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五章『第四話 医務室、その後』
ぼんやりとした意識の向こうで、誰かの話し声が聞こえる。
聞き慣れた声。でも、頭がうまく働かなくて、それが誰かまでは分からない。身体は重たいし、頭に霞がかかったみたいにぼうっとしてしまう。
その声を夢心地で聞きながら、ゆっくりと、記憶を辿る。
確か、山吹と銀を逃して、一人で店に残って。それから――――。
瞬間、あの炎が脳裏を過った。
「――――燐……っ!」
気を失う寸前に見た光景。肌を焼いた、あの熱。……あれを、忘れられるはずがない。
咄嗟に、勢いよく身体を起こしてしまい、すぐにずきりと右手に痛みが走る。
「……っ!」
鋭い痛み。思わず顔を顰めれば、すぐ傍ではぁ、と息を吐く音が耳に届いた。
「……まったく。ちぃちゃんったら、起き抜けにまで坊やのことばっかりね」
呆れたようなその声に、はっと顔を上げる。
視界に映ったのは、目に眩しい真っ白な白衣と、薄紫色の長い髪。
彼と目が合った瞬間、その灰白色の瞳が、ふわりと優しく緩んで。その視線の温かさに、張り詰めていたものが、少しだけ解ける。
「夕廉、さん……」
喉がかさついて、掠れた声になってしまったが。それでも彼の名前を呼べば、夕廉さんはほっとしたように息を吐いた。
「ほら、まだ安静にしてなさい。呪術の処理を優先したから、傷の治療はまだ完全じゃないの。傷口が開いちゃうわ」
分かった?そうやんわり念を押され、素直に頷く。
「はい……わかり、ました」
「ん。いい子」
そう言って大人しくベッドに体を預ければ、夕廉さんは満足そうに笑った。
そっと視線を落とす。じくじくと痛みを訴える右手には、綺麗に包帯が巻かれている。
そういえば、短剣で刺されたんだったな、なんて――――そう、遅れて思い出して。あぁ、と小さく声が漏れた。
「確か……体の中と外の傷は、一度に治せないんでしたっけ」
前に聞いた夕廉さんの能力の話を思い出して、そう尋ねると。夕廉さんは露骨に嫌そうに顔を顰め、頷いた。
「そうよ。しかも、邪竜の呪いは先に片付けないと、傷の治療に専念できないの。もう本っ当に厄介!」
これだから、邪竜は嫌いなのよ!そう言って、夕廉さんは文句を零しながら、やだやだと首を振った。
「おかげで、手の治療が後回し。これでもし、ちぃちゃんの手に痕なんて残ろうものなら、どう落とし前付けさせましょうか」
「あー、ははは……」
すぅ、と目を細めて、剣呑な空気を醸し出す夕廉さんの姿に、思わず乾いた笑いが零れる。
――――うん。これ、本当に痕が残ったら多分、犯人、半殺しじゃ済まなさそう……。
冗談ではなさそうなその視線の鋭さに苦笑すると、不意に喉がひりつき、けほ、と咳き込む。すると、夕廉さんがふと、何かに気付いたような顔をして、徐に席を立った。
「夕廉さん?」
ほんの一瞬だけ視界から消えたその背は、すぐに戻ってきて、そっと俺へと何かを手渡してくる。
「とにかく、みんな無事だから。今はこれを飲んで、ゆっくり休みなさい」
そう言って差し出されたのは、白湯の入ったコップだった。
……流石、夕廉さんだな。
「……ありがとうございます」
みなまで言わず、欲しいものをくれた夕廉さんに、素直に礼を言って受け取る。
零さないよう、口を付けてゆっくりとコップを傾ける。温かい水が喉を通って、じんわり身体の奥へ落ちていく。
思わず、ほぅ、と息が漏れた。
「……まったく、本当にちぃちゃんはお転婆さんなんだから」
俺が落ち着いたところを見計らってか、次いで、夕廉さんのいつものやつが飛んできた。
さっきよりも軽口で、けれど、ずっとずっと優しい声。
「瑠璃ちゃんから連絡があった時、私、すっごく驚いたのよ? 昨日の今日で、こんなひどい怪我……」
何事かと思ったわ、なんて頬を膨らませるその姿に、また少し笑ってしまう。
「すみません……」
そう素直に謝れば、夕廉さんは一拍の間を置いた後、小さく息を吐いた。
「……ま、やましろツインズの話も聞いたから。貴方の判断が間違いじゃなかったのも、分かってるの」
ちょっと甘いとは思うけれどね。そう言いながら、ぽん、と頭を撫でられる。
「よく頑張ったわね」
その、まるで子ども扱いな仕草に。ちょっと気恥ずかしくて、俺は口を噤んでしまった。
例の店主、槐さんの怪我は軽傷で、治療ももう済んでいること。山吹の怪我も問題なく、今は銀と一緒に、槐さんを家まで送っていること。それから――――。
――――燐も、無事だという事。
夕廉さんは、俺が眠っていた間の事を、ひとつずつ丁寧に教えてくれた。
皐月班の桔梗さんが、あの過激派の男を抑えてくれたという話も聞いて。今度ちゃんとお礼に伺わなければと、頭の隅にそっと書き留める。
……それにしても――――みんな、無事で本当に良かった。
ほっと息を吐きながらそう零すと、隣から呆れたようなため息が返ってきた。
「もう。誰が一番重傷だと思ってるのかしら」
苦笑交じりの、じっとりとした視線。怒っている、というよりも、心配したと言わんばかりの、その視線。
その目に、もう何度目かも分からない、謝罪が口から零れ出た。
「……まぁいいわ。今回貴方を叱るのは、私の役目じゃないし。そろそろバトンタッチしようかしらね」
「……え?」
そう言って、よいしょと夕廉さんが立ち上がったものだから。思わず声が漏れる。
それって、どういう意味ですか――――。そう、聞こうとして。
「――――っ!」
夕廉さんの向かう先。そこに、ひとつの影を見つけて、息を呑む。
すぅ、と自分に向けられる、赤い眼。
「……燐」
いつからそこにいたのか、壁に背を預けるようにして立つ、人影。その見慣れた赤い瞳と目が合って、思わず口を閉ざしてしまった。
「…………」
燐は、何も言わない。視線は確かに合っているのに、なにも。珍しいくらいに静かだ。
そんな中、夕廉さんはスタスタと燐の方へと歩いていく。
「ここから先は坊やに任せるけど……分かってるわよね? ちゃんと男を見せなさいよ」
「……はい。ありがとうございました、夕廉さん」
神妙な顔で頭を下げる燐に、夕廉さんはふん、と鼻を鳴らす。
それから振り返って、にこりと、俺に笑いかける。
「それじゃあ、ちぃちゃん。またね」
ひらりと手を振って、いつも通りの軽やかな足取りで。そのまま夕廉さんは、医務室を出て行ってしまった。
「…………」
……静かだ。
ついさっきまで、賑やかだったのに。夕廉さんが出ていった途端、部屋の空気がしんと静まり返る。
――――なんで、何も言わないんだよ。
じとりとした目で、俺を睨むくせに。てっきりすぐ、怒鳴られるか、掴みかかられるかするのかと思ったくらいなのに。燐はじっと、ただ黙ったままだ。
……なんだよ、この空気。
「……あー、その……ありがとな、助けてくれて」
「……ああ」
居たたまれなくて話しかけても、何故か生返事で。背中を、じわりと嫌な汗が伝う。
普段の燐は、とにかく分かりやすいのに。……こういう時ばっかり、この男は読めない顔をする。
――――見たことないくらい、真剣な顔。その顔が見慣れなさ過ぎて……さっきから胸がドキドキして、苦しい。
怒ってるのか?心配させたから。……それとも、呆れてる?……分からない。
分からなくて、胸が苦しくて。うまく、言葉が出ない。――――でも。なんというか……それだけが、この苦しさの原因じゃない気がする。
――――なんで、燐に見つめられてるだけで、こんなに……。
『ちゃんと、考えろ』
その時。
――――あ。
瞬間、脳裏に過った、燐の言葉。
『今すぐどうこうしろとは言わない。でも、避けるのはやめろ』
――――そうだ。……そうだった。アレのせいだ。
思い出してしまった、あの言葉。燐が落とした、爆弾。
その、答えに――――辿り着いたせいだ。
「――――っ!」
気絶する直前、思った言葉。ただ純粋に、離したくないと、手を伸ばしてしまった温もり。
瞬間、ぶわわっ、と顔に熱が籠ったのが分かった。咄嗟に両手で、顔を覆う。
そう、自覚したから。だから、燐の顔を見るだけで、こんなにも胸が苦しいんだ。
「……なんて顔してんだ、お前は」
その時。ぼそり、と、今まで黙っていた燐が、ようやく口を開いた。
「ぅえっ⁉ な、なに、顔……っ⁉」
勢いよく顔を上げ、燐を見る。
なんだ、顔?そんなに変な顔をしてるのか、俺は?
それは嫌だ、格好悪い……!
慌ててまた、さっきとは違う理由で顔を手で隠すと、燐があー、と声を落とした。
「いや……まぁ、その話は別にいい」
がしがしと乱暴に頭を掻きながら、どこか歯切れ悪くそう言って、燐はようやく壁から背を離した。
そのまま、静かにベッド横まで歩いてきて。すぐ傍の椅子に、腰を下ろす。
突然縮められた距離から向けられる、変わらない強い視線に、ぅぐ、と言葉を吞み込んでしまう。
そんな俺を一瞥した後、燐は口を開いた。
「……お前に、言っておきたいことがある」
真っ直ぐ向けられるその眼差しに、思わず息を呑む。
けれど燐は、そんな俺の様子なんかはお構いなしに、すぅ、と息を吸い込んだ。
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