36 / 39

四章『第八話 裏に潜むのは②』

「お前の相手は、俺だ」  そう言い切って、足元に撒いた水へと意識を向ける。散った水が、ひとつ、またひとつと持ち上がり、拳大ほどの塊へと形を変えていく。  右手を肩の高さまで持ち上げると、それに呼応するように、水塊が宙に浮かんだ。 「お前……水龍か……っ!」  男が歯を軋らせる。  その声音に、余裕はない。むしろ、露骨に苛立っている。  ――――なるほど。  少なくとも、相性が最悪ってわけじゃないらしい。それだけ分かれば、十分だ。  手のひらを、前に向ける。 「|加重《アッド・ウェイト》」  瞬間、俺の言葉に、宙を漂っていた水塊が一斉に男へと撃ち出された。 「――――っ、くそ!」  男は、咄嗟に物陰へ飛び込む。けれど――全部は、避けきれない。  ほんの一瞬、隠れきれなかった左足首。そこに、水が叩きつけられた。 「――――っ‼︎」  ……とはいえ、水だ。直撃しても、決定打にはならない。  結果、男の顔には、一瞬だけ余裕が浮かんだ。  「……、っ⁉」  けど、それもすぐに消えた。  自分の足に起きている“違和感”に気付いたんだろう。 「っ……テメェ、何しやがった‼︎」  物陰から顔だけを覗かせて、こちらを睨みつけてくる。  その視線を正面から受けながら、俺は淡々と口を開いた。 「見ての通り、俺は水龍の系譜者です」  出来るだけ、刺激しないように。 「水は操れても、攻撃力はほとんどない。……なので、拘束に回しました」  ベルトからもう一本、ボトルを外す。  手は少し強張っている。でも、それを悟られるわけにはいかない。 「動きづらいでしょう」  蓋を開けて、水を床へ落とす。  落ちた水は、しばらくその場に留まり――やがてまた、ゆっくりと浮かび上がった。  増えていく水塊。それも、十、二十じゃきかない数。 「一つで、三~五キログラムくらいの負荷は掛けられます」  俺の言葉に、男の表情が、はっきりと変わった。 「下手をすれば、怪我しますよ」  その中心に立ちながら、言い切る。 「だから――――、」  目は、逸らさない。 「抵抗しないでくれると、助かるんですが」  投降を促す。表面上は、あくまでも穏やかに。  でも、内心は正直、全然余裕なんてなかった。  相手の能力は、いまだ不明のまま。形勢は、さっきからあまり変わってはいない。今でこそ優位に立てているけれど……いつ、これが崩れるかなんて分からない。  ――――だから、長引かせたくない。  汗がつぅ、と額を流れる。  できるなら、このまま終わらせたい。  そう言って、男の出方をじっと待ったけれど……男は、動かない。ただ、黙ったままだ。  その顔は、影になって見えない。  ――――嫌な、沈黙だ。 「……が、……んだよ」 「――――え?」  瞬間。  それは微かな声だった。  聞き取れなくて、一歩、近付いた。  ――――その時だった。 「偉そうにしてんじゃねぇ、クソがぁっ!」 「っ、な……っ⁉」  勢い良く立ち上がり、かと思えば飛び出してきた男に、反応が一瞬遅れる。  咄嗟に水塊を飛ばす――が。狙いが、甘い。  当たったのは、ひとつ、ふたつ。他は、壁や棚に弾けた。 「機関の腑抜けが、指図してんじゃねぇっ!」  負荷は、確かにかかっているはずなのに。それでも、男の動きは止まらなかった。  伸びてきた腕に、手を掴まれる。 「っ、離せ……っ!」  ――――まずいっ!  懐に、入られた。  俺はあまり、体術は得意じゃない。力も強くない。……こうなると、途端脆くなる。  どうにか捻って、振りほどこうとするけれど。男の方が、力が強い。  きっと死に物狂いなんだろう。びくともしない。  ――――くそっ、甘かった!  気を抜いた。これは、一発貰う。 「……っ」  そう思い、衝撃に備え、体を固める。  この程度なら慣れているから。多少の傷、問題ない。  ……そう、思ったのに。 「お前たちが……お前たちが悪いんだ……っ」  男の声が、変わる。  ぶつぶつと呟く、要領を得ない言葉。そして――――血走った、焦点の合わない目。  その目を見た瞬間。  ぞくり、とした。 「っ! やめろ……っ!」  咄嗟に振り払う。  今度は、その手が離れた。  ――――嫌な予感がする……っ。  咄嗟に、一歩後ろへ。距離を取ろうとして――ぐらり、と視界が揺れた。 「な……に……?」  足に、力が入らない。立っている感覚が、どこかに抜け落ちる。  踏ん張っているのに、崩れそうになる。 「なんだ、これ……」  その時。 「ひっ、ひひひっ」  聞こえてきたのは、笑い声だった。  男の、歪んだ、笑い。 「俺は邪竜でよ……」  さっきまでの微かな声が、嘘のように。男は、声高々に続ける。  その口元は、卑しく歪んでいた。 「まともな力なんて、そもそも使えねぇ。これだけなんだよ。俺には、これしかねぇんだ」  その言葉に、急激に背筋が冷えた。  「お前はもう、俺に呪われてる」  ぞくり、と。身体中を、何かが這い上がる。  ――――邪竜。  その一言だけで、理解する。  やばい。  ――――気付くのが遅れた。これは、一人で対処する相手じゃないっ。 「――――っ」  足に、力を込める。  立て。しっかり。まだ動ける。  ――――動けっ!  ……けれど。 「……っ、……」  力が、抜けていく。  意識ははっきりしているのに。足が、手が、思うように動かない。  壁に、背中が当たる。  ――――ごめん、燐……。  過るあの赤を思いながら。俺はそのまま、ずるりと崩れ落ちる。  男の卑しい目が、俺をただ見下ろしていた。

ともだちにシェアしよう!