、ゆっくりと歩き出す。
その背に追いつきたいような、追いつきたくないような。……そんな、どうしようもない気持ちのまま。
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