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五章『第六話 お前は分かってない①』

「俺と一緒に生きてくれ」  しん、と静まり返った室内に、その言葉だけがはっきりと響き渡る。  仕事の話だと思っていた。今後の為にも、気をしっかり引き締め直そうと……そういう話だと。  なのに――――。 『婚姻』 『一緒に、生きる』  頭を真っ白にさせるには、それはもう十分すぎるワードだった。 「っ、ま、待て待て、待ってくれ……っ!」  反射的に両手を突き出し、目の前の男に待ったをかける。  ――――なんだそれ。……なんだよ、それっ。  混乱する頭を、どうにか回す。 「なんだってそんな話に……っ⁉」  燐は口を閉ざしたまま、俺を見つめている。どうやら、律儀に俺の言葉を呑んで、待ってくれるらしい。  けれど。その目が、俺を捉えて離さないから。ばくばくと心臓が煩くなる。動揺のせいで、頭も結局上手く回ってくれない。  婚姻って、どういう意味だよ……っ?  もちろん、言葉の意味は分かる。分かるけど……なんで、それを俺に言う……っ⁉ 「…………」  燐は、何も言わない。俺の答えを、ただ待っている。  「……っ」  その視線が、あんまりにも真っ直ぐすぎて。冗談の類じゃないことは、一目瞭然で。  だからこそ、益々混乱する。  もしかしてと……勘違いしてしまう。 『待つから』  不意に、脳裏を掠める声。  ――――そんなわけない。 『俺は、逃がす気ないから』  ――――違う、違う。きっと、そういう意味じゃない。  どくどくと、心臓が早く脈打って、苦しい。上手く呼吸ができない。  あの時のアレだって、そんなつもりじゃないはず。期待なんてするな。  ――――そもそも、燐が俺に……ただの幼馴染の男に求婚する理由なんて、ないはずで。  だからきっと、これは別の意味だ。比喩とか、なにか遠回しな言い方とか、そういう。  燐、たまに変な言い回しするし。 「……え、っと……」 「…………」  昨日のことまで思い出したら、余計に脈が速くなって苦しくなるから。落ち着けと、自分で自分に言い聞かせる。  燐は、まだ何も言ってこない。ただじっと、こっちを見たまま待ってる。  本当に、懐に入れた人間にはとことん甘い男だ。  優しくて、格好良くて。けど、たまに幼い子供のように、執着心を見せる。子供が、大事なものを取り上げられる時に嫌がるような……。  「…………あ」  瞬間、ふと。  ひとつ、頭の中で、線が繋がった。   「……ああうん……そういうことか」  ぽつりと零した瞬間、燐が僅かに眉を寄せる。 「……どうした?」  緩く首を傾げる燐に、今度は真っ直ぐ目を見て告げる。 「分かったよ、燐」  お前が言ってる、言葉の意味が。  そう俺が言うと、燐は一度だけ目を緩く瞠らせて。でも、すぐにまた眉を寄せて、険しい顔をする。 「……それで?」  落とされたのは、滅多に聞かない低い声だったけれど。  けど俺は、ようやく納得できた気がして、そのまま続けた。――――続けてしまった。 「心配しなくても、どんな処遇を言い渡されたって、俺とお前の関係は変わんないのに……本当優しいよな、お前」  瞬間。燐の表情が、止まった。  ――――それに、俺は気付けなくて。言葉を続けてしまう。 「やっぱ、副長降格か? いや、その言い方だと異動かな。……そうだよな、流石に今回のは副長として失態だし」  だから、あんな回りくどい言い方をしたんだろ。そう考えれば、全部納得できるし。  まぁ、だとしても大げさだと思うけど。  同じ班でいたいとか。  今後も、傍にいたいとか。  俺が、燐の傍にいるのが当たり前すぎたから。まだ傍にいてほしくて。だからきっと、そんなつもりで言ったんだよな。 「安心しろよ。他所に行っても、お前の様子を見に来るくらいは――――」 「――――千草」  言葉の途中、名前を呼ばれてびくりと肩が跳ねる。 「……っ?」  さっきよりも、押し殺した声だった。低く、掠れた、静かな声。  それに顔を上げた、瞬間。  俺を捉える紅い瞳が、す、と細められる。 「……お前、本気で俺がそんな理由で|婚《・》|姻《・》なんて言葉、使うと思ってんの?」 「……え」  怒鳴ってるわけじゃない。むしろ、燐にしては珍しいくらいに、静かで。  ぞわりと、背筋が粟立つ。  ――――……これ、本気で怒ってる。  なんでと、今の話にそこまで怒る要因があったかと、ぐるぐる考える。 「や、だって……」  苦しい言い訳みたいな、そんな声が口から漏れる。 「今回の件、俺の失態なのは事実、だろ?」  下手したら、国際問題に発展しかねない案件だった。それを防げなかったのは、俺の落ち度だ。  だから、と続ける。 「お前が、気を遣ってくれるのはありがたいけど……。でも、そこまでお前が気に病む必要は――――」  ない、と、言いながら。目の前の男の顔が、どんどん険しくなっていくから。声が尻窄みしていく。  なんで、そんな顔をするんだ。  本当に分からなくて、ついに俺が口を噤んでしまうと。手前で、深く重いため息が落とされた。 「……何が、分かっただ。全然お前は分かってねぇよ」  視線を落とし、がしがしと雑に頭を掻いて。と思えば、勢いよく顔を上げて、天井を見上げる。 「千草」  それから、名前を呼ばれた。低く、押し殺した声で。 「な、なに……」 「お前さ」  食い気味に返ってきた声に、思わず息を呑む。  すると、外れていた赤い眼が、す、と俺へ向けられた。 「なんで、自分が切り捨てられる側だって発想しか出てこないの」 「――――っ!」  瞬間、言葉が詰まった。  それでも。燐はなおも言葉を連ねる。 「いつも、お前の選択肢には、肝心なものがない」 「な、なんの話――――」 「分かってんだろ」  逃がさないとでも言いたげに、食い気味に投げられる言葉。  真っ直ぐな赤い瞳は、俺を捉えて、離さない。 「――――お前さ。自分が好かれる可能性を、最初から除外するよな」  始まりから、自分は程よい立ち位置でいいと。周りと一歩分後ろに引いて、深入りすることを拒む。  『誰よりも一番』を作らないし、作らせようとしない。  言い当てられて、ぐ、と喉が詰まる。 「そ、れは……」  だって。仕方ないじゃないか。  ――――怖いんだ。また、失うのが。  大切なものがなくなったあの喪失を。胸に、ぽっかりと穴が空いたみたいな、あの空虚感を。もう味わいたくないと思うのは、悪いことなのか。  失うくらいなら、初めからない方が良いって。そう思っちゃいけないのか。  俺が口を閉ざしていると、燐は小さく息を吐いた後、口を開いた。 「俺は、お前を手放したくない」 「――――っ」  また、強くそう言われる。  昨日と同じ、あの真っ直ぐな、赤い瞳。 「お前が何考えてるんのかは分かってる。千草は、全然分かってねぇけど」  ――――それこそずっと、ずっと隣で見てきたんだから。  ぐしゃりと、前髪を掻き上げて。燐が呟く。  その声は、苛立ってるのに……何故か、妙に苦しそうで。口を挟めなかった。 「り、ん……」  名前を呼ぶだけが精一杯で。何も言えない。 「俺は、お前が呼べば、どこにいたって行くし。お前が怪我をしようものなら、真っ先に駆けつける。……避けられてるだけで何日も悩むくらい、ずっとお前の傍にいたい」  はぁ、と息を吐いて。俺を静かに見下ろす。  なぁ千草と、静かに、燐が零した。 「これでもまだ、お前は“俺が班長として優しいだけ”で済ませんの?」  その言葉に、胸がぎゅっと締め付けられる。  だって、そうお前は言うけど……。  俺なんて、顔は平均的で、力も強いわけじゃない。頭だって、良くも悪くもない。特筆するような長所もない人間だから。  燐みたいに、外身も中身も格好良くて、何でもできる奴が、俺と一緒にいてくれるだけで奇跡だったから。  だからそもそも、そんなの、勘違いする方が可笑しいって……。 「――――だ、って、お前は……誰にでも優しいし……」 「誰にでも婚姻迫るほど、お前に俺は節操なしに見えてんの」  真顔でそう返され、声が詰まった。 「え、……? あ、いや……、あれ……?」  そう言われて、考える。  あれ、確かに。  燐は、そんな人間じゃないって知ってる。  真面目で、馬鹿正直で。誰にでも誠実な奴。嘘だって、分かりやすいものしか聞いたことがない。  ――――でも、そうしたら……。 「…………はぁ」  なんとか思考を巡らせていると、不意に燐が、深くため息を吐いた。  それは、さっきみたいに冷たい空気を纏ったそれとは違う。呆れた、けれどどこか温かさを感じるものだった。 「駄目だな、これ」 「へ?」  そう、ぽつりと零した次の瞬間。  燐の手が、俺の肩を強く押した。 「っ、ぅわ――――っ⁉」  突然の力に、少しも抵抗できず。背中がそのままベッドに沈む。 「な、なにす――――っ」  咄嗟に顔を上げると、視界に映るのは天井と、燐の顔。  押し倒されている。そう認識するのに、さほど時間はかからなかった。  ――――っ⁉ ち、近……っ⁉  目と鼻の先に、好きな男の顔がある。その状況で、冷静な判断ができる人間がいるのなら、是非とも教えてほしい。  俺には無理だから。 「ここまで言って伝わんねぇなら、誤解できないよう、はっきり言ってやるよ」  どくどくと、心臓が暴れている中。そんな俺に気付いていないのだろう、燐の赤い瞳が、真っ直ぐに俺を射抜く。 「まずそもそも、お前に降格の通達は来てないし、もちろん異動の話だってない」 「……えっ?」  予想が外れてしまい、思わず声が漏れる。  すると、燐は続けて『思えば、お前は昔からそうだよな』とぽつり、落とした。 「すぐ変な方向に考えるくせに、肝心なところは鈍い」  にしたって、ここまで鈍いとはな、と、燐はぼやくように呟いた。  それが、なんだか馬鹿にされてるように感じて。ちょっとムカついて燐の名前を呼ぼうと、口を開いた時。 「……なぁ、千草」  燐の手が、ひたりと頬に触れて。肩がびくりと跳ねた。 「ひぇっ⁉」  熱い。触れたところが、火傷しそうなくらい。それだけで、声が上擦った。  そんな俺を見て、ふ、と燐が笑った。 「お前の意思は尊重したいけど。他の奴に取られるのも、お前が怪我するのも嫌なんだよ」  すり、と目尻を撫でられる。その動きが、あんまりにも優しくて。壊れ物にでも触れるみたいなその動きに、ぞわぞわと背中が痺れる心地がした。  それなのに。俺を見下ろすその目の奥に滲んで見える感情が、どろりと、俺を捉えて離さないから。  優しい手つきとは裏腹に、重くまとわりつく視線に。ごくりと唾を飲み込む。 「なっ、に、言って――――」 「――――お前が好きだ」  すると。はっきりと。そう、言われた。 「…………え」  聞き間違えようもなく、真っ直ぐに。燐の赤い瞳に、俺だけが映っている。 「もう、ずっと前から。俺にはお前しかいない」  すりすりと、燐は頻りに俺の頬を撫でる。……それは愛おし気に。  言葉が出ない俺を見て、燐がまた少しだけ笑った。 「ここまで言えば、流石のお前も分かるよな?」  勘違いでもなんでもなく、俺はお前に求婚してるんだよ。  そう言われて、思考が止まってしまう。 「……好き?」 「ああ」 「……誰が、誰を?」 「ふ。だから、俺が、お前を」  反射で質問すれば、当然みたいに返される。  そしたら、燐がにんまりと、意地悪く笑った。 「お前も、俺のこと好きになってくれたんだろ?」  その、言葉に。  混乱していた思考が、瞬時に鮮明になって。ぶわりと、一気に顔が熱くなった。 「――――っな⁉」  燐が、俺を好きと言った。  それだけじゃなく、俺も、燐が好きだとバレた。  そのふたつは、俺の思考回路をショートさせるには十分すぎる破壊力だった。 「なななっ⁉ なんで……っ⁉」 「っふ、くく……っ。顔、真っ赤」  動揺しまくりの俺を見て、燐は嬉しそうに表情を崩し、俺の頬を撫でる。 「やっぱ、そうだったんだ。……千草、可愛い」 「かっ、可愛っ⁉」  とろりと、聞いたこともないくらい甘く、優しい声音に。益々顔の熱が上がっていく。  どくどくと、胸が苦しい。  顔が熱い。  まともに、頭が働かない。 「本当、鈍いよなぁ、千草は」  くつくつと楽し気に笑う燐に、笑うなと怒りたくて。口を開いたのに。 「まぁ、そこも含めて好きだから、仕方ないかぁ」 「すっ、――――っ⁉」  そんなことを、さらりと落とされて。  俺はもう、無意味に口をはくはくと開閉させることしか、出来なくなってしまった。

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