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四章『第九話 裏に潜むのは③』
邪竜の呪い。
その効果は様々だけど、大抵は、対象の動きを封じる類の能力。
そして、その厄介な特性は……強さが、対象との距離に依存する、ということ。
――――こんな、至近距離じゃ。
身動きどころか、指一本すらまともに動かせない。
……くそ。
せめて、距離さえ取れれば……。
そう思った、その時だった。
「ひひっ、ひひひっ……」
男が、笑いながらこっちへ歩いてくる。
「仲間は昨日、みんな捕まった。もう俺だけなんだ……」
ぶつぶつと、独り言みたいに男は喋り続けている。けど、俺はそれに返すことすらできない。
なにせ、浅い呼吸を繰り返すだけで精一杯だ。
ただ。男はまったく気にした様子もなく、ただ言葉を落とし続ける。
「元々、俺は逃げるつもりだったのに……この店だって、女が一人だって言うから、人質にしようと……」
――――聞いてる余裕なんて、ないのに。それでも、今の俺には、男の話を聞くことしかできない。
くそ、と、心の中で悪態をつきながら、成り行きを見ていたら――――。不意に、男の動きが止まった。
「……そうだ、それがいい」
男の声が、少し弾む。
浮かぶ笑みに、嫌な予感がした。
「アンタ、副長だろ? なら――アンタを使えば、逃げられる」
――――は?
男の言葉に、思考が止まった。
「山向こうの獣人の国まで……そう、あそこまで行ければ、きっと……っ」
続いたその言葉に、一瞬だけ引っかかったけれど。今はそれどころじゃないと、隅に追いやる。
呼吸を整える。気を抜くと、意識がぼんやりする。
山吹と銀は、もう戻ってるだろうか。……あの足だから、きっと間に合ってるはず。
なら、いい。それでいいんだ。
――――……ああ、こういうとこなんだろうな。
ふっ、と内心笑ってしまう。
誰が見ても、今の自分の方がヤバい状況だろうに。頭に浮かぶのは、逃がした二人の事ばかり。自分の事なんて、範疇にない。
多少の怪我くらいは、しょうがないと思ってしまう。
――――また、空に呆れられるかなぁ……。
そんなことを、考えていたら。
「ああ、そうだ」
男がまた、声を上げた。
――――続く言葉を聞いて。流石に、背筋が凍り付いた。
「逃げないよう、足の一本くらいは潰しとくか」
にたぁ、と笑う男に、ゾッとする。
冗談……ではない。あの目は、本気だ。
男の手には、短剣が。
ここは武器屋だ。武器なんて、そこら中にある。
このままじゃ、まずい。
瞬間、腕に意識を集中させる。
――――動け。
動けよ……っ、動けって……っ!
体が、鉛みたいに思い。自分の体じゃないみたいに。
それでも。無理かもしれなくても、動かす。
――――このまま、終われるかっ!
その時。伸びきていた手を、弾いた。
「っ、な……⁉」
短剣が床に落ちた。
男の顔が、歪む。まさか、動くと思わなかったんだろう。
――――いけるっ。
まだ、どうにか動かせる。
――――そう思った、その瞬間だった。
「動くんじゃねぇっ!」
思考が、一瞬だけ真っ白になる。
怒鳴り声と――――、鋭い痛みと、熱さ。
それが、すぐ、俺の頭の中を占領した。
「――――っぃ、ぁぁああっ……!」
情けない声が、口から零れ出る。
ぼんやりしていた意識が、右手の痛みで覚醒する。
視界の端に、自分の手が映る。
赤い。
深々と突き刺さる、短剣。
床に縫い付けるように……俺を、逃がさないように。
「っ、うるせぇ……っ!」
苛立たし気に、男が短剣を握り直す。ぐ、とさらに押し込まれる切っ先に、声を抑えられない。
「ぁあっ、ぐぅ――っ!」
いたい。痛い。
思考が、まとまらない。ぐちゃぐちゃになる。
頭上で、男の悲痛な叫び声がする。
「こんなはずじゃなかったんだ……これも全部、お前らが……っ」
また始まった、男のぼやき。
けれど、右手が熱くて、痛くて、聞き取れない。声が、遠くなる。
「お前らのせいだ……っ!」
その時。
――――轟音が、周囲を包んだ。
「――――っ!」
空気が、焼けた。
火の粉が舞う。ゆらりと、視界が揺れる。
熱が、一気に押し寄せた。
――――それから。
気付けば、目の前にある、広い背中。
「――――おい」
次いで落とされた、低い声。地の底みたいに、低い響き。
けれど。
「お前……誰に何をしてる」
その声を、間違えるはずがない。
「……り、ん?」
視界が、急に開けた気がした。
――――なんで、ここに。
そう、思ったけれど。
でも。
――――ああ、燐だ。
すぐに胸を占めるのは、疑いようもないくらいの、安心感。
じわりと滲む感情に、くしゃりと、顔が歪んだ。
駄目だって分かっていても、この背中を見るだけで緩む気持ちに、ぐっと気を引き締める。
……その時。
ふと、感じる違和感。
――――熱い。
燐の周りの空気が、異常なくらいに。
「……燐?」
声を掛ける。でも、返事がない。
燐は、ただ前で、男を見下ろしている。
その顔に、表情はない。
ぶわりと、背中を駆け上がる悪寒。
「燐……っ!」
呼んでも。声が、届かない。
蘇るのは、嫌な記憶。
学生の頃。制御できなくなっていた、燐の姿。
――――駄目だ、燐……っ!
燐の背が、離れていく。
ゆらりと、真っ直ぐ男の方へ。
その足元で、ぴたりと止まった。
「……何してたかって聞いてんだよ!」
刹那。
燐は、男を蹴り上げた。
「ぁが――っ!」
吹き飛んだその背は、そのまま壁に叩きつけられた。
腹部を抑えながら。そのまま、男は呻いている。
「――――……チッ」
落とされた、舌打ち。
そのまま、燐は男へと近付いて行った。
どんどん離れていく燐に、俺はその背から目が離せない。
――――まずい。
本当にまずい。
すぐに、もう一度、自分の体へと意識を集中する。
動け。
動け、動いてくれ……っ!
足に、力が入らない。
――――でも。そんなこと、関係ない。
燐。……燐っ!
俺の事なんてどうでもいいから。だから、どうか……っ。
動けよ、俺の体だろ!
――――このままだと。燐が、壊れる!
「――――燐っ!」
無理やり、踏み出す。身体を引きずるみたいに。右手の痛みだって、今はもう気にならない。
とにかく、前に出る。
振り下ろされる大刀。その軌道に、どうにか入り込む。
正面から燐を見据えて。濁る赤を、真っ直ぐに捉える。
「燐、駄目だ!」
柄を握るその手に、手を重ねる。
熱い。まるで炎だ。
でも、離さない。――――絶対に離さない。
「燐……!」
名前を呼ぶ。
何度も。何度も。
――――昔、そうしたように。
真っ直ぐ、目を見つめた。
「……、……?」
その瞬間。
紅い瞳が、揺れた。
「……千、草?」
濁りが、消える。いつもの色に戻る。
――――……ああ、良かった。
間に合った。
「……ばか。世話、掛けさせるなよ……」
途端、力が抜ける。まともに立っていられない。
ぐらり、と前に崩れ落ちると、大きな胸に抱き留められた。
「千草っ‼︎」
背中に回った腕の力が、ぐっと強くなった。
でも、苦しくない。熱も、もうない。
あるのはただ、いつもの温もりだけ。
――――ああ。これだ。……燐だ。
緊張が、解けていく。
ほぅ、と息が抜ける。
「悪い……っ! 俺までお前に……っ、大丈夫か⁉︎」
声が遠い。
答えなきゃいけないって、分かってるのに。口が、思うように動かない。
でも……温かい。
香る匂いに。落ち着く温もりに。……ただ、離れたくないと。強く思った。
無意識にその温もりへと頬を寄せ、寄りかかる。
「千草、大丈夫――――っ」
「……やっぱり」
ほとんど無意識に。声を落とす。
「これがなくなるのは、いやだなぁ」
「……え?」
自分が、何を言っているのかなんて深く考えるよりも先に。
意識が、ゆっくりと沈んでいく。
――――ああ、あったかい。
それを最後に、俺の意識は暗闇に落ちた。
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