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四章『第十話 帰還、医務室にて』
白い。
目に入るもの全部が、やけに白い。
清潔で、整っていて――――息が、詰まる。
窓際の寝台。そこで、千草は眠っている。
「――――、…………」
規則正しい呼吸。微かな吐息。
顔色も、決して悪くない。――――けれど。
――――分かっていても。
そう。頭では、問題ないと分かっているのに。離れられなかった。
誰よりも大切な存在で。守ると、決めた男。
さぁ、と窓から風が流れ込む。
揺れるカーテン。
それと、千草の髪が、わずかに揺れた。
淡い金色が、柔い光を帯びる。
「――――」
呼んだはずの名前が、音に乗りきらず、消える。
呼んだところで。今、あの翠色が、俺を見ることはない。
…………それが、寂しい。
自然、伸びた手が、その目尻をそっと撫でる。
壊れ物に触れるように、ほんの少しだけ。
温かい。……けれど――――。
足りない。
「――――燐くん」
聞こえた声に、ぴたりと手が止まる。
柔らかい声。それに促されるよう、後ろを振り返る。
淡い薄桃色の瞳が、俺を見ていた。
「大丈夫かい」
そう言われて。ああ、と一瞬だけ思う。
…………そんな顔、してるのか、俺。
「はい、俺は全然大丈夫です」
その優しさに、俺はそうとだけ告げる。
ひどく自然な口調で。
「ありがとうございます、鴇さん」
いつも通りに、笑って。
……いや、どうだろう。
――――ちゃんと、できてるか?
鴇さんの顔が、申し訳なさそうに沈む。
その顔に思う。
ああ、やっぱり、上手くできてないのか。
「……千草くんの怪我は、|弥生班《いりょうはん》のみんなが処置してくれてる」
静かな声。鴇さんは、特に言わない。
「あとは、夕廉班長が診てくれる」
けれど、その言葉が。言外に、『だから君は気にしないでいい』と言っている気がした。
でも、それには気付いてないふりを決め込む。
「そうですか」
静かに、そう返した。
それだけで、十分だと思ったから。
「夕廉さんなら、安心だ」
軽く、笑う。本心からの言葉だったから。
あの人なら、千草の事、しっかり診てくれるって分かってる。
――――だから、大丈夫。
でも、鴇さんは、そこで止めてくれなかった。
「だから、燐くん」
一拍、間を置いて。
「……君も、少し休んだ方が良い」
ついに言われてしまった言葉。それに、言葉が詰まる。
「慣れていない力の使い方をしたんだろう?」
優しく。けれど、言い逃れることはさせない意思を感じて、一瞬身体が固まる。
……やっぱり、来ると思った。
「……瑠璃さんですね」
その問いには答えず。ほんの少し間を置いて、そう零す。
視線は、外したまま。
「そうだよ」
けれど。そんな俺の言葉に、鴇さんはあっさりと返してきた。
「前にも、似たようなことがあったんだろう」
「…………」
肯定も、否定もせず。ただ沈黙する。
数秒――――いや、もっとかもしれない。
それくらい長く感じる静けさの中、俺は強く瞼を閉じて……す、と開いた。
「――――大丈夫ですよ」
顔を上げて、また、笑う。
「もう回復してます」
つるりと、口から零れ出た言葉。
自分でも分かるくらいの、雑な嘘だ。
見た目に怪我をしてないだけで、体は気怠いし、まったく本調子なんかじゃない。
それでも――――。
仮に今、大怪我をしていたとしても。ここで引く気は、なかった。
「……そう、かい」
そんな俺の思いを察してくれたのだろう。鴇さんは、ほんの少し言葉を溜めた後。きっと言おうとしただろう言葉を飲み込み、そうとだけ零して引いてくれた。
これ以上、何を言ったところで、俺が折れるわけがない。
そう判断したのだろう。
その姿に、申し訳ないと思いはしたけれど。それ以上は俺も、何も言わなかった。
けれど、その時。
「――――こらこら、嘘はダメだよ?」
カツン、と。軽やかな靴音が、部屋に響いた。
自然、声のした方へと向く視線。
捉えたのは、黒髪を細くひとつに結った、長身の男の姿。
その男の声に、鴇さんは少しだけ困ったように眉尻を下げて、男へと振り向いた。
「桔梗(ききょう)さん……報告はどうされたんです?」
「それはもちろん、班長君にまかせてきたさ!」
報告だなんてつまらないこと、私はしたくないからね!なんて。男はからからと笑う。
皐月班副長、桔梗。国の中央区を守る――――機関一、読めない男。
「こっちの方が面白――いや、興味深かったからね! 私が来るのは当然だろう?」
「んー……まぁ、僕はいいんですけどねぇ……」
知りませんよ、なんて息を吐く鴇さんの事は無視して、桔梗副長は俺へと近付いてきた。
カツン、カツンと革靴の音を立たせて、ゆっくりと。
真っ直ぐに俺を見据える、彼の濃紫の瞳に。俺は、静かに口を開いた。
「……何か用ですか、桔梗副長」
名前を呼ぶと、桔梗副長はにこりと、口元を大きく弧にして笑った。
ひどくわざとらしいその笑顔に、ぐ、と眉間に皺が寄る。
けれど、彼は特に気にした様子は見せなかった。
「もちろん」
用がないと来ないさ。なんて、軽やかに答える。
「いいかい、文月班班長君」
『これは年寄りのお節介だが、』なんて前置きして、桔梗副長は続けた。
「優秀な部下の言葉は、ちゃあんと聞くべきだよ」
軽い口調。
けれど、明確に、俺の胸を刺す。
「人間、素直が一番だ」
くすり、と、また笑う。感情の読めない顔で。
「嘘なんて、吐かない方が良い。それが、長生きするコツだよ」
軽やかに、けれど力強いその言葉は、重く響いた。
――――分かってる。
そんなの、分かってるに決まってる。
鴇さんの優しさも、みんなの思いも。
でも。
喉が詰まる。言葉が、出ない。
……今の俺に、それを言うのかよ。
***
――――それは、ほんの数時間前。千草が、倒れた直後の話。
頭が真っ白になって、何も考えられなかった俺の耳に、その声は割り込んできた。
「――――おやおや」
その声だけで、場の空気が変わった。
ハッとして、顔を上げる。
声は、入り口から。そこには、人影が、二つ。
「随分派手にやってくれたものだ」
笑みを含んだ声音の、長身の男。周囲を見回すその動きに合わせて、彼の長い髪がゆらゆらと揺れていた。
「これは後処理が面倒だ」
「まぁ、それはあとで考えましょう」
その男の隣で。見知った姿を見つけて、無意識に張りつめていた何かが、切れた気がした。
……ああ。
俺を見て、桃色の瞳が優しく緩む。
その表情に、声に。ようやく、息ができる。
――――もう、大丈夫だ。
「っ! な、なんだお前ら……っ!」
男が喚く。そこに、さっきまでの勢いはない。
震えるその声に、黒髪の男――桔梗の目が、振り向いた。
「ふむ、君か」
静かに、柔らかい表情で。
けれど。
「君……少し、おいたが過ぎたね」
カツン、カツンとコートを靡かせながら、彼は男へと歩み寄る。
「ヒッ――⁉ く、来るな!」
腰が抜けているのか、無様にずりずりと後退る男に、けれど桔梗は口元に笑みを浮かべたまま歩みを止めない。
「逃がしてしまったのは、こっちの落ち度とはいえ……随分気を揉ませてくれたねぇ」
どう落とし前付けてもらおうか。
その言葉に、男の肩がひと際強く跳ね上がった。
「それ以上来るんじゃねぇっ!」
「うん、それはできない相談だ」
男の叫びに、軽く返して。
桔梗は、パチン、と軽快に指を鳴らした。
瞬間。
「――――っ⁉」
男の体が、黒い何かで縛られた。
ドサリと、男の体が地面に崩れ落ちる。
一瞬の出来事。それに、遅れてくる理解。
「……っ、な……?」
訳が分かっていない男に、桔梗はくつくつと愉しそうに笑っていた。
「ああ、君、邪竜だね? そうかそうか……いや、すまないねぇ」
男へ向かって、ただ笑う。
何が可笑しいのか分かっていない男は、呆然と桔梗を見上げていた。
その視線を浴びて、桔梗は「相手が悪かったね」と続けた。
「私のコレは、少しばかり年季が違う」
そのまま桔梗は、じっと、深い濃紫の瞳で男を見下ろした。
「邪竜の祖の呪い……試してみるかい?」
その一瞬、空気が凍った。
はく、と、男が口を無意味に開けては閉じる。
もう、そこから抵抗する様子は見えない。
――――完全に、折れた。
……すげぇな。
素直に、そんなことを思う。
あまりに無駄のない、洗練された動き。底の知れない力。
その片鱗を見て、ぐ、と息を呑む。
「……うん。いやぁ、助かったよ!」
瞬間、くるりと桔梗がこっちを向いた。
「ありがとう、文月班の諸君!」
これで無事、任務完了だ。そう言いながら彼は、俺たちに向けて、優雅にお辞儀をした。
――――この男が、皐月班副長、桔梗か。
絶対、敵に回したくない男。それが、桔梗への印象だった。
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