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第2話 奴隷の青年

薄い光のなかでも見えた。褐色の肌、決して太いとは言えない腕、細い指。 腕は手首から二の腕の半分ほどのところまで見えている。 彼は手首を曲げ、壁をぺちぺちと叩いた。 「おうさま? 近くに、いる?」 まるで、友人に語り掛けるように。 私はゆっくりとその腕に近づいた。これは夢ではないかと疑いながら。 「──いる……いるよ」 「……生きてるなら、よかった」 「君は誰だ? 名前は?」 「ヒスイ」 「ヒスイ、なぜ我がビワイエの言葉を使える?」 「…………」 青年は答えてくれなかった。それでもよかった。誰かと話したことで、自分がどれほど孤独に苛まれ、自分を失っていたのかということに気づいた。生きる意志ごと他人と切り離され、これまで自分の背中を押し続けていた希望まで失っていたのだ。 それから手はすっと引っ込んで、またたくさんの光が溢れた。 砂が零れる音が、絶望を予感させる。 また、孤独になるのではないかと。 「──! 待ってくれ、……お願いだヒスイ、行かないでくれ」 私は壁に向かって叫んだ。 まだこんなに大きな声が出るのかと、自分でも驚くほどの大きな声だった。 「行かないよ」 ヒスイの声。 心の底からほっとする。 「ヒスイ……」 「少し待って。これ、ここから入るかもしれない」 「……?」 その直後、再びその腕が入ってきてくれた。今度は小さな青い林檎を持って。 林檎は穴より少し大きかったらしく、幾らかは擦れて皮が剥けていた。土がついて汚れているが、そこから溢れ出る甘い香りは、あまりにも懐かしく、あまりにも美味そうだった。 「これ、食べて」 「……いい、のか」 「まだ硬くて、酸っぱいかもしれないけど」 彼が言い終わる前に、私は林檎を奪うようにして取り、噛りついた。 まだそんなにも身体のなかに水分が残っていたのかと驚くくらいに唾液が出る。それごと飲み込み、乾き切った口内や喉に沁み込ませた。何度か咳き込みながらも、芯まで咀嚼する。 「慌てないで。よく噛んでね」 「ああ……」 「おいしい?」 「とても美味しい。人生で食べたもののなかで、いちばん美味しいよ、ヒスイ」 「そう? 酸っぱくないなら、よかった」 心配する青年の声を聞きながら、私は涙を止められなかった。貴重な水分だ、泣かない方がいいに決まっているのに、だめだった。林檎はありがたく、青年の声は優しすぎた。 茎以外の総てを貪り食い、大きく息を吐く。嘘でなく、お世辞でもなく、こんなに美味い林檎は生まれてこのかた食べたことがなかった。 「もう、行かないと」 やがて、彼がそう言った。 私は反射的に穴から外を覗いてみた。細いトンネルの向こうは眩しくてよく見えないが、男の右頬と口元だけが見えた。そのようにして穴に向かって喋ってくれていたのだろう。 おそらくだが、頬骨のあたりから唇の横まで、まっすぐで黒く、太い線。この地域では奴隷であることを示す化粧だ。私の見張りを依頼されている者かもしれない。 しかし、いまはそんなことはどうでもよかった。ヒスイが敵国の者であろうと、誰であろうと。 「ありがとう。ヒスイのおかげで、生きる希望が湧いた」 「また食べ物を持ってくる。水も。おうさまが生き続けられるように」 いまはこれだけしかなくて、と彼は申し訳なさそうに言う。 「……十分だ。ありがとう」 「穴をもっと大きくできたらいいのに、できない。これだけで何日もかかった。僕は魔力があまり強くないから……ごめんなさい。石や土に効くけど鉄には効かないから、窓は壊せない」 「いいんだ。何日もかけていてくれたんだね。気付かなくて申し訳なかった」 「うん。だから、死んだかと思っていた。声が聞こえて、よかった」 私は思っていたよりも自分の孤独に集中してしまっていたらしかった。 「ヒスイ。生き続けられるように、がんばるよ」 「そうしてほしい。死なないほうがいい、きっと」 「私のことは王様でなく、アクアと呼んでくれるか」 「アクア?」 「そう。それでいい。私の名だ」 この青年の前で、王である意味はなにもないのだ。 「うん。アクア」 「……ヒスイ」 「アクア。また、来るね」 しばらくすると、青年の気配は消えた。 何日ぶりかの恵みに、死にかけていた心が生き返った気がした。 林檎ひとつでこうも回復するのか。 自分の存在はもう不要かもしれないが、こうやって生かそうとしてくれる者がいる限り、生きてここを出ようと決心することができた。

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